使信 2016.10.16

<2016年10月16日使信「目標をめざしてひたすらに」>
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章7-21節 石井智恵美

「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけ
   でもありません。なんとかして捉えようとして努めているのです」(フィリピ3:12)

【寄贈された最後の晩餐の木彫り像】


わたしは、洗礼を受けた高校生の時に、「救われた私たちは」という牧師の言葉が嫌いでした。洗礼を受けていない人も、やはり神様の愛されている一人であり、洗礼を受けた私と何も変わらないではないか、と思っていたからです。そのような時にパウロの言葉「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。なんとかして捉えようとして努めているのです」に出会い、心底ほっとしました。パウロですらそうでした。信仰を持たない人々と同じように、不完全な人間である、ということを良しとしているのです。そのうえで「なんとか捉えようとして努めている」と、常に途上にある人間であることを、パウロは告白しています。そして、その理由は「キリストに捕らえられているから」なのです。当時のフィリピの教会の中にいたパウロの反対者たちのスローガンは、「わたしたちは既に完全な者になっている」というものでした。パウロの反対者たちは、ユダヤ主義的キリスト者たちで、律法を守ることによって自分たちは完全な者になっており、既にキリストの栄光に与っている、と主張していたようです。十字架の苦しみと恥には思いをいたさなかったのです。そこが、パウロの理解とは正反対でした。パウロにとっては十字架の苦しみと恥のただ中にこそ、神の恵みが満ち溢れていたからです。
先日、ノーベル文学賞を受けたアメリカのシンガー・ソング・ライター、ボブ・デイランが、一躍有名になった曲「風に吹かれて」の一節を紹介します。
「どれだけ道を歩けばいいのか?一人前の男と呼ばれるまで。/ いくつの海を白い鳩はわたらなければならないのか?砂浜で安らぐまで。/ 何回砲弾が飛ばねばならないのか?武器が永久に禁じられるまで。
その答えは友よ、風に舞っている、答えは風に舞っている」
三番では「何回見あげれば、空は見えるのか?/いくつ耳を持てば民の嘆きは聞こえるのか?/何人死ねば、あまりに多くの人が死にすぎたとわかるのか?」と歌われる。「その答えは友よ、風に舞っている、答えは風に舞っている」
われわれには、耳に心よい平和ソングに聞こえますが、1960年代から70年の学生変革の時代、特にアメリカの激しい公民権運動の中で盛んに歌われたプロテストソングです。デイランが歌った、時代を超えた人々のやるせない嘆き、変えたいと人々が願いながら変わらない壁のような現実に向き合いながら、デイランは安直な答えを拒否しています。「その答えは友よ、風に舞っている、答えは風に舞っている」と。
パウロが語った「わたしは既にそれを得ているのではない、何とかして捉えようとして努めているのです」という言葉と重なっているように思います。パウロは、人々に問いかけて、それぞれが苦しみながら答えを出すように促しています。既成の誰かが考えた耳に心地よい安直な答えにとびつくな、と呼び掛けているようです。
世界的に右傾化が進んでいる今だからこそノーベル賞委員会はボブ・デイランの詩が与えた影響をあえて評価したのだろうか、と思えてきます。
歴史の中で、パウロの語るように多くの人たちが、「すでに完全な者になっているわけはない、捕らえようと努めている」とまだ見ぬ結果を求め、信仰の道を走ってきました。途上にあるということは、まだ見ぬより完全なものを求めるということであり、生きる限り私たちは途上にある、と言えます。私たちもまたその道に連なり、最善を尽くして、結果は神にゆだねてまいりたい。神の御旨は人の志によって媒介されます。そのような神の御旨の道具となれれば幸いです。