2024年8月18日 「イエスさまは罰を与えない」 ヨハネ8:3-11
ある学校で、生徒たちが大きな問題を起こし、職員会議では、この生徒達に重い罰を与えよう、という意見が強くなっていました。けれども、校長先生だけは、罰を与えることに、断固反対しました。そして、生徒達が問題を起こしたのは、校長である自分の責任です、だから、生徒達よりも自分が罰を受けなければなりません、と訴えました
校長は、杖のようなものを持ち出して、手を伸ばして、罰として、自分の手を何度も何度も打ち据えました。すると、生徒達に重い罰をくだすべきだ、という声は静まっていきました。
この人の名前は、新島襄、と言います。新島襄は、京都の同志社大学の前身の、同志社英学校を、今から150年前に創立した人です。
わたしも同志社大学の卒業生です。けれども、150年前卒業したわけではありません。35年くらいまえのことです。
新島襄が生徒を罰するかわりに自分の手を打ち据えた杖が、わたしは見たことはありませんが、同志社大学のどこかに今も保存されているらしいです。本物ですかね。
新島襄は、なぜ、こんなことをしたのでしょうか。
それは、新島襄が、クリスチャンであり、イエス・キリストの生き方に従う者であったからです。
では、新島襄が人生においてつき従ったイエス・キリストはどのようなお方なのでしょうか。
イエス・キリストは、わたしたちの罪のために、十字架についてくださったお方です。
わたしたちの罪とは、どんな罪でしょうか。
わたしたちは、自分を創ってくださった神さまを信頼しきっていません。神さまのことをすぐに忘れてしまいます。ときには、神さまよりもお金や目に見えるものをたよりにしてしまいます。これがわたしたちの罪です。
わたしたちは、また、自分以外の人を十分に愛することができていません。自分以外の人も、神さまが創られた大切な人達なのに、わたしたちはその人たちを十分に大切にはできていません。それどころか、時には傷つけてしまいます。これもわたしたちの罪です。
ようするに、わたしたちは自分のことしか見ていないのです。自分のことばかり。自分のことばかり。自分のことばかり。神さまのことも、自分以外の人のことも見ていません。
それがわたしたちの罪なのです。
けれども、神さまは、そのわたしたちに罰を与えないのです。神さまから切り離してしまうという罰を与えないのです。わたしたちを見捨てるという罰を、神さまはお与えにならないのです。
そのかわりに、神さまは、イエス・キリストを十字架につけられました。イエス・キリストは、神さまのひとり子であり、同時に、神さまご自身です。ですから、神さまご自身が、わたしたちの代わりに、十字架についてくださったのです。罪人であるわたしたちのかわりに、イエス・キリストが十字架につけられて、苦しんで、死んでくださったのです。
このことによって、わたしたちは、神さまから罰を受けません。神さまから切り離されません。神さまから見捨てられません。
神さまは、今、わたしたち、ひとりひとり、みなさん、ひとりひとりと一緒にいてくださり、しっかりつながっていてくださり、無条件に愛してくださいます。
校長であった新島襄が、生徒達の代わりに、自分を罰したということは、このイエス・キリスト、この神さまのお心にしたがったということなのです。
わたしの父は厳しい人でした。わたしはよく罰せられました。子どもの頃は、おそろしい声で𠮟りつけられました。石の土間に正座をさせられました。おまえのようなやつは生きる資格がないしかない、と言われました。まあ、わたしは今も生きていますが。神さまに生かされていますが。
中学校になると、成績のことで、よく怒られました。中学(公立中学)の最初の中間試験、学年で7番、350人中。当然、ほめられると思いましたら、なんだ、この成績は!と𠮟りつけられました。どうして、1番にならないのか、と怒鳴りつけられました。父は、点数や成績のことで、わたしをつねに叱責しつづけました。
けれども、わたしは、大学に入って、聖書を学ぶようになり、イエス・キリストはわたしたちの代わりに十字架についてくださった、このことを、はっきりと知りました。
わたしたちの罪は赦されている、わたしたちは神さまから無条件に愛されている、
神さまは成績によってわたしを叱責しない、神さまは成績の悪いわたしも赦してくださる、
このことを、聖書から学び、牧師さんとのキリスト教勉強会で学び、わたしは救われました。神さまはわたしに罰を与えない、神さまはわたしを赦してくださる、神さまはわたしを無条件で愛してくださる、わたしが困難なときにも、罰を受けているのかなと思うほどの困難に見舞われるときでも、じつは、神さまはわたしを見捨てずに、わたしとつながっていてくださるのです。聖書のこのメッセージがわたしの救いです。
今日の聖書を振り返ってみましょう。
ヨハネによる福音書8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
「こういう女は石で打ち殺せ」・・・生徒達に重い罰を与えようとした教員、わたしを叱責した父、わたしたちは、人をこのように裁き捨てようとします。わたしたちは、このように、人からは裁き捨てられることがあります。
けれども、イエスさまはわたしたちを裁き捨てることをけっしてなさいません。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
人びとがこの女性を罪に定めなかったのは、この女性を赦したからではありません。自分たちも罪人であることをイエスさまから指摘されたから、この人だけを罪に定めることができなかったのです。人びとは、本心では、この女性を罰したいのです。
けれども、イエスさまは、この女性を罰しません。イエスさまは、わたしたちをけっして罰しません。 イエスさまは、わたしたちを裁き捨てず、お見捨てになりません。
これが、イエス・キリストの御心です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
「わたしも」とありますが、イエスさまは、ほんとうは、「わたしは、あなたを罪に定めない」と言っておられるのです。「人は、人間はあなたを罪びととして裁き捨てようとするが、わたしは、あなたを罪に定めない、罰を与えない」とイエスさまはおっしゃってくださるのです。
人は、この女性を責めますし、人はわたしたちを責めます。人は、わたしたちを罪に定め、罰を与えようとします。けれども、イエスさまは、神さまは、わたしたちを罰しないのです。
「行きなさい」・・・とイエスさまは言われました。「行きなさい」とイエスさまは言われます。イエスさまはわたしたちを罰するのではなく、前に押し出してくださるのです。
そして、罪から少しでも離れた生活、言い換えれば、今よりも神さまを信頼し、今よりも人を大事にする生き方へと促してくださるのです。
イエス・キリストはわたしたちを罰しません。それどころか、行きなさい、人生の道を歩みなさい、と、前に促してくださいます。
わたしたちは、ともに、イエスさまに赦された者として、イエスさまとともに、今週も人生の道を歩みましょう。
お祈りをいたします。神さま、わたしたちは、あなたを十分に信じることができない罪人です。自分以外の人を十分に愛せない、大切にできない罪人です。けれども、神さま、あなたは、わたしたちに罰し、裁き捨てないでくださいます。そのために、イエス・キリストが十字架についてくださいました。驚くべき恵みです。神さま、あなたの深いお赦しに心から感謝いたします。神さま、あなたはわたしたちに、前に行きなさい、前に進みなさい、と言ってくださいます。今週も、あなたに導かれて、わたしたちがともに、前に向かって歩くことができますように、お導きください。
いっしょに教会を築きませんか。
プロテスタントにはいくつもの教派(長老教会、組合教会、バプテスト教会、メソジスト教会、ルーテル教会・・・)があります。
まぶね教会は、プロテスタントではありますが、特定の教派には属しておらず、集まる人の信仰や教派的背景は、伝統的、保守的、リベラルなど、さまざまです。
しかし、わたしたちはこの多様性を「ゆたかさ」と考え、それぞれの相違を大事にしています。
これまでの教会で傷ついた方もおられると思いますが、まぶね教会で、わたしたちと一緒に、聖書、創造者、イエスを信仰の中心にしつつも、ひとりひとりの個性を尊重し合う共同体を築きませんか。
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