<2014年受難節第1主日3・11東日本大震災祈念礼拝使信「誘惑を受けるイエス」>

聖書:マルコによる福音書1章12-15節
 それから“霊”はイエスを荒野に送りだした。イエスは40日間そこにとどまり、サタン
から誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


【湖水の照り返し】
2011年3月11日東日本大震災。あれから3年がたとうとしています。
山浦玄嗣(はるつぐ)『何故と問わない』(教団出版局、2012)を読みました。その中で次のような言葉があります。

「今回のような震災が起きたことを『不条理』と捉える向きもありましたが、そもそも生そのものが不条理とも言えます。魚は人間に食べられるために、ある日巨大な網にからめ捕えられて殺されます。家畜の豚は、今日もえさがもらえると思って飼育員に走り寄ったら、屠られてしまう。人間だけそうした不条理にまったく遭わないという道理は通用しません。」「この地方の独特のスタイルに津波もあるのです。40年に一回は大津波が来て、人口の1割か2割がさらっていかれるのです。これは当たり前のことなのです。必ずこうなるのです。この世界はそういうふうにできているのです。それに文句を言っても始まりません。言うだけ無駄です。『何故』と問うこと自体に意味がないと私は思います」 
これは山浦氏の信仰告白だと私は思いました。

 我々の生は「不条理」です。イエスが神からの大いなる祝福の後にこの荒野の試みを受けたことは、この視点からわかる気がします。イエスもまた「不条理」を被る運命にある人間として生まれたのです。宣教活動を開始する前に、そのことをあえて凝縮して味わう必要がイエスにはあったのではないでしょうか。何故と問うこと自体意味がない、と山浦氏の言う厳然とした地球の秩序、神の秩序、その一部としての人間を、イエスは荒野で獣たちと共に体験したのではないでしょうか。

 「誘惑」=「試み」は、しかし結果がわかりません。それを体験しくぐりぬけたことで初めて克服できるものであって、自分が破滅するかもしれない危機と隣り合わせです。イエスが「霊」にあえて導かれて荒野に行き、試みを受けたことーそこには限りのない神の人間への愛があります。何故「試み」に導かれたのかはわかりません。しかし「試み」の中でこそ、実践的な知恵は磨かれます。主の祈りで「試みにあわせないでください」と私達は祈ります。時に「試み」にあっても乗り越えて行く勇気と力を私達に与え下さい、とこの受難節の時、祈ってもいいのではないでしょうか。しかしそれは「私」が中心になるのではなく、神が中心となる事です。神のことばを中心にすることによって、イエスも富、権力、奇跡を起こす超人的な力への誘惑を乗り越えることができたのです。
 3・11大震災の犠牲になられた人々、被災して立ち上がった人々、まだ、再建の見通しの立っていない人々、今、受難のただ中にある人々を覚えたいと思います。どんなに小さな歩みでも、受難の中にある人々と連帯しながら歩んでまいりたいと思います。試みを受けたイエスが、まず私達に先だって歩んでおられるのですから。