4月の言葉ー「あなたは私の愛する子」(マルコ1・11)

 この言葉は、イエス・キリストがヨルダン川で、ヨハネから水の洗礼(入信儀式)を受けた時に、天から神の声がした、と言われている、その言葉です。神様は、この世界を造られた時に「すべて良かった」と、祝福の言葉を述べています。その根源的な祝福と、「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、つながっています。もちろん、これは身と心を清めてすべてを神と人に捧げる決意をし、洗礼を受けたイエスへの祝福の言葉です。でも、神はすべての人に、この祝福の言葉をかけているのです。なぜなら、神様の愛は、条件つきの愛ではないからです。成績がよかったら、立派な業績をあげたら、愛してもらえるのではないのです。あなたのありのままを神様は愛してくださる。そのことを伝えるために、イエスはこの世にやって来ました。ありのままのあなたで、十分に愛され、祝福されている。だから、今、周囲の人々に心を開き、愛し愛され平和を造り出そうと、呼びかけておられます。

【まぶね教会の花壇。春の花が次々に開いて目を楽しませてくれています。Tさんが心をこめて手入れしてくれています】 

No.137 <電気使わず、使うのは手と脳ミソ>

前から気になっていたテーマが、電気をいかに減らして生活ができるか。
3・11の原発事故の後、日本のエネルギー政策は転換を迫られています。そして、福島の人達は、東京電力の電気を1kwも使っていないのに、その甚大な被害を受けたのです。これは本当におかしいことです。利益を受ける側と、リスクを受ける側が一致していない。リスクを福島に押し付けて、利益だけを受けている東京電力の電気を使っている私達が、ライフ・スタイルを見直さなければ、この構造は一向に変わらない、と思ってきました。なんとか少しでも電気に頼らない生活をしたい、と思いつつ、なかなか実現は難しい、というのが実情でした。そのどんぴしゃりのテーマで話をするというので、行ってきました。はらみずほ著『できた!電気代月600円生活』(北海道新聞社、2013)の著者のお話です。三軒茶屋のカフェで開かれました。

【カフェオハナのプレートです。オーガニック・ベジタブル食です。おふを使った揚げ物が絶品でした】












【左:パートナーの坂山さん、右:はらみずほさん。ちょっと照れてますね・・・掛け合い漫才みたいでした】



まず、電気代の明細書を持ち寄って、その情報を共有するところから話が始まりました。うちは二人家族20Aで3月は4,700円の電気代。一人の青年は、20Aで1480円とかなりがんばっていました。それから、自分の家にある家電を、リストアップして見ました。冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、電子レンジ、PC,テレビ、携帯電話、掃除機、照明、オ―デイオ機器等々…。はらさんは、その家電一つ一つの使用電気量を教えてくれて、ざっと自分の家の電気量を概算してみました。うーん、やっぱりかなり使っている。ちなみに、はらさんの家は、二人家族5A、先月は電気代200円台までに落とせたとのこと。彼女は、まず、電子レンジ、炊飯器をやめて、すべてお鍋と火で料理することにしたそうです。電子レンジは1000Wかかります。それからテレビ(600-1300W)をやめたそうです。情報は、ほぼ、インターネットや、生のコミュニケーションで得る。すると自分の時間、読書の時間が増え、人とのつながりも豊かになっていった、と言います。そして、冷蔵庫をやめて、保存食、天日干しをたくさん作るようになった、と言います。云わく「電気使わないと、手と脳ミソをいっぱい使うのでボケません」
 この電気に頼らない生活を始める原点は、はらさんが60カ国を6年半かけて回った世界旅行にあるそうです。日本でのライフ・スタイルがすべてではない、ということを、身にしみて体験したこと。また、資源の奪い合いが悲惨な戦争につながっている現実。簡素な生活をすることは、平和につながる、ということを知ったこと。こういうチャレンジを、おつれあいと共にしているはらさんは、きらきら輝いていました。若い世代に是非聞いて実践してほしいお話しでした。簡素な生活を続けることが、資源を奪わず、他者を犠牲にせず、平和に直結すると思うと、力が湧いてくる気がしませんか?新時代を拓くヒントは、こんなところにありそうです。 


オープンカフェ

地域に開かれた教会を目指して、小さな試みですが、
11月から、月一回第三火曜日に「オープン・カフェ」を続けてきました。

4月は、16日(火)10時ー15時に開催しました。 
毎回、新しい人が立ち寄ってくれて、ゆっくり話ができるのがいいです。
今回は、NさんとNさんのお母様。教会に久しぶりに来てくれたYさん。
みんなとゆるーくつながれる時間が、なんともいい心地です。

庭仕事では、雑草を抜き、藪を刈り込み、姫りんごを植えました。
室内では、レシピ集の作成、お休みの人への週報発送作業。
お昼は、さぬきうどんに、おかず付き。これで100円は格安です。

最後の3時のお茶では、Hさん手造りのうぐいすもちを堪能しました。


【優しい甘さのうぐいす餅でした】












4月19日(金)には、第三回目の夏ミカンマーマレード作りをいたします。


【皮も実もぜんぶ使ったおいしいマーマレードです】
すでに、20キロを作り、2回販売しましたが、ほぼ完売。
大450円 中350円 小250円です。
マーマレードは、販売して会堂牧師館会計に献金しています。

このマーマレード、町田市民放射能測定センター「はかるーむ」で放射能を測定しました。



セシウム137(半減期30年)、セシウム134(半減期3年)が、1.6-1.1ベクレル計測されました。
日本の国内基準は、一般食品100ベクレル。
一番厳しいドイツの基準でも大人8ベクレル、乳幼児 5ベクレルですので
十分に安全基準値内ですが、0ではありません。
そういうことを知った上で、食品も選んでいきたいですね。

ご希望の方は。どうぞ、御連絡下さい。 

No.136 <追悼・村井吉敬さんーもう一つの世界は可能だ>

4月8日(月)に四谷のイグナチオ教会で、故・村井吉敬さんの葬儀・告別式がありました。膵臓がんで70歳で天に召されました。村井さんは上智大学で「東南アジア地域研究」特にインドネシアの地域研究の専門家として教鞭を取られ、同時に市民運動も牽引してこられた方でした。岩波新書に『エビと日本人』という名著があります。お連れ合いの内海愛子さんは元恵泉女学園大学教授で、朝鮮人BC戦犯の問題や朝鮮人慰安婦の問題をずっと追ってこられた方です。私はお二人に出会ったのはもう30年以上前、あるバイト先で、でした。夫婦別姓を貫いていて、知的でさわやか。こんな素敵なカップルがいるんだと、新しい生き方を示された気がしました。2年前の震災直後、福島三春町の応援花見ツアーに参加した時、偶然御一緒して、その時の出会いのお礼を言うことができたのが、せめてもの幸いでした。
 告別説教をされたのは、イエズス会のビセンテ・ボネット神父。指紋押捺を拒否して、日本での在留許可が取り消されそうになった時に、法務省入管局の交渉に一緒に行ってくれたのが村井さんだった、と。決して学問の象牙の砦にこもっている人ではなく、市民と共に行動してくれる人だった、と。神父の「神よ、もう一つの世界は可能です」という祈り、最後の「村井さん、ありがとう」という言葉に真実がこもっていて、集った人々の心を打ちました。「もう一つの世界」とは、差別と抑圧に満ちた、小さな人々が犠牲になる世界はなく、平和と平等が満ちた世界、まだ見ぬ新しい世界です。聖書に描かれたビジョンと重なります。「この最も小さな者にしてくれたのは、すなわち私にしてくれたことなのだ」というマタイ福音書の言葉が朗読され、村井吉敬さんは、まさにそのように生きた方だ、ということが胸に迫ってきました。
 昨今のアジア周辺のきな臭い動き、日本の右傾化に、きっと村井さんも心を痛めていたに違いありません。しかしその中で行われた、御葬儀で私は新しい希望を与えられた気がしています。村井さんがインドネシア、特に晩年はパプアの地域研究の中で、徹底して市民と対話をしたその提言は、小さな人々が犠牲になる開発や発展ではなく、もう一つの世界の在り方を、一緒に考えてゆこう、というものでした。それは、まさしく、イエス・キリストが2000年前、ローマの属国だったユダヤで、底辺の人々と共に生き抜いた軌跡につながっています。讃美歌「いつくしみ深き」を歌いましたが、多分、クリスチャンでない方々も、多く口ずさんでいました。イエスがそのように、生きた。村井さんも続いてそのように生きた。その生き方の温かさ、優しさに、讃美歌を歌いながら、参列者全員が包まれたかのようでした。村井さん、ありがとう。バトンは引き継いでゆきます。 

No.135 <音楽の贈り物>

3月30日のデュオ・コンサートの当日、肌寒いお天気だったので心配しましたが、予想外にたくさんの方々が集まってくれて、ふたを開けてみれば93名(内ことも3名)。嬉しい驚きでした。ご近所のクラシック好きの方々も来てくれていたようです。

 内多さんと出会ったのは、もう7,8年前でしょうか。留学中のドイツで、韓国の歌曲の伴奏をするために、歌詞の内容を知りたいので、というので人を介して韓国語の翻訳をしたのがきっかけで知り合いました(私は韓国留学をしていましたので、韓国語が出来ます)。本番の演奏は、明快で軽やかかつ力強い演奏で、プロの方は違うなあ、とその音の輝きに圧倒されました。そんな御縁で時々、外で一緒にご飯を食べたり友達付き合いが始まりました。それが、こういう形でコンサートを開催できるまでに発展するとは、感無量です。

 私達は、なぜ音楽を聴いて感動するのでしょうか。特に言葉のない楽器のみの演奏の音楽は、言葉と違った形で人間に働きかけるようです。言葉にならない様々な感情や体験が思い起こされ、それらが生き生きと立ち現れては、私達を揺さぶります。私達の悲しみや苦しみや葛藤や憂鬱さ、それらすべての思いが、美しい音楽の中で、歌っては消えてゆく。私達は普段は隠れている自分の魂の在りかというものを、音楽によって生き生きと実感するのです。そしてこのように人間を造られた神さまへの驚嘆と感謝で満たされてしまいます。そのような至福の時を、土曜日のコンサートでは味わうことができました。音楽の贈り物は、人生の祝福された贈り物の一つだと改めて思わされました。演奏者のお二人にただただ感謝です。また年度末であり、受難週の忙しい時期に、ケーキを焼いたりお茶の準備をしてくださった教会の裏方の方々に本当に感謝です。