今週の聖書の言葉

【今週の聖書の言葉】2024年4月14日

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:6)

 イエスが十字架で死んで墓に葬られた後、弟子たちは、イエス抜きの生き方をしていたようです。「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」(21:3)という弟子たちの言葉にも、自分の力だけでなんとかしようという姿勢がうかがえます。

しかし、それは自分たちの無力に直面することでもありました。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21:3)

けれども、そこに変化が生じます。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(21:4)。夜は明けたのです。イエスが戻ってきたのです。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6)。自分たちの力だけでやろうとしてだめだったところに、イエスが現われ、導いてくれたのです。そうすると、不漁から豊漁へと変わりました。

人生もこれと同じです。イエス・キリストを信じることでお金持ちになったり出世したり幸運に恵まれたりするわけではありませんが、人生がゆたかになります。

神さまに委ね、神さまの言葉に平安を得、神さまに感謝し、神さまを賛美し、神さまに祈る。これはじつにゆたかな人生です。

この人生の豊漁に、イエス・キリストはつねにわたしたちを招いてくださいます。

【今週の聖書の言葉】 2024年4月7日

 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:26


 イエスは十字架で死んで墓に葬られてしまいました。弟子たちは自分たちにも同じことが起こることを恐れ、さらには、これからは師であるイエスがいないことをも恐れ、鍵をかけ、部屋の中に閉じこもっていました。

 けれども、イエス・キリストは閉ざされたわたしたちの心の真ん中に入ってきて、「平和があるように」と言ってくださいます。キリストご自身が平和、シャロームとなり、わたしたちの心の芯にいらしてくださいます。

 トマスは復活したイエスを見ないと信じないと言いました。目に見える証拠を求めたのです。けれども、キリストは「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われました。

 信じるとは、目に見える証拠に確信を得ることではなく、わたしたちの心の真ん中におられる目に見えないイエス・キリストの平安に支えられ、それに委ねることなのです。


【今週の聖書の言葉】 2024年3月31日

『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(マタイ28:7

  「復活された」とありますが、これは、「起こされる」「倒れている者が起こされる」という意味の言葉でもあります。

 イエスの死は、ただの死ではなく、ある意味、挫折の死でもありました。神の国を宣べ伝え、病人を癒し、斥けられている人びとを訪ねましたが、それは、当事の宗教支配者たちの不興を買い、命を狙われます。

 そして、売られ、逮捕され、不当な裁きを受け、死刑を宣告され、十字架につけられ、死んで、暗い墓穴に閉じ込められます。イエスの短い人生は挫折の死で終わりました。イエスを慕った弟子たちや女性たちも挫折しました。倒れました。

 すべてが終わり、イエスとはもう会えない、という絶望が支配しました。けれども、この挫折と絶望を打ち破る出来事が起こったのです。

 神さまは、挫折して倒れ死んだイエスを起き上がらせて、暗い墓穴から明るい光の世界へ導き出したのです。

 イエスに従っていた人びとも、挫折から起こされました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(28:10

 ガリラヤを故郷とし、そこでイエスともに歩んだ人びとにとって、エルサレムで挫折したのちガリラヤに戻ることは、挫折から立ち上がることでした。

 わたしたちも人生において何度か倒れますが、そのつど神さまが起こしてくださいます。死もわたしたちの終わりではありません。神さまが起こしてくださいます。


【今週の聖書の言葉】 2024年3月24日

 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30

  イエス・キリストは十字架でどのように苦しまれたのでしょうか。ヨハネ福音書によりますと、人びとはイエスを前にして「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(19:16)と叫びます。

 イエスは十字架を背負わされ、「されこうべの場所」(ゴルゴタ)まで歩かされます。そこで、人びとはイエスを十字架につけます。左右には犯罪人の十字架が並んでいます。

 十字架の頭部には「ユダヤ人の王」と記されました。けれども、これは敬意ではなく、罪状です。ユダヤ人の王を僭称したという嘲笑の意もあるかもしれません。

 兵士たちはイエスの服をわけあいます。イエスは「渇く」と言います。これは詩編22編に重なります。「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:18-19)。「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩編22:15-16)

 服の分割とイエスのかわきは、イエスの心身が引き裂かれ、打ち砕かれることを意味しているのではないでしょうか。
 

 そして、イエスは息を引き取ります。イエス・キリストの苦しみの前でわたしたちは何を思うのでしょうか。わたしたちは無実なのでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2024年3月17日


「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21

  わたしたちより先に地上の旅を終えた家族や友は今どこにいるのでしょうか。その人たちは、わたしたちの五感を越えた、愛の世界にいるのではないでしょうか。神さまの愛にすっかり浸かっているのではないでしょう。そして、そのことによって、じつは、目には見えないけれども、わたしたちと一緒にいるのではないでしょうか。

 神の国は目に見えない、とイエス・キリストは言います。けれども、神の国は、わたしたちの間、わたしたちの真ん中にある、と言います。

 愛もわたしたちには見えませんが、愛はわたしたちの間に、わたしたちの真ん中にあります。天に召された家族や友も目には見えませんが、愛によって、わたしたちの間にいます。

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネの手紙一4:7-8)

 わたしたちが誰かを愛するとき、誰かがわたしたちを愛してくれるとき、その愛は神さまから出る、とヨハネは言います。さらには、神さまはその愛そのものだ、と言います。


【今週の聖書の言葉】 2024年3月10日

 

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)

 

 「そのとき」とは「過越祭の六日前」(12:1)であり、イエスが比喩的に「わたしの葬りの日」(12:7)と言った日のことです。この箇所の直前の11章末によれば、祭司長やファリサイ派がイエスを「殺そうとたくらんで」(11:53)、「逮捕」(11:57)のための命令が出ていました。

 このようなときに、マリアはなぜイエスの足に高価な香油を注いだのでしょうか。イエスの足はマリアに何をしてくれたのでしょうか。

 11章によりますと、マリアとマルタの兄弟ラザロが死にますが、イエスはその足で駆けつけてくれました。そして、マリアとともに涙を流してくれました(11:35)。さらには、墓に葬られたラザロを呼び出してくれました(11:44)。

 つまり、悲しむとともに悲しみ、さらには、死は終わりではない、死によってラザロとマリアのつながりは終わらないことを教えてくれるためにイエスの足はマリアのところに来てくれたのではないでしょうか。

 今度は、マリアが死を前にしたイエスとともに悲しみますが、同時に、そのイエスの思いを受け継ごうとします。つまり、マリアもその足で、イエスとともに悲しむ者を訪ねる者となろうとしている、さらには、死がすべての終わりではないことを告げる者になろうとしているのではないでしょうか。マリアがイエスの足に高価な油を塗ったことにはこのような祈りが込められていたのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2024年3月3日

 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63

  「霊」「命」とはなんでしょうか。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。わたしたちは土(物質)からできていますが、神さまはわたしたちに「命の息」を吹き入れてくださいました。これが「霊」です。

つまり、「霊」とは「生命」ですが、これは有限な物質としての生命であるばかりでなく、永遠なる神さまとつながった永遠のいのちです。つまり、霊は、わたしたちの中に宿ってくださる神さまご自身です。この霊がわたしたちの中にいてくださいますから、わたしたちや世界に働きかけてくださる霊なる神さまをわたしたちは感じることができるのです。

さらに、この霊は、愛と密接につながっています。パウロは、愛は霊が与えてくださる(ローマ15:30)と言い、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」(ガラテヤ5:22)と言います。

イエス・キリストはこの霊、愛、目に見えない神さまのことを人びとに伝えますが、人々はそれを物質や肉と区別できず、理解しません。そして、イエス・キリストを十字架に追いやってしまいます。

けれども、神さまは、本来は死刑台である十字架を、神さまとわたしたち、霊と物質をつなぐ橋にしてくださいました。わたしたちは、イエス・キリストを通して、とりわけ、十字架と復活を通して、目に見えない神さまと結ばれるのです。


【今週の聖書の言葉】 2024年2月25日

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:3)

 イエス・キリストがなす「神の業」とはどういうことでしょうか。この人は目が見えるようになりました。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(9:7)

 イエス・キリストによって目が見えるようにしていただくことは、わたしたちの目には見えない神さまをわたしたちの心の目に見えるようにしていただくことではないでしょうか。キリストがなす「神の業」とは、わたしたちの霊の眼に神さまを見せてくださる、あるいは、示してくださることではないでしょうか。

 キリストは目に見えない神さまをさまざまな方法でわたしたちに示してくださいます。たとえば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。この言葉で、神さまはわたしのような悪人、正しくない者をも愛してくださることを、キリストは示してくださいました。

 あるいは、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」。この言葉で、神さまはすみっこの一匹であるわたしたちをお見捨てにならず探し求めてくださるお方であることを、キリストはわたしたちに示してくださいます。

 このように、イエス・キリストはご生涯と御言葉によって、目に見えない神さまの愛をわたしたちに見えるようにしてくださるのです。これも、これが神の業なのです。


【今週の聖書の言葉】2024年2月18日

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4

 

わたしたちは、生きていくために「適度な」衣食住は必要です。お金も人間関係も「適切な範囲内」であれば、わたしたちの支えになります。

 けれども、わたしたちの「根本の」支えは、神さまであり、神さまの御言葉です。

 たとえば、わたしたちがお金が足りなくて悩んでいるとき、ひたすらお金だけを求めるでしょうか。それとも、適切な範囲でお金を何とかしようとしつつも、神さま、この不安と苦しみの中で、わたしをお支えください、と祈るでしょうか。

 もし、お金の工面ができ、すっかり安心してしまい、神さまを忘れてしまうのなら、その時、お金がわたしたちの神になってしまっているのです。そして、それからも、神さまを信頼することなく、ただお金を求め、お金が手に入れば安心してしまうということになってしまいます。これはお金の偶像崇拝です。

 お金以外にも、人間関係による安心、自分の地位、周りからの評価「だけに」すがろうとし、神さまを根本の支えとして、神さまに信頼することを忘れてしまう誘惑がわたしたちにはつねにつきまといます。

 けれども、イエス・キリストはこの誘惑に打ち克ってくださいました。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 わたしたちもこのイエス・キリストに従って歩み、神さまと神さまの御言葉をこそ根本の支えといたしましょう。



【今週の聖書の言葉】2024年2月11日

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:12-13)

 ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは自らのことをこのように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)。
 キリストの与えるパンはキリストの肉であると。では、肉とは何でしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。
 肉とは「言(ことば)」なのです。つまり、イエス・キリストは神さまの言なのです。神さまの言とは、旧新約聖書に記された神さまの言葉、あるいは、神さまについての言葉のことでもありますが、イエス・キリストご自身のことでもあります。
 つまり、神さまの言とは、音声や文字のことだけでなく、わたしたちへの神さまの語りかけ、愛そのものであるのです。
 今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが多くの人びとを少しのパンで養ったということは、神さまの御言葉やイエス・キリストの愛が、この世界の中で、たとえ小さなもの、わずかなものに見えても、それは無駄ではない、むしろ、神さまの言やイエス・キリストの愛は、目に見えなくても、じつは、屑だけでも十二の籠を満たすパンのように、とてもゆたかなものである、ということでしょう。

【今週の聖書の言葉】 2024年2月4日

 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。(ヨハネ5:7-9

  「床を担いで歩く」とはどういうことでしょうか。この日は安息日であったので、これは律法に背くことを意味しました。この病人は律法に縛られない生き方を選択したのです。

 律法に縛られる生き方は、どうじに、世の中の決まり事や常識とされることにとらわれ、優劣主義、競争、自分中心といった世の中の価値観に染まった生き方でもあるでしょう。

 けれども、安息日であるにもかかわらず床を担いで歩くことを選択したこの病人は、律法や世の中の価値観ではなく、「起き上がりなさい」というイエス・キリストの言葉に従う生き方を選んだのです。

 イエス・キリストに従う生き方をするということは、イエス・キリストがそうしたように神さまを信頼して神さまに委ねて生きることです。

また、イエス・キリストが神さまの御心、愛の御心に従われたように、わたしたちもこの世の自己中心主義ではなく、自分以外の人を大事にし、隣人を中心に置こうとする、神さまの国の精神にしたがって生きることを祈り求めることです。


【今週の聖書の言葉】 2024年1月28日

 

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31-32)

  「真理はあなたたちを自由にする」とはどういう意味でしょうか。21節に「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とあります。これは、わたしたちが自分の思いの中に閉じ込められて、神さまや隣人とつながっていない状態のことでありましょう。これは、「自由」とは正反対の束縛です。

 けれ   ども、イエス・キリストは、「わたしは上のものに属している」(23)と言います。これは、神さまにつながっている、それゆえに、隣人ともつながっている、つまり、愛に属している、ということでしょう。これこそ、自由なのです。

 「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」(29)

 神さまとともにいる。神さまがともにいてくださる。神さまの愛の御心に従おうとする。これが自由なのです。

 「真理はあなたたちを自由にする」。これは、神さまとイエス・キリストがわたしたちを神さまとイエス・キリストに結びつけてくださる、ということではないでしょうか。 自由とは奔放のことではなく、愛の中に生かされることなのです。


【今週の聖書の言葉】 2024年1月14日

 はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(ヨハネ1:51

 イエス・キリストとの出会い方、その人にとってイエス・キリストは誰かは人それぞれです。聖書の登場人物たちにとってもそうです。

ヨハネによる福音書によれば、洗礼者ヨハネはイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」(1:36)と言います。ヨハネはイエスを「神の小羊」ととらえました。

 また、ヨハネとともにいた二人の弟子はイエスについて行き、「どこにイエスが泊まっているか」(1:39)を見ます。この二人はイエスのいる場所を訪ねました。

 アンデレは「わたしたちはメシアに出会った」(1:41)と言います。アンデレはイエスをメシア、救い主だととらえました。

 ペトロはイエスから「岩」(1:42)と呼ばれることになりました。

 フィリポはイエスから「わたしに従いなさい」(1:43)と招かれました。また、イエスのことを「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」(1:45)と認識しました。

 ナタナエルはイエスを「神の子、イスラエルの王」(1:49)だと理解しました。

 イエス自身は上の引用(1:51)のように、天の神さまから地上のわたしたち人間に何かをもたらすお方、伝える者、神さまとわたしたちをつなぎあわせるお方だと言っておられるように思われます。

 これらのうちどれか一つだけが正解ということではなく、むしろ、イエス・キリストとわたしたちの出会いは人それぞれだし、また、一人の人間においても、イエス・キリストと幾重もの出会いをしていることを示しているのではないでしょうか。そして、これは神さまの愛と恵みのゆたかさ、深さを示しているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2024年1月7日

 

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29

 人間が作った暦の上で新しい年が来る以上に大事なことは、神さまがわたしたちのために、つねに新しい時を創ってくださり、わたしたちを新しくしてくださることです。

 罪とは、わたしたちが神さまと人びとから心を離し、自分のことだけしか思わないことです。その結果、世は戦争や人間の生を踏みにじる出来事でいっぱいです。個人においても、わたしたちは自分の思いを人に押しつけてしまっています。

 わたしたちのこの罪を赦すために、神さまの独り子イエス・キリストは十字架でわたしたちの代わりに罰を受けてくださった、という信仰がキリスト教にはあります。

 さらに、今日の聖書の個所に続く節では、洗礼者ヨハネは神さまの前で自分を絶対化しない生き方を示しました。

 また、イエス・キリストは神さまから聖霊を受け、洗礼を受ける人々にその聖霊を注いでくださることが今日の聖書には書かれています。

 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。

 このように、神さまが洗礼と聖霊によってわたしたちを新しくしてくださるのです。これにお応えして、わたしたちも新しい道を歩き始めましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年12月31日

 

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:12

  ヘロデ王は自分の王座を脅かすかもしれない者が生まれると聞いて、不安になり、それを解消するために、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を皆殺しにしました。

 現代の世界でも、隣国に対する不安を軍備増強や武力行使、戦争によって解消しようとする事態が絶えません。わたしたち個人にあっても、暴力を用いて殺傷することはしないにしても、態度や言葉の強さで他者を抑えつけ、自分の思いを通してしまうことがないでしょうか。

 「ヘロデのところへ帰るな」という神さまのお告げは、そのような道をもう歩むな、というように聞こえます。「別の道」とは、そのような道ではない、新しい道のことではないでしょうか。

 憲法9条で日本は武力と戦争を放棄していますが、争いばかりのわたしたち人間世界にとって、これは古いどころか、「別の道」「新しい道」です。

 戦争のことだけではありません。わたしたちは人を制するのではなく人を愛するという新しい生き方、古くから言われていて、それでいて、わたしたちにとって新しい生き方をしたいと祈ります。

 自分の力で何とかしようとして人を抑えつけるのではなく、神さまに委ねて人と共に生きる「別の道」「新しい道」を神さまは創ってくださいます。この道を歩みましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年12月24日

 

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(ルカ2:10)

 

 天使のこの言葉は神さまご自身の言葉でもあるように思われますが、これは、ローマ皇帝アウグストゥスから「全領土の住民に」出された「登録をせよとの勅令」(2:1)とは、正反対のものだと言えるでしょう。皇帝の勅令は登録のための長旅を住民に余儀なくするものであり、それはある意味、住民を住んでいた町から追い出し安住の場をなくさせることでした。これに対して、天使は「民全体への大きな喜び」を伝えたのです。支配者の命令と神さまからの福音はまったく異なります。

 わたしたちの今生きている世界をふり返ってみますと、戦争が終わらず、千人万人が死に続けています。病気、家族、仕事など、ひとりひとりの抱える苦しみもあります。この世界の支配者にも、わたしたち自身にも絶望してしまいそうです。

 このような絶望の中で、クリスマスを無邪気に喜ぶことができるのでしょうか。たしかに、今の世も続く「皇帝の勅令」にはわたしたちは絶望してしまいます。けれども、聖書は、それだけでない、とわたしたちに伝えています。

 権力者の強引な通達だけなく、わたしたちには神さまからの大きな喜びも伝えられていると。人間世界には絶望しますが、神様はそこに希望を伝えてくださいます。

聖書はこのことを物語っているのではないでしょうか。そうであるならば、わたしたちは絶望の世にあっても、神さまの希望を、このクリスマスに、やはり喜ぼうではありませんか。


【今週の聖書の言葉】 2023年12月17日

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

  マリアとヨセフは最後は結ばれますが、その前には、インマヌエルの出来事が必要でした。つまり、人と人がともにいることは、「神さまがわたしたちとともにおられる」ことを土台としているのです。

 ヨセフは「正しい人」(1:19)でした。けれども、それは律法を四角四面に当てはめ、結婚前に身ごもったマリアとは縁を切る、という冷たい正しさでした。

 人の目から見れば、マリアは不義を犯したということになりますが、神さまの目からはこれは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(1:20)のです。神さまの正しさは四角四面ではなく、愛のある、丸みを帯びた正しさです。

 待降節です。わたしたちは何を待ち望んでいるのでしょうか。イエス・キリストの誕生、そして、地上の生涯を終えて天に帰ったイエス・キリストの再臨を待ち望んでいます。イエス・キリストの再臨の日は、イエス・キリストが宣べ伝えた神さまの国がここにやってくる日でもあります。

 また、わたしたちは、戦争が終わり平和が来ること、心の嵐が止み平安が訪れることを、病が癒されることを、苦しみから解き放たれることを、悲しい別れをした人々と喜びの再会をすることを待ち望んでいます。

 イエス・キリストの再臨、神さまの国の到来は、これらの待望がすべて満たされる日でもあるでしょう。

 この日はかならず来る、しかも、遠くない、イエスは近い。これを人生の希望とする。アドベントはわたしたちのこの信仰をあらたにしてくれます。


【今週の聖書の言葉】2023年12月10日

あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。(ヨハネ5:46

 わたしたちは「証拠」を求めたがります。それは、論理的なものであったり、物理的なものであったりします。けれども、信仰は、論理性や証拠を全否定はしませんが、根本には、それらには拠らない「信頼」があります。

 もし神さまが、人間の論理や人間の考える証拠によって証明されるなら、それは、神さまを人間の思考の枠に閉じ込めてしまうことになります。

 さて、イエスがキリスト(メシア、救い主)であることはどのようにして「証し」されるのでしょうか。

「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(5:36)。

神さまがイエスさまを通してなさる業が、キリストの証しだと言うのです。これも、「物的証拠」というよりは、そのように信頼する、信仰的にそのように受けとめるということでありましょう。

上の引用では、モーセがイエスについて書いている、とイエス自身が言っておられます。これは、イエスが神さまから遣わされた救い主であることは、旧約聖書が証しをしている、というのです。

しかし、これも「預言が命中した」というレベルのことではなく、旧約聖書に書かれていることを祈りと信仰においてイエス・キリストのこととして受け止める、ということであり、神さまがそのように示してくださることが、わたしたちの霊的な部分に届けられているということでありましょう。

つまり、イエスがキリストであることは神さまご自身がわたしたちに示してくださることなのです。わたしたちはこれを信頼して受け止めましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年12月3日

 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。(ヨハネ7:27

  わたしたちは、目の前にあるもの、たとえば、人や本のことを、すでに知っていると思ってしまえば、その人、その本から何も新しいことを受け取ることはできません。

 イエスのことを、この人のことは良く知っている、と思っている人は、このイエスがキリストであり、わたしたちの知らない、まったく新しいことをもたらしてくれることに気づくことはできないのです。

 わたしたちは、イエス・キリストのこと、神さまのことは知り尽くすことはできません。むしろ、知らないからこそ、そこには畏敬と敬意と感謝と信仰が生まれるのです。

 わたしたちをまったく新しくしてくださるお方の前では、わたしたちは何も知らず、すべてを新しく受け取る姿が大切でしょう。

 アドベント(降誕節)は、イエス・キリストの誕生、そして、イエス・キリストの再臨=神さまの国の到来、さらには、平和な世界、平安な心の到来を待ち望む季節です。

 たとえ今日は世界と心が真っ暗闇でも、今週は一本、来週は二本、再来週は三本、クリスマスには四本のろうそくが灯りますように。闇の中の光、希望の主、イエス・キリストがお越しくださいますように。

 闇を照らす光、わたしたちがこれまで知らなかったまったく新しい光をお迎えすることができますように。


【今週の聖書の言葉】2023年11月26日

 わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。(ヨハネ18:37

 イエス・キリストのことを、軍事や政治、経済支配をする王になる、と勘違いした人々もいたようです。イエスを尋問しているローマ総督ピラトもイエス自身がそのようなことを考えているかどうか知ろうとしたのでしょう。

 けれども、イエスは「違う」と言います。イエスは、エジプトの王ファラオやヘロデ王やローマ皇帝、その総督ピラト、あるいは、旧約聖書のサウルやダビデのような王になることさえ考えていなかったことでしょう。

 では、イエスは何者かというと、「真理について証しをする」者と、ご自分から言われます。

 真理とは神さまのことではないでしょうか。そして、神さまの人への真(まこと)、誠実、愛のことではないでしょうか。さらに、「証しをする」とは、身をもってそれを実行するということではないでしょうか。

 つまり、イエス・キリストは、自分は上から人を支配するこの世の王とは正反対に、僕として神さまと人に下から仕える、と言っておられるのではないでしょうか。

 わたしたちの中にも、人を支配したい、自分の思うようにことを進めたい、そのために人には自分の考え通りにしてほしい、という欲望が潜んでいないでしょうか。わたしたちの中にも、こういう意味で王になろうとする姿勢がないでしょうか。

 けれども、イエス・キリストは、王ではなく僕となる道を示してくださいます。この僕であるイエス・キリストをこそ、むしろ、王として、ぎゃくに、わたしたちは、王にはならず、僕の道を歩めますようにと祈ります。


【今週の聖書の言葉】2023年11月19日

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。(ヨハネ6:32-33)

  イエス・キリストは「朽ちる食べ物」(6:27)ではなく、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6:27)と言われました。この働きは、具体的には、神さまがお遣わしになったイエス・キリストを信じることを指します(6:29)。

 「永遠の命に至る食べ物」とは、永遠なる神さまとわたしたちをつなげてくれるものであり、それは、聖書の言葉、神さまの御言葉であり、また、イエス・キリストご自身のことでもあります。

 上に引用した聖句の中で「天からのまことのパン」、「神のパン」、「天から降って来て、世に命を与えるもの」と呼ばれているものも、このことです。

 先日、心が折れるような絶望的なことがあり、翌日の大事な仕事までに心を整えられるだろうか、と不安になったことがありました。

 そのとき、イザヤ書181節の「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる」という神さまの言葉が与えられました。

 この言葉によって、神さまは絶望を希望に、不安を平安に変えてくださる、という望みが与えられ、救われました。神さまのパン、神さまの御言葉、イエス・キリストは、このようにわたしたちを神さまとつなぎ、生きるいのちを与えてくださいます。


【今週の聖書の言葉】 2023年11月12日

 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(ヨハネ8:51)

  聖書において、生きるとは、神さまとつながっていることであり、死ぬとは、そのつながりが切れることです。つまり、生物として生きていても、神さまとはつながっていないことも、生物としての生命は終えても、神さまとつながっている、という意味で「生きている」こともありうるのです。

 ここで、イエス・キリストは「わたしの言葉を守る」と言っていますが、戒めや命令を遵守するだけでなく、言葉(とくに、聖書の言葉)を読むことで、わたしたちは、神さまとつながり、さらには、救われるのではないでしょうか。

 詩、文学、音楽、絵画、人の愛、自然の美しさも、わたしたちに神さまを思い起こさせ、神さまとつながらせてくれます。

詩編は、大空や夜空は神さまの創造を、イエス・キリストは、野百合や小鳥が神さまの支えと守りを伝えている、と語っています。

けれども、やはり、一番のものは、聖書であり、イエス・キリストでありましょう。

 わたしたちは、これらを通して、神さまとのつながりをつねに想い起し、とくに、苦しい時、不安の時は、神さまの御言葉に聞き、支えられる、救われる、この信仰生活を大事にし続けましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年11月5日

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 わたしたちの大事な人の何人かは地上の旅を終えていますが、わたしたちは、その人びとと今もつながっていることを感じています。
 上の聖書には「永遠の命」という言葉がありますが、これは、どういう意味でしょうか。永遠とは、永久とは少し違います。永久とは何千年、何万年という時間を無限に伸ばしていったものですが、永遠とはそのような時間を超越したものであり、長いというよりは、むしろ、深いものではないでしょうか。永遠には、わたしたちと世界の根源に至る深さが感じられます。
 命とは何でしょうか。英語のlifeという単語は、日本語では、生活、人生、生命、いのちと訳されます。日々の生活、その集積である人生、生物としての生命です。しかし、いのち、という言葉は、生命の終わりによっても終わらない何かを指す場合があります。
 「永遠の命」とは、わたしたちと世界の根源である神さまにつながっているいのちのことではないでしょうか。神さまとのつながりは、生まれた時から始まり、地上の人生を終えたのちも続きます。
 わたしたちが、地上の旅を終えた人びととの永遠のつながりを感じるとき、意識していなくても、そこには、永遠なる神、永遠なるイエス・キリストとのつながりがあるのではないでしょうか。わたしたちは、神さま、イエス・キリストという永遠なるお方を通して、愛する人びととも永遠につながったいのちを生きているのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年10月29日

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。 (ヨハネ1:1-3)

  この「言」とはどういう意味でしょうか。ある神父さんはこれを「神さまのおもい」と説いています。そうしますと、この個所は、世界の初めには、神さまのおもいがあった、そのおもいは神さまと一体であった、それは神さまご自身であった、この神さまのおもいによって世界とわたしたちは創造された、という意味になります。

 また、10節の「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」は、神さまのおもいがこの世界にあったが、世界のわたしたちはそれを受け入れなかった、ということになるでしょう。

 しかし、12節の「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」は、神さまのおもいを受け入れた人は、神さまの子、つまり、神さまのおもいを受け継ぐ者とされる、ということになるでしょう。

 さらに、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」は、神さまのおもいは、イエスというひとりのお方において、具体的に現れた、イエス・キリストはわたしたちと同じ人間としてわたしたちの間に生まれ、生きてくださり、神さまのおもいを現された、というように受け取ることができるでしょう。

 では、神さまのおもいとはどういう思いでしょうか。それは、たとえば、インマヌエル=「神さまはわたしたちととわにともにいてくださる」、アガペー=「神さまはわたしたちを無条件で愛してくださる」、シャローム=「神さまはわたしたちに平和、平安をくださる」と言い表すことができるでしょう。

 イエス・キリストにはこの三つの神さまのおもいが現れているのでしょう。


【今週の聖書の言葉】2023年10月22日

人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。(ルカ19:11)

 人びとは、神の国は、ローマ帝国を武力で倒すような人間の国としてすぐに現れる、イエス・キリストはその指導者である、と勘違いしていたのではないでしょうか。そして、これにつづく「ムナ」のたとえ話は、キリストがこの誤解を解くために語られたのではないでしょうか。

 このたとえ話では、王は国民から「この人を王にいただきたくない」(19:14)ような人物に描かれています。さらには、国民が「どれだけ利益を上げたかを知ろう」(19:15)とし、「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しく」(19:21)、「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与え」(19:24)、「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」(19:27)と命じるのです。

 これは、とうてい、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」のような神の国のたとえではなく、むしろ、この世の支配者のことでありましょう。キリストは、神の国はこのようなこの世の支配者の国とはまったく違う、と言っておられるのではないでしょうか。

 では、神の国とはどのような国でしょうか。ここで、キリストは直接は言っておられませんが、それは、戦争をしたり、そのために国民を兵士として徴用したり、国民の財産を接収したりせず、むしろ、神さまを中心にして、平和が満ち溢れ、たがいにわかちあい、仕えあう国ではないでしょうか。神さまの愛と平和が漲る国です。


【今週の聖書の言葉】 2023年10月8日

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。(ルカ17:1

 ここからの10節の理解にはいろいろありえますが、イエス・キリストがわたしたちに信仰生活のあり方を教えてくださっているようにも読むことができるでしょう。

 まず、わたしたちの言葉や行動によって誰かがつまずかない、つまり、神さまや教会から離れないようなわたしたちの信仰生活が求められているのではないでしょうか。

 「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(17:3

 わたしたちが誰かにその人の非を伝えることは難しく、相当の慎重さが求められますが、もし、相手がそれを受け入れてくれれば、和解する信仰が大切でしょう。

 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(17:6)

 ここは、信仰の力などたいしたことがないように思えても、じつは大きな力があり、わたしたちを支えてくれる、という意味だと思われます。それ以外には、小さくてもわたしたちは本当に信仰を持っているのか、それは、このような派手なことを求める信仰になってしまっていないか、という問いかけにとることもできるでしょう。

 「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(17:10)

 信仰は神さまに救われるために果たすべきノルマ、義務ではなく、むしろ、神さまに救われたことの喜び、感謝ではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2023年10月1日

「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(ルカ16:29)

 これは、イエス・キリストのたとえ話の中で、死後、陰府の炎に苦しむ金持ちが兄弟たちに警告したいと言ったことに対するアブラハムの返答です。つまり、死者から生者にわざわざ注意を送らなくても、「モーセと預言者」、つまり、旧約聖書を読めば、この金持ちのように地獄で苦しむことはないというのです。

 しかし、これは、死後の苦しみを避けるためにというよりは、イエス・キリストご自身が伝えたいことは、旧約聖書の神さまのメッセージを大切にしなさい、ということでしょう。

 キリストによれば、旧約聖書は、「あなたの神さまを何よりも大切にしなさい」と「あなたの隣人を何よりも大切にしなさい」のふたつに要約されます。これが「モーセと預言者」が伝えていることであり、死者が人びとに気をつけなさいなどと言う必要はないというのです。

 金持ちは、贅沢三昧をし、神さまも隣人も顧みませんでした。そして、陰府の炎に苦しみました。いや、神さまも隣人も顧みない地上の生活そのものがじつは地獄なのではないでしょうか。

 貧しいラザロは空腹で、病に苦しみました。しかし、そこには神さまがともにおられたのではないでしょうか。たとえ話では天の宴会でラザロはアブラハムとともにいたとありますが、じつは、地上で苦しんでいる時も、神さまがラザロとともにおられたのではないでしょうか。

 人を顧みない金持ちの生き方は、神さまからも人からも離れた生き方です。そうではなく、わたしたちは神さまと人を愛する生き方を祈り求めましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年9月24日

 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。(ルカ16:9)

 お金や財産には、なにかしら、陰がつきまといます。正当に得たお金であっても、たとえば、自分より貧しい人々、苦しんでいる人々がいることを思えば、たんじゅんに喜ぶわけにもいきません。

けれども、富にそのような陰があっても、有意義に使うことも可能でしょう。自分以外の誰かのことを覚えて用いることもできるでしょう。

わたしたちは神さまから与えられた恵みをどのように使えばよいでしょうか。たとえば、わたしたちの時間は、わたしたちだけのためにではなく、人と共に生きるために用いることができるのではないでしょうか。

わたしたちの力、労力、心、言葉も、自分のためだけでなく、人と共に生きるために使うことができることでしょう。

「富で友達を作りなさい」という表現から、「神さまからの恵みは、人と共に生きるために用いなさい」というメッセージを読み取ることもできるのではないでしょうか。

しかし、わたしたちは人と共に生きることが得意ではありません。わたしたちと共に生きてくれる人もそんなに多くはないかもしれません。

友達はほとんどいない、という場合もあるでしょう。けれども、神さま、そして、イエス・キリストが友達になってくださいます。

キリストは讃美歌の歌詞にあるように、「いつくしみ深い友」です。神さまがわたしたちとともに生きてくださるから、わたしたちも人と共に生きたいと願います。


【今週の聖書の言葉】 2023年9月10日

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:27)

 わたしたちは自分自身や自分に近い存在にこだわり、そこに良いことがあれば喜び、それを期待していますが、はんたいに、望ましくないこと、苦しいことも起こることを予想したり、覚悟したりしているでしょうか。また、そのようなことが起こった場合、覚悟してそれを引き受けているでしょうか。

 わたしたちのこの覚悟のことを、イエス・キリストは「自分の十字架」と呼び、わたしたちをここに招いておられるのではないでしょうか。

 キリストご自身は、ファリサイ派や律法学者たちからの批難、民衆の離反、弟子たちの無理解と裏切り、離脱、そして、十字架につけられ、死ぬことを前もって覚悟しておられ、じっさいにそれが起こった時は、しっかりとそれを受け止められました。

 わたしたちの人生にも厳しいことが起こりますが、それを覚悟することが大切です。同時に、そのとき、わたしたちは独りではなく、キリストご自身がわたしたちとともに、わたしたち以上に苦しんでくださることを知っていることも大切です。

 わたしひとりではこの苦しみに耐えられないが、キリストがともに苦しんでくださる。これがわたしたちの救いです。

 パウロは言います。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(二コリント12:10)。

 キリストがともに苦しんでくださる。そのときわたしたちは苦しみつつもキリストに満たされる。だから、苦しみに対する覚悟ができる。パウロの信仰がうかがわれます。


【今週の聖書の言葉】2023年9月3日

「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。」(ルカ14:10)


 「招待を受けた客が上席を選ぶ」(14:7)のを見て、イエス・キリストが言われた言葉です。わたしたちも人生において「上席を選」ぼうとしていないでしょうか。
 わたしたちは学校教育の中で、人より良い点数をとるように教えられてきました。人より上に立ち、多く持ち、高い位置に立とうとする傾向を身につけてきました。
 しかし、イエス・キリストは、上席ではなく、むしろ、末席に行って座りなさい、と言われました。
 聖書はもともと、末席の物語、神さまによる優劣の逆転の物語に満ちています。神さまは、弟であり定住地つまり財産を持たないアベルを顧みました。12人兄弟のうち下から二番目のヨセフを救い、飢饉のときに他の兄弟を救いました。ダビデ王は末っ子でした。
 イエス・キリストはお城ではなく家畜小屋で生まれました。ご両親は宿のない旅人であり、アベルと同じような境遇でした。
 パウロは「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(二コリント12:10)と告白します。
 このように、聖書には末席の物語が流れています。
 イエス・キリストは「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。」(14:8)と言われます。神さまは、優劣に関係なく、わたしたち皆にいのちを与えてくださり、愛してくださいます。そこに、わたしたちは優劣の価値観を持ち込まず、上席を好まず、むしろ、末席を選ぼうではありませんか。



【今週の聖書の言葉】2023年8月27日

 あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。(ルカ14:5

  イエス・キリストが安息日に病気の人びとを癒すのを、律法学者たちは非難の目で見ていました。

 たしかに、出エジプト記にはこうあります。「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」(35:2)。これを読めば、安息日には何が何でも仕事をしてはならない、病気も癒してはならない、という考えも出てくるでしょう。

 しかし、申命記にはこうあります。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:13-14)。ここには、安息日は、働く人びとを休ませるため、つまり、いのちを守るため、とあります。

 そうであれば、イエス・キリストが病気の人を癒すことは安息日にまことにふさわしいことでした。病気の人びとはキリストに癒されることで大きな安息、平安を得ました。

 わたしたちは、人や自分が課すノルマ、決め事に心を圧迫されてしまいがちですが、イエス・キリストはそこからの安息、平安をもたらしてくださいます。


【今週の聖書の言葉】 2023年8月6日

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』(ルカ10:27)

  永遠の命を得るにはどうしたらよいか。旧約聖書には「あなたの神である主を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」と書かれている、と律法学者は答えます。

 隣人を自分のように愛するとはどのようなことでしょうか。イエス・キリストは、強盗に襲われて道に倒れている人に駆け寄るサマリア人のたとえ話をします。ただし、倒れている人が隣人というよりは、サマリア人がその人の隣人になった、と言うのです。つまり、隣人とは自分が助ける相手というよりは、倒れている人の痛みを感じて駆け寄るとき自分がその人の隣人になるというのです。

 では、主を愛するとはどういうことでしょうか。マリアは主イエス・キリストの足元にすわって、その話に聞き入ります。主の話、神さまの言葉に耳を傾けることこそが、神を愛することなのではないでしょうか。

 主に聞き入るマリアに対し、客をもてなそうと忙しくするマルタが批判されているようにも思えますが、これは、何かを実行するより神さまの言葉を聞く方が大事だと言っているわけでもなさそうです。

 マリアが主のお言葉に耳を傾けたように、サマリア人は倒れている人の苦しむ姿に自分の心のすべてを傾けました。その人のうめき声に耳を傾けました。

 永遠の命を得るとは、永遠なる神さまの命につながることであり、永遠なる神さまと一緒に生きることであり、それは、神さまの御言葉に耳を傾けることであり、また、隣人の痛みを自分の痛みとしようとすることでもありましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年7月30日

 「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた」(ルカ9:61-62


 
わたしたちの世界は、人間の実力によって動かされているように思われ、じじつ、わたしたちは、ときには、暴力、武力、権力を用いてでも、自分の思うようにしようとしています。

 自分たちを歓迎しないサマリア人を「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(9:54)と言って憚らない弟子たちの姿勢にも、これがうかがわれます。

 けれども、イエス・キリストはそのような弟子たちを戒めます。言うことを聞かない相手を力で滅ぼすというこの世の価値観に、キリストは同意しないのです。

 61-62節もその文脈で読むことができるでしょう。ここでイエス・キリストは家族を捨てろとは言っていないのです。家族は大切です。

 問題は家族ではなく、家長を権力者とする家制度です。上の者が下の者を力で支配する国家やその他の集団、組織の相似形としての家制度です。

 たしかにそれを大事にすれば、不利益が減り、ときには利益が得られるかもしれません。けれども、わたしたちが根本の頼みとすべきものはそのような権力の仕組みではなく、神の国、神さまの国、愛による統治だと言うのです。

 わたしたちの究極の土台を人間の力や組織に置くのか、それとも神さまの愛に置くのか。イエス・キリストはこのことをわたしたちに問いかけておられるのです。


【今週の聖書の言葉】2023年7月23日

「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ8:1-3)

 イエス・キリストには、当初から、12弟子以外に、女性たちが付き従っていました。ペトロやマタイたちは、キリストに召されて(招かれて)付き従って行った側面が聖書には描かれていますが、ここに出てくる女性たちは、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」ことに感謝(応答)して、キリストや人びとに仕えたようです。
 わたしたちも奉仕を心がけますが、そこには、自分を立派に見せようとか、自分で自分を良い人間だと思いたいとか、そのような動機も隠れているのではないでしょうか。
 パウロは「 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして・・・何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2章)と人びとに奨めていますが、その理由は「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(同)というものです。
 つまり、神さまがキリストとしてわたしたちに仕えてくださったから、わたしたちもたがいに仕えあいましょう、と言うのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年7月9日

「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。」(ルカ7:14)

 人びとは「その若者は死んでしまった、もうだめだ」と絶望していましたが、イエス・キリストは棺に横たわっていたその人を起き上がらせました。
 わたしたちの人生においても、打ちのめされ、倒れてしまい、自分では、もう起き上がれない、というようなことが何度か起こりますが、その都度、神さまは起き上がらせてくださいます。
 さらには、わたしたちが地上の旅を終えて、地に横たわる日が来ても、神さまは、天でわたしたちを起き上がらせてくださるでしょう。
 13節にはこうあります。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
 人の苦しみをしっかり見てくださる、それに共感してくださる、その痛みをわかってくださる、そして、涙をぬぐってくださる。これは、旧約聖書以来の神さまのお姿でもあります。
 「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。』」(出エジプト記37)。
 そして、涙をぬぐってくださるのも、旧約聖書の神さまです。「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐわれる」(イザヤ25:8)。


【今週の聖書の言葉】 2023年7月2日

「イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:19)


ここだけ読みますと、この人が信仰を持った結果、つまり、この人が信仰を持っていたゆえに救われた、というように感じられます。しかし、もう少し前の節を見ますと、この人を含む十人の重い皮膚病の人が「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(17:13)と言ったら、彼らは祭司のところに体を見せに行く途中で癒された、とあります。

「憐れんでください」という祈り、懇願をこの人たちの信仰と見なすこともでき、それゆえに救われたとも考えられますが、「憐れんでください」という求めに応えて、イエス・キリストがこの人たちに与えた憐み、あるいは、愛によって救われた、とも考えられます。

「神さまがあなたとともにおられる」「神さまはあなたを無条件に愛してくださる」と語りかけてくる言葉が聖書のさまざまな個所にありますが、わたしは、この言葉を、とても喜ばしく美しく感じます。また、慰めを覚えます。

こういう聖書の言葉を知っていても、心の表面は嵐になりますが、心の奥深いところにあるわたしの霊は自分でも気づかない静けさを持っていると思います。

聖書の言葉、神さまの言葉、御言葉を喜ばしく美しく感じ、慰めを覚えること自体がわたしの信仰であり、同時に、それが救いである、と考えます。「立ち上がって、行きなさい」というイエス・キリストの言葉に慰めを覚える、これが、信仰であり、救いであるのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年6月25日

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4

 「見失った一匹」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストがこのたとえ話をしたのは、キリストが「徴税人」や「罪人」を迎えるのを見て「ファリサイ派」や「律法学者」たちが不平を言いだしたときですから、「一匹」は「徴税人」や「罪人」と呼ばれている人のように、よくない存在として社会のすみに置かれていた人びとのことを指すのでしょう。

あるいは、「悔い改める一人の罪人」(15:7)ともありますから、自分が神さまから離れていることに気づき、これからは神さまの方を向こう、神さまに向かって歩もう、神さまとともに歩もう、と祈る人のことでもあるでしょう。わたしたちはどちらかに、あるいはどちらにもあてはまるでしょうか。

「徴税人や罪人が・・・イエスに近寄って来た」(15:1)とありますし、「悔い改める」とありますから、一匹の方から羊飼いのところに戻って来たようにも見えるかもしれません。

けれども、キリストのたとえ話では「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(15:4)とありますから、羊飼いの方から一匹を迎えに来てくれるのです。

わたしたちは、群れからはずれた一匹の羊であったり、あるときは、そうなったりすることがあるかもしれません。けれども、イエス・キリストはわたしたちを探し出し、おかえり、と迎えてくださる、そう信じます。


【今週の聖書の言葉】2023年6月11日

「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカ14:23)

 「信じれば救われる」と言いますが、「救われる」とはどういうことなのでしょうか。そして、どうすれば「救われる」のでしょうか。
 地上の生涯を終えた後天国に神さまに迎えられ永遠に平安に過ごすこと、地上の生活において救いの確信と心の平安を得ること、この世で成功すること、生かされていること、自分という存在があたえられていること、神さまがともにいらしてくださること、神さまが無償で愛してくださること。救いには多様な側面があり、いろいろに考えられます。
 では、どうしたら救われるのか。これにも、いろいろな考え方があります。旧約聖書の律法を守ること、善い行いをすること、神さまやイエス・キリストを信じること。
 けれども、どれくらい信じたらよいのか、70%信じたらよいのか、69%ではだめなのか。信じるということも、善い行いの一つであり、人間が自分で自分を救うための条件になってしまわないだろうか。このような疑問が起こります。
 今日の聖書のイエス・キリストのたとえ話によれば、「宴会に招かれていた人びと」とは、自分はこれだけの条件を満たしているので神さまに救われると思っている人びとのことではないでしょうか。けれども、そういう人びとは、自分の力や思いで救われようとしているので、「神さまの救いに委ねよ」という招きにじつは応じていないことがあるのではないでしょうか。
 これに対して、「通りや小道」にいる人びとは、自分が神さまに救われる資格があるなどとは思っていないけれども、神さまの恵みによって救いに入れられている人びとのことではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2023年6月4日

 「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(ルカ10:21)

  イエス・キリストご自身が幼子のような心であったから、聖霊によって喜びに満たされたのではないでしょうか。

 イエス・キリストに遣わされた72人が帰ってきますが、この人々は悪霊が屈服したことを喜ぶだけで、自分たちの「名が天に書き記されている」(10:20)ことには気づいていないのか、喜んでいませんでした。

 けれども、イエス・キリストが72人を遣わしたのは、神さまの「平和」(10:5)を伝え、病人を癒し(10:9)、神さまの国がここにある(10:9)ことを伝えるという三点ゆえでした。

 72人自身が幼子のような心を持っていなかったので、そのことに気づかず、この三点と同じことである「名が天に書かれている」ことにも気づかなかったのではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリスト自身は、幼子のような心で、そのことを知っていたのです。それは、神さまによって心が充たされることであり、「聖霊によって喜びにあふれる」ことでもあるのです。 


【今週の聖書の言葉】 2023年5月28日

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされた」(使徒言行録2:2-3)

 「激しい風」「舌」とありますから、聖霊は、風、そして、神さまのお言葉と密接にかかわっていることが、この聖書の言葉から伝わってきます。
 聖霊は、風であり、神さまの息であり、神さまのお力、お働き、お心、いのちです。また、聖霊の働きによって、「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」(2:8)とあるように、聖霊の働きと神さまの語りかけは重なりあっています。
 さらに言えば、創造主なる神は天におられ、イエス・キリストも復活後天に帰って行ったにもかかわらず、インマヌエル(「神さまはわたしたちとともにおられる」という意味の聖書の言葉)を可能にするのが、聖霊です。
 つまり、目には見えないけれどもわたしたちとともにおられる神さま、イエス・キリストが聖霊なのです。
 この聖霊は、「一人一人の上に」「めいめい」に働きかけてくださいます。十把ひとからげ、まとめて、というのではなく、それぞれに、ということです。
 たとえば、礼拝での聖書朗読や説教は講演会のように集団に向けて語られているように思えるかもしれませんが、神さまの言葉は、じつは、ひとりひとりに語りかけられているのです。
 神さまの愛、神さまの心は、わたしたちひとりひとりの今の状況に応じて働きかけてくださいます。それが聖霊の働きなのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年5月21日

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)

イエス・キリストの時代、律法学者やファリサイ派は、徴税人や罪人と呼ばれる人々を自分たちの共同体から斥けていました。徴税人は異邦人であるローマ人の手先になって働いている、また、律法の細かい規定を守れない人は神様から遠く離れた罪人だ、と言うのです。

けれども、イエス・キリストは、徴税人や罪人と呼ばれている人びとと、話をし、食事をしました。この人びとを受け入れたのです。

それを見て、律法学者やファリサイ派はイエス・キリストを非難します。そこで、イエス・キリストが語ったのが、百匹の羊と羊飼いのたとえ話です。

この世の価値観ですと、99は1の99倍もありますから、99の方が圧倒的に大切で、99を放置して1を探すのは、非効率であり、組織全体の損失である、ということになります。

わたしたちも、そこまでは行かなくても、一人の仲間や家族より、数の多い方を重視し、それを「全体」と考えてしまうのではないでしょうか。

けれども、神さまは違います。神さまにとっては、1も99も、一人も残りの全員も、優先順位はつけられません。神さまにとっての全体は1を失わない全体です。

わたしたち自身、自分が仲間から受け入れられないというような思いを抱えていても、神さまはわたしを受け入れてくださる、ということに救われています。


【今週の聖書の言葉】 2023年5月14日

「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(ルカ7:7)

百人の兵を率いる隊長は、病気で死にかかっている部下を助けるために、イエス・キリストに、最初は、自分たちのところに来てください、とお願いしていましたが、やがて、言葉をください、言葉で癒してください、と変更しました。

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」という創世記の言葉からもわかるように、神さまのお言葉には、世界と生物を創造し、わたしたち人間にいのちを与える力があります。
百人隊長がイエス・キリストに願い求めたものは、そのような神さまのお力とお心に満ちたお言葉だったのではないでしょうか。

死にかかっている部下にいのちをもたらす神さまのお言葉だったのではないでしょうか。

さらには、そのお言葉が届くことこそが、神さまとイエス・キリストが彼らのところに来てくださることそのものだったのではないでしょうか。

じつは、これは、わたしたちにとっても同じことです。わたしたちが聖書を神さまのお言葉として読むとき、イエス・キリストのお言葉として聖書の言葉がわたしたちに届くとき、神さまご自身、イエス・キリストご自身がわたしたちのところにお越しくださっておられるのです。

そして、そのお言葉に「わたしはあなたとともにいる」とあるとき、そのお言葉がここにあること自体が、神さまがわたしたちとともにおられることそのものなのです。このお言葉があること、これを聞くことがわたしたちの癒し、救いなのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年5月7日

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:17)

イエス・キリストはここで「命令」という言葉を使っていますが、これは、王が家来に否応なしに押し付ける命令、あるいは、律法学者が人びとに強制する規則とは、まったく違うものではないでしょうか。

なぜなら、イエス・キリストは「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と言っているからです。

友への言葉は命令ではありません。むしろ、それは、イエス・キリストがわたしたちに願う切実な祈りではないでしょうか。キリストは、わたしたちが互いに愛し合うことを切に祈ってくださるのです。

わたしたちは、互いに愛し合うことを難しく感じますが、それは、キリストの祈りに支えられていることを想い出さなければなりません。ここに、わたしたちが互いに愛し合える可能性と希望があります。
人を愛するということは、人を僕、奴隷、モノ、道具としてではなく、友、「あなた」と呼びかける相手として尊ぶことです。

では、わたしたちは、人を愛さなくてはならないのでしょうか。それは、義務でしょうか。たしかに、それは、キリストの切なる祈りではありますが、わたしたちへの強制ではありません。

けれども、わたしたちは強制されていないことを自発的になす可能性を持っています。しなければならないわけではないのに、あえて、自分の意志でなす、あるいは、神さまとキリストに促された愛に基づいてなす。

これを自由と呼びます。キリストを範とする自由です。


【今週の聖書の言葉 】2023年4月30日


「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」(ヨハネ6:35)

 苦しいこと、悲しいこと、つらいこと、さびしいことがあると、わたしたちの心は飢え、渇きます。そして、人からほめられることや、自分に望ましい、目に見える結果が出ることで、充たそうとします。それが適わぬときは、暴飲や暴食によって、心の空しさを埋めてしまおうとします。
 けれども、名声や成功によっても、満腹によっても、わたしたちの精神、あるいは、「命」の飢え渇きは癒されません。
 聖書が言う命とは、神さまとのつながりです。神さまがわたしたちとともにいらしてくださること、わたしたちとともにいらしてくださる神さまこそが、わたしたちの命なのです。
 では、その命のパン、命を養うパン、あるいは、命であるパンとはどんなパンでしょうか。それも、神さまとのつながりです。わたしたちは神さまとつながっていることで、神さまとのつながりを養われるのです。
 そのためには、わたしたちは何をしたらよいのでしょうか。ひとつは、聖書を神さまの御言葉として読み、そこで、神さまに触れることではないでしょうか。あるいは、聖書以外のものでも、目に見えないたいせつなものを語る本、物語、映画、音楽などもそうではないでしょうか。さらには、支配関係ではなく愛による人とのつながりも、わたしたちと神さまとのつながり、つまり、わたしたちの命を養ってくれます。
 命は目には見えません。だから、命は目に見えないパンによってこそ養われるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2023年4月23日

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(ルカ24:36)


平和とはどういうことでしょうか。詩編85編には「正義と平和は口づけする」とあります。そして、正義は「天から注がれる」ものだとあります。また、正義は慈しみである、ともあります。さらに、平和はわたしたちの地の実り、とも言われています。

つまり、平和は、天の神さまがわたしたちに贈ってくださる慈しみに基づいて、わたしたちが地で実らせるものであるとも考えられます。

イエス・キリストは十字架につけられ、息を引き取られ、墓に埋められましたが、三日目に墓は空となっていました。そして、イエス・キリストは、そのことを話している人びとの真ん中に現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。

これはどういうことでしょうか。まず、目には見えないけれども、御言葉においてイエス・キリストに触れるわたしたちの真ん中に、イエス・キリストご自身が立ってくださり、そして、わたしたちの平和になってくださる、ということではないでしょうか。

苦しんだり、心配したり、戦ったり、争ったりするわたしたちの真ん中に、イエス・キリストがいらしてくださる、このことがわたしたちの平和、シャロームなのです。わたしたちは、イエス・キリストを「平和の君」(イザヤ9:5)と信じるのです。

このイエス・キリストという平和を中心にして、今度は、わたしたちが私たちの間に、平和を生み出します。イエス・キリストはそのように促しておられます。

イエス・キリストの「あなたがたに平和があるように」という言葉には、「わたしがあなたがたの平和として真ん中にいるから、あなたたちも平和な関係を築きなさい」という響きが感じられます。


【今週の聖書の言葉】 2023年4月16日

 

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(ルカ24:15

 

イエス・キリストは復活なさっただけでなく、弟子たちに現れ、ともにおられた、と聖書は物語っています。ルカによる福音書には、ふたりの弟子たちが、イエス・キリストの十字架と復活について語り合いながら旅をしていると、そこに、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた、しかし、それがキリストだとは気づかなかった、とあります。

じつは、これと同じことが、わたしたちの人生にも起こっているのではないでしょうか。目には見えないけれども、イエス・キリストは、わたしたちの人生の旅にも同行してくださり、わたしたちを支え、導いていてくださるのです。

イエス・キリストは復活して、私たちの人生の、目に見えない同行者となってくださる、と福音書はわたしたちに教えてくれているのです。

旅の同行だけではありません。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(24:30-31)

復活したイエス・キリストは、わたしたちと食卓をもともにしてくださいます。聖餐式において、それがもっとも明らかになっていますが、わたしたちの日々の食卓にもイエス・キリストは「見えないお客」であり、どうじに、「食卓の見えない主」としてもおられるのです。

復活したイエス・キリストは、わたしたちの、目に見えない同行者、食事の友となってくださり、インマヌエル(神さまがわたしたちとともにおられる)が完成したのです。


【今週の聖書の言葉】2023年4月9日

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5-6)

イエス・キリストの復活には、わたしたちにとって、どのような意味があるのでしょうか。

一番目は、わたしたちが人生において、生活や仕事、人間関係、病気などにおいて、たとえ死んだような状態になってしまっても、神さまは、そこからわたしたちを起き上がらせてくださる、ということです。わたしたちの人生でどんなことがあっても、それで終わりではない、神さまが起き上がらせてくださる、ということを、イエス・キリストの復活は示しています。

二番目は、これに、関連しますが、イエス・キリストは復活して、弟子たちと共に過ごしたのち、天に昇ります。けれども、聖霊の降臨によって、目には見えませんが、ふたたび、弟子たちとともにおられるようになります。つまり、復活は、わたしたちにとっては、目に見えないけれども、イエス・キリストがともにおられる、神さまがともにおられることを意味します。

三番目は、わたしたちの肉体の死は、すべての終わりではない、どういう形かは具体的にはわかりませんが、わたしたちの思いをはるかに越えたあり方で、神さまがわたしたちとともにおられる、イエス・キリストがともにおられること(インマヌエル)は、わたしたちが地上の旅を終えた後も永遠に続く、ということです。

つまり、永遠なる神さまとのつながりは永遠のものであり、神さまがわたしたちに差し伸べてくださるこの永遠のつながりこそが永遠のいのちであり、復活はそれを示しているのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年4月2日

「人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)

ふたりの犯罪人はイエス・キリストとともに十字架につけられたのですが、これは、苦しみ死んでいくこのふたりには、イエス・キリストがともにおられた、イエス・キリストはこのふたりと共に苦しまれた、ということでもあります。

わたしたちは、苦しい時でも、誰かがその苦しみに共感してくれると慰められることがあります。「がんばれ」とか「そんな苦しみはたいしたことない」とか「皆、苦しんでいる」とかではなく、「ああ、そんな目に遭っているのなら、それは、本当に苦しいですね」「ああ、それは、想像を絶する苦しみですね」と受け止めてもらうと苦しみが少し和らぎます。

「共感」とは英語のcompassionという言葉に似ています。comは「一緒に」、passionはこの場合「苦しみ」です。つまり、compassionとは、共に苦しむことであり、共感はそれに通じると考えられます。

けれども、わたしたちは、厳密には、誰かと共に苦しむことはできないでしょう。苦しんでいる人とまったく同じように苦しむことは不可能です。わたしたちにできることは、せいぜい、上に挙げた言葉で表されるような気持で、その人によりそうことでしょう。

しかし、聖書は、神さま、そして、イエス・キリストは、わたしたちと共に苦しんでくださる、と証ししています。それが、イエス・キリストの十字架だと伝えています。

わたしたちはひとりではない、神さまが、イエス・キリストが共に苦しんでくださる、わたしたちが死を迎える時も、神さまが、イエス・キリストが共にいらしてくださる。これは、まさに、わたしたちの救いではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2023年3月26日

「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』」(ルカ20:14

主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た、というイエス・キリストのたとえ話では、主人は神さま、ぶどう園はこの世界、農夫はわたしたち人間を表わしているのではないでしょうか。つまり、神さまはわたしたち人間がゆたかに用いるようにこの世界を託してくださったのです。

たとえ話では、主人は収穫を受け取ろうと僕をぶどう園に送ります。神さまが期待する収穫とは、神さまを中心にした愛ある世界、神さまを愛し、隣人を愛し、人びとが神さまを真ん中にたがいに愛し合う世界ではないでしょうか。けれども、人間はそれを神さまに見せることはできず、神さまの言葉を語る預言者たちを傷つけ追い返してしまいます。

最後に遣わされた「わたしの愛する息子」(20:13)とはイエス・キリストのことでしょう。けれども、人間は、そのキリストをも苦しめ、十字架につけ、殺してしまいます。

跡取り息子を殺せばぶどう園は農夫たちのものになるように、神さまの子を殺してしまえば、つまり、そうやって神さま自身をわたしたちの世界から追い出してしまえば、世界はわたしたちのものになると人間は考えているのではないでしょうか。

神さまという存在を、そして、神さまがおられるという信仰を、わたしたちの心の中から追い払ってしまえば、世界も、わたしたち自身も、わたしたちのものになり、わたしたちの好きにできるような気がしてしまうからです。

けれども、ほんとうは、神さまを追い払うことでではなく、むしろ、神さまがわたしたちと共に生きてくださることで、わたしたちはこの世界のゆたかさを用いることが許されているのです。追い出して奪うのではなく、追い出さなくてもすでに与えられている神さまの恵みに気づきたいと祈ります。



【今週の聖書の言葉】 2023年3月12日


「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:24)


 人びとはイエス・キリストのことを「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」とか「昔の預言者の生き返りだ」とか言っていましたが、それは正解でした。預言者たちは、自分のことより、神さまの言葉とそれを人びとに伝えることに心を配りました。そして、それゆえに、苦しんだり、殺されたりすることになりました。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)という言葉も、イエス・キリストは、復活する前には、預言者たちと同じ苦しみの道を歩むことを物語っています。
 そして、わたしたちもそのイエス・キリストに従うように招かれています。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9:23)。
 わたしたちも自分中心の思いにではなく、イエス・キリストに従って歩みたいと祈ります。自分自分という心を横に置き、イエス・キリストのように神さまと隣人に想いを向けて歩みたいと思います。
 「自分の命」(9:24)とありますが、「命」とは、自分一人で自分中心に生きていることではなく、神さま、そして、人びととつながって生かされることではないでしょうか。
 「自分の命、自分の命」と言っていると、神さまや人びととつながる命を失い、「自分の命」も失ってしまいます。けれども、わたしたちは、神さまや人びととつながることで、まことの命、永遠の命に生かされるのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年3月5日

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)
 

 イエス・キリストはある人から「口を利けなくする悪霊」(11:14)を追い出します。するとその人はものを言い始め、人びとは驚嘆します。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(11:15)と言う者もいました。それを聞いて、キリストは「わたしは神さまの力で悪霊を追い出している。わたしは神さまの国をもたらしているのだ」と答えます。
 悪霊の首領の力で悪霊を追い出すということは、暴力に対して暴力で応じる、ということではないでしょうか。武力で人びとを苦しめる王を別の王が武力で打倒したとしても、あらたな王もまた武力で人びとを支配するのではないでしょうか。
 けれども、キリストが悪霊を追い出すということは、それとはまったく違うのです。それは、暴力や武力ではなく、神さまの力、神さまの国の力によるのです。
 そして、神さまの力、神さまの国とは、愛です。愛は相手を打ち倒すのではなく、相手をも支配している暴力を終わりにさせるのです。
 わたしたちは会議などで自分と違う意見が出されると、それを否定して自分の意見を通そうとします。しかし、相手の意見にも聞くべき点があれば聞き、自分の意見とすりあわせて、あたらしい意見を生み出すことができればすばらしいのではないでしょうか。
 イエス・キリストはご自分を十字架につける相手を力で打倒すことはしませんでした。むしろ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という一見絶望に思える言葉を口にして息を引き取られました。そこには、神さまに見捨てられたと思うほどに苦しむ人びとへの共感、愛があったのではないでしょうか。
 百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と告白したのは、キリストの武力を称えてのことではなかったのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年2月26日

「イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。」(ルカ4:4)

 イエス・キリストのこの言葉は旧約聖書の申命記8:3からの引用であり、そこには、正確には、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書かれています。
 「パンだけではない」ということは「パンも必要」ということであり、たしかに、わたしたちには衣食住が必要です。言い換えますと、目に見える支えが必要です。
 しかし、それらを過度に求めることはそれらを根本の頼りにしてしまうことになります。そうすると、たとえば、お金や財産や名誉や人間関係、能力、体力などが、根本の支えになってしまいます。
 適度な支えであるならよいのですが、それらを根本の支えにしてしまうと、実質的に、それらが自分の神になってしまいます。本来神さまがおられるべき場所に、お金や名誉がすわってしまうのです。それが誘惑です。
 けれども、イエス・キリストは、目に見えない神さま、目に見えない神さまの言葉をこそ、あなたの根本の支えにしなさい、と言っているのです。
 言葉はわたしたちを支えてくれます。誰かのやさしい言葉、文学の言葉がわたしたちの目に見えない支えになってくれることがあります。
 そして、その言葉が神さまの言葉に根ざしているなら、あるいは、その言葉が神さまご自身の言葉であるなら、それこそがわたしたちの根本の支えでしょう。
 聖書、そして、神さまが言葉を語ってくださり、わたしたちがそれをわかちあう礼拝、教会でこそ、わたしたちは神さまの言葉をいただき、それによって生かされるのです。


【今週の聖書の言葉】 2023年2月19日

「イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』彼らは言った。『わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません』」(ルカ9:13)

 ガリラヤとユダヤの小さな地方から少人数によって始まったキリスト教は、地中海沿岸地帯(今のトルコ、ギリシャ、イタリヤ、エジプトなど)に伝わり、さらには、今のフランス、ドイツなど、ヨーロッパ全体に広がりました。

その理由のひとつには、キリスト教会が貧しい人びとや病人、旅人をもてなしたことが考えられています。この「もてなす」という言葉は、現在の英語のホスピタル(病院)やホテルの語源でもあるようです。またこのもてなしは、神さまがわたしたち人間をもてなしてくださる、愛してくださることを示していました。

イエス・キリストの弟子たちは、そこにはほんの少しの食糧しかないから、外に買いに行かないと、集まった人びとをもてなせないと考えたようです。けれども、イエス・キリストは、他所から調達するのではなく、ここにあるもののゆたかさに気づいて、それをわかちあうことで、人びとをもてなす道を示されました。

弟子たちにとっては、「パン五つと魚二匹しか」でしたが、イエス・キリストにとっては、それは、「天を仰いで、賛美する」ほどの恵みだったのです。足りない、どこかから持ってこよう、とする前に、イエス・キリストは、今ここにある恵みに気づくように促してくださるのです。

わたしたちの教会には、今ここに何があるでしょうか。わたしたちはどうやって人びとをもてなすのでしょうか。ここには、神さまの愛があります。神さまの愛しかないのではなく、なんと驚くべきことに神さまの愛がゆたかにあるのです。ありあまるほどあるのです。

その愛をさまざまな方法でわかちあうことで、わたしたちは人びとをもてなしたいと思います。どんな方法があるか、ともに祈りつつ、ともに考えましょう。


【今週の聖書の言葉】2023年2月12日

 「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」(ルカ5:15-16)

 神さまに祈れば、わたしたちの病気は治るのでしょうか。病気そのものは、完治する場合もあれば、そうでない場合もあるでしょう。けれども、神さまは、病人=わたしたちを癒してくださり、救ってくださると信じます。
 聖書の時代、重い病気の人びとは、それは罪を犯したからだとされ、社会から斥けられることが多かったようです。けれども、神さまは、そして、イエス・キリストは、病気の人びとを斥けません。むしろ、たとえ重い病気になっても、神さまは、インマヌエルのお名前の通り、わたしたちを離れず、わたしたちとともにいてくださり、わたしたちを支えてくださいます。
 これは、病気の治療結果にかかわらず、神さまは病人であるわたしたちを癒してくださる、救ってくださる、ということではないでしょうか。
 今日の聖書の個所の直前で、イエス・キリストは重い皮膚病を治療し、その人を癒し、その人を斥けた世の中に戻ることができるようになさいました。すると、病気治療の話だけが広まり、それを目当てに人びとが集まってきました。
 けれども、キリストは病気治療をすることなく、人々から離れて祈りました。何を祈ったのでしょうか。病気の人びとが癒されることでしょう。
 たとえ、病気治療がなされない場合でも、キリストは、病気の人びとを見捨てたのではなく、むしろ、その人びとともに祈っておられるのです。キリストがともに祈ってくださる、そのことで、神さまがわたしたちとともにいてくださる。ここに、神さまの癒しと救いがあると信じます。


【今週の聖書の言葉】2023年2月5日

「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。」(ルカ8:8)

 この「種は神さまの言葉」(8:11)です。神さまの御言葉が、わたしたちの中に蒔かれ、それが百倍の実を結ぶ、というのです。それは、わたしたちの聞き方が良いからでしょうか。それもあるかもしれませんが、それだけではないでしょう。
 神さまのみ言葉が蒔かれる「良い土地」とは何のことでしょうか。それは、わたしたちの心のようでもありますが、これもそれだけではないでしょう。というのは、小さな種を百倍の実を結ばせるのは、わたしたちの力だけではなく、神さまのお力であると思われるからです。
 わたしたちの心の中にある「良い土地」は、じつは神さまがくださったものではないでしょうか。神さまが御言葉の放送局だとすれば、神さまはわたしたちの心の中にその放送を受信するラジオを備えてくださったのです。神さまの御言葉を「聞く耳」を神さまご自身が備えていてくださったのです。
 神さまからいただいた「良い土地」「聞く耳」がなければ、わたしたちの心は固い「道端」か「石地」か「茨」でありましょう。けれども、神さまはわたしたちの心に「良い土地」「聞く耳」を用意してくださり、御言葉の種を育ててくださるのです。
 神さまは「インマヌエル」と言ってくださいます。この御言葉は、わたしたちの心に神さまがくださった「良い土地」で大きく育ち、わたしたちの心はやがて「インマヌエル=神さまがともにおられます」というメッセージで満たされることでしょう。
 いや、すでに、インマヌエルの木はわたしたちの心の良い土地で大きく育っているのではないでしょうか。そのことに気づけますようにと祈ります。


【今週の聖書の言葉】2023年1月29日

「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ21:1)

 お金持ちたちは、有り余る財産の中から、おそらくはごく一部を賽銭箱に入れました。ですから、手元には、なお有り余る財産があり、彼らはその財産をこそ自分の人生の支えにし続けることでしょう。
 貧しいやもめは、生活費全部を献金しました。彼女には、もう何も残っていません。しかし、彼女にとって、献金は、神さまに自分の人生をお委ねすること、神さまをこそ自分の人生の根本の支えにすることでした。
 献金の金額はたしかに問題ではありません。献金は、その人にとっての意味が大事なのです。
 献金は会費ではありません。義務でもありません。教会という信仰共同体を営み、そこで自分の信仰を養い、さらには、神さまの御言葉、神さまからの福音(とても良い知らせ)を人びとに伝えていくための費用の負担を皆でわかちあうのです。
 けれども、これは単純な割り算、均等割りではありません。各人の状況と祈り、自由な意志に基づくものです。その意志は、神さまへの感謝と神さまへの信頼=委ねによって作られるものでしょう。
 わたしたちの人生にとって本を読むこと(あるいは音楽を聞くことなど)が大切であるなら、わたしたちはやや痛みを覚えながらもそれにお金を用います。
 わたしたちは全財産を献金してしまうべきではありませんが、人生を神さまにお委ねするやもめの信仰に憧れるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2023年1月22日

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(ルカ4:28-29)。

 わたしたちには、すなおにできる反省となかなかできない反省とがあるのではないでしょうか。自分で努力不足だったと自覚している時はすぐに反省できますが、人からあなたはこんなひどいことをしたと指摘された時は拒否や反発や弁解の姿勢になってしまいやすいのではないでしょうか。
 イエスの故郷ナザレの人びとは、イエスの言葉を一度はほめましたが、イエスのことを小さい頃からよく知っているゆえに、「この人はヨセフの子ではないか、たいしたことない」と拒絶しました。
 イエスはそのような人びとの偏見を指摘して、「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と言いました。ということは、このような指摘そのものも、彼らの反省ではなく、むしろ、暴力的な拒絶を招いたということです。じじつ、彼らは、「憤慨し、総立ちになって」、イエスを「追い出し」「突き落そうとした」とあります。彼らにとって、イエスはキリストと見なされていなかったのでしょう。イエスの言葉は神さまの言葉として聞かれていなかったのでしょう。
 わたしたちは、人からの指摘を受け入れにくいのです。けれども、神さまの前、イエス・キリストの前ならどうでしょうか。ほんらい、そこでなら、わたしたちは自分の悪い点、非、人を傷つけたこと、してはならないことを相手にしてしまったことを認めることができるのではないでしょうか。人から言われても受け入れられないことを、神さまの前でなら受け入れられるのではないでしょうか。
 神さまは、そうやって、わたしたちの傲慢や欺瞞、虚偽を打ち砕いてくださり、新しく創り直そうとしてくださいます。この神さまにお委ねいたしましょう。


【今週の聖書の言葉】 2023年1月15日

 

「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(ルカ5:10-11

 

「人間をとる漁師」とは、どんなことをするのでしょうか。この箇所の冒頭に「神の言葉を聞こうとして、群衆がイエスの周りに押し寄せて来た」(5:1)とあります。人びとが神の言葉を聞こうとしたのは、日常の不安、さらには、人生の根本的な不安を抱えていて、そこから救われる言葉を求めていたからではないでしょうか。

それにこたえて、イエスが語った神の国や神さまの愛は、ようするに、神さまこそがわたしたちの人生の根本の支えである、ということではないでしょうか。

わたしたちは神さま以外のものを自分の最大の支えにしようとしてしまいます。たとえば、お金、財産、体力、仕事などでの名誉、人間関係、人からの誉め言葉、点数としてあらわされるものなど。

もちろん、衣食住を保証してくれる適度な経済力、健康、健全な自己肯定感、家族や友達は必要です。けれども、それらを、神さまを超えるような自分の支えにしてしまい、それに執着すると、偶像崇拝になってしまいます。家族や友達はほんとうに大切です。しかし、神さまは万一家族や友達を失ったときもわたしたちの支えになってくださいますが、その反対ではありません。

シモン=ペトロらは「すべてを捨ててイエスに従った」とあります。わたしたちは全財産を売り払いお金を宗教団体に渡すなどということを強いられてはなりませんが、神さまを人生の根本の支えとしながら、信仰共同体を共に築き、支えて行きたいと思います。神さまこそがわたしたちの人生の根本の支えとなって下さる。ここに人びとを導く者、それが「人間をとる漁師」であり、教会ではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2023年1月8日
 
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)

 人びとは洗礼者ヨハネがメシア(救い主)ではないかと期待しましたが、ヨハネははっきりとそれを否定しました。救うのは自分ではない、神さまである、と。
 わたしたちは、苦しんでいる人を見て、自分でその人を救おうとしてしまうことはないでしょうか。しかし、わたしたちには人を救うことはできません。わたしたちは、神でもなければ、万能でもないのですから。けれども、そのことは、わたしたちが人の苦しみに無関心でいてよいことを意味するのでもありません。
 自分が誰かの救い主にはなれない/ならない/なるべきではないということと、ではどうしようもないと放置すること。両者の間に、もう一つ何かがないでしょうか。
「寄り添う」「そばにいる」「話を聞く」。少し前にこうした言葉が新鮮に登場しましたが、いまではだいぶ色あせてきました。ここらで、今、新鮮な言葉や態度をわたしたちはあらためて探し求めなければならないのかもしれません。
 その場合も、救いの土台は、わたしたちではなく、神さまでありましょう。けれども、わたしたちは何もしないわけではありません。神さまという揺るがぬ土台の上に立ちつつも、わたしたちにもなすことがあるでしょう。
 たとえば、東京から京都に行くのに、新幹線に乗れば、わたしたちは自分の力では西に向かわなくてよいのですが、食堂車に行きたいのであれば、自分で移動しなければなりません。
 救いと信仰は神さまがわたしたちに与えてくださいますし、それは神さまのお働きです。しかし、わたしたちはそれに気づくことができます。神さまは聖霊と火で洗礼をお授けくださいますが、教会は水で洗礼を施すのです。

【今週の聖書の言葉】2023年1月1日

「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:31-32)
 
 これは幼子であったイエス・キリストに出会った時のシメオンの言葉です。彼は高齢者であり、長いあいだ神を信頼し続けてきたのではないか、と思われます。
 シメオンは自分がついに出会ったイエス・キリストを「万民の救い」「異邦人の光」「民の誉れ」と言います。つまり、イエス・キリストは、誰かひとりだけの、あるいは、ユダヤ人だけの、特定の人びとだけの、ではなく、すべての人の救い主だと言うのです。
 わたしたちはどのように救われるのでしょうか。聖書やキリスト教会の歴史では、いくつかのことが言われています。正しい行いをする人は救われる、正しい信仰を持つ人が救われる、その信仰は神さまから与えられるものである・・・などなど。
 あるいは、救われるとはどういうことなのでしょうか。精神的な安心、死後の世界、この世での成功、罪の赦し、神さまとのつながり、神さまがともにおられることなどなど。いつも不安な人や、この世で不遇だった人、罪の赦しを心理的に確信できなかった人は、神さまに救われていないのでしょうか。
 このような人はこのような意味で救われる、このような人は救われない、と二分したい気持ちがわたしたちにはよく起こりますが、神さまの救いは、70点以上は合格、69点以下は不合格、というようなものなのでしょうか。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)。たしかに、独り子をキリストとして信じる人と信じない人がいますが、それ以前に、それに関係なく、神さまは、世=わたしたちを愛し、独り子をお与えくださいました。ここに万民の救い、すべての人の救いの希望があるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年12月25日

「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ2:7)

マリアとお腹の中のイエス、そして、ヨセフには「泊まる場所」がありませんでした。それは、宿屋が満室だったというよりは、ローマ帝国に支配された当時のパレスチナには、この家族が安心できる場所がなかったことを意味するのかもしれません。げんに、彼らは、住民登録の命令のために、一時的なこととは言え、住み慣れたナザレを後にしなければなりませんでした。

その晩野宿をしていた羊飼いたちにも場所がありませんでした。羊が汚れているせいでしょうか、町には入れてもらえなかったのです。

けれども、そんな人びとにたったひとつの居場所があらわれました。それが「飼い葉桶」、「まぶね」です。言い換えれば、神の子の誕生とは、場所のない者たちに神さまが場所を与えてくださる、いや、神さま自身が場所になってくださることなのです。

わたしたちも、日々の生活で、身の置き場のなさを感じることがないでしょうか。自分が平安でいられる場所がない、ということはないでしょうか。また、わたしたちが作る社会は、ある人びとから場所を奪っていないでしょうか。セクシュアリティ(性)や国や地域や職業や心身の状態ゆえに、人を斥けていないでしょうか。

幼子は大人となり、イエス・キリストは「神の国は今ここにある」と言いました。ローマ帝国をはじめ人間が作る社会はときにわたしたちから場所を奪いますが、それにもかかわらず、この世界はじつは神さまが愛によって治めておられる、愛によって神さまのところには、すべての人に場所がある、とイエス・キリストは教えているのではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】2022年12月18日

「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4:4-5)

 神さまは自分の子どもをわたしたちのところに遣わした、とパウロは言います。これは、もちろん、イエス・キリストのことです。それは、わたしたちを神さまの子どもとするためだと言うのです。
つまり、神の子イエス・キリストの誕生は、わたしたちもまた神の子とされるためだ、ということなのです。
 もちろん、イエス・キリストとわたしたちが、まったく同じ意味で「神の子」であるわけではありません。パウロは、イエス・キリストは「神の身分」(フィリピ2:6)だと告白しています。しかし、わたしたちは「神の身分」ではなく、あくまで人間です。
 けれども、イエス・キリストとわたしたちには共通点もあります。それは、神さまに愛されている、ということです。その意味で、イエス・キリストもわたしたちも、神さまの「子」なのです。
 イエス・キリストは神の身分であり神の子です。わたしたちは神の身分ではありませんが、それにもかかわらず、神の子としていただきました。
 このクリスマス、イエス・キリストの誕生によって、わたしたちもまた「神の子」としていただいていることを心に刻もうではありませんか。そして、「神の子」として、神さまに信頼し、神さまの愛のお心に従って生きようという想いをあらたにいたしましょう。


【今週の聖書の言葉】2022年12月11日

「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカ1:20)

 エリサベトとザカリアの夫婦はもう子どもが生まれるはずがない、と絶望していました。絶望とは希望がないということです。また、それは高齢だから、という理由も口にしていました。
 けれども、これは、人間の思いです。人間の思いでは、希望は持てません。人間は、さらにそれにそれらしい理由をつけてしまいます。
 では、希望はどこから来るのでしょうか。それは、人間の思いを黙らせる、自分の思いを静まらせることです。ザカリアが口がきけなくなるとはそういうことではないでしょうか。
 そして、人間の思いが沈黙したとき、はじめて、「わたしの言葉」すなわち神さまの言葉が実現するのです。自分の言葉を横に置いて神さまのお言葉を「信じる」(1:20)とき、つまり、自分のあれこれの言葉は黙して神さまにお委ねするとき、絶望が希望になるのです。
 絶望はわたしたち人間の思いです。けれども、希望は神さまのお言葉であり、神さまを信じれば、神さまにお委ねすれば、希望は絶望を遥かにしのぎます。
 わたしたちの頭や心の中は、自分の言葉、人間の言葉でいっぱいですが、アドヴェントの季節、それらをふーっと吐き出して、神さまの御言葉、御言葉であるイエス・キリストをすーっと吸い込みましょう。胸いっぱいにお迎えしましょう。


【今週の聖書の言葉】2022年12月4日

「そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。」(ルカ4:21)

 聖書に記されている神さまの救いの言葉は、いつ実現するのでしょうか。イエス・キリストは、それは、今日、あなたがそれを聞いたときだ、と言われます。
 これを言い換えますと、わたしたちが聖書に記されている神さまからの良い知らせ(福音)の言葉を聞いたり、読んだりすることそのものが、すでに、その実現なのだということになります。
 たとえば、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)という言葉をわたしたちが聞いたとき、イエス・キリストは共におられる、ということが実現しているのです。
 あるいは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)という言葉をわたしたちが聞いた時、神さまがわたしたちを愛してくださる、ということが実現しているのです。
 聖書において、言葉は出来事そのものです。「光あれ」という言葉は「光がある」(創世記1:3)ことそのものなのです。「光あれ」という言葉が光なのです。
 もうひとつ大事なことは「今日」という言葉です。聖書の言葉は「今日」実現します。創世記は神さまが太古に世界と人間を創造されたことだけでなく、今日、わたしという人間とわたしが生きる世界をあらたに創造してくださるのです。神さまは、今日、わたしたちを奴隷の地エジプトから解放してくださるのです。
 そして、イエス・キリストは、二千年前だけでなく、今日、わたしたちのところにお越しくださいます。わたしたちは、今日、イエス・キリストをお迎えいたしましょう。


【今週の聖書の言葉】2022年11月27日

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)

 アドベントに入りました。日本語では「待降節」と訳されていますが、アドベントの本来の意味は「来ること」「到来」です。イエス・キリストは、あるいは、神さまは、いつわたしたちのところに来られるのでしょうか。わたしたちは、キリストを、あるいは、神さまをどのように迎えたらよいのでしょうか。
 上に引用したヨハネ黙示録には、キリストはわたしたちの家の戸をたたく、とあります。わたしたちは、そこにキリストの声を聴き、戸を開けて、招き入れるのです。これを手掛かりにするのであれば、わたしたちは、来訪してくださるキリストの声をしっかり聴き、わたしたちの心の中に、生の中にお招きする必要があります。
言い換えれば、聖書の言葉に耳を傾けることで、わたしたちは、キリストを、あるいは、神さまをお迎えすることができるのではないでしょうか。アドベントやクリスマスだけでなく、毎日そうすることができるのではないでしょうか。
 もうひとつ考えたいことは、これから到来する神さま、キリストは、矛盾するようですが、じつは、すでに、わたしたちのところにおられるのではないでしょうか。そうだとすれば、わたしたちは、その神さま、キリストに気づく必要があるでしょう。
 わたしたちは、自分の心を静かにし、自分の言葉を黙らせ、わたしたちの中に、あるいは、わたしたちと一緒におられる、すでに到来してくださったキリスト、神さまをお迎えしたい、出会いたいと思います。
 すでに到来してくださったキリスト、神さまの到来を待ち望み、お迎えする。アドベントの意義はこの神秘にあるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年11月20日

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43

教会の暦は待降節第一主日に始まります。そして、一年の最後の主日を「王なるキリストの日」と呼びます。クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝うのであれば、一年最後の主日はイエス・キリストが完成させる「神の国」の王であることを覚えるという意味があるのではないでしょうか。

ルカ23章によりますと、十字架につけられたイエス・キリストの頭上には「ユダヤ人の王」(23:38)という札が掲げられます。これには侮辱の意図がありました。

しかし、ともに十字架にかけられた一人は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)と言います。この人はキリストを侮辱するのではなく、王だと信じたのです。だから「あなたの御国」と言うのです。

それに対して、キリストは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えます。「楽園にいる」とは、「御国にいる」、「神の国にいる」ということでありましょう。

日本語訳では、「王」と「御国」となっていますが、英語では、kingkingdom

です。kingdomとはking + domで、「王の国、王の治める領域、王の支配」と言った意味で、「ユダヤ人の王」という言葉と「御国」のつながりがわかりやすいのではないでしょうか。

つまり、イエス・キリストは「ユダヤ人の王」と嘲笑されましたが、じつは、その通り、「神の国の王」だった、ということになります。ただし、キリストは、この世の王のように力で支配するのではなく、むしろ、十字架で苦しめられ、愛によってわたしたちを下から支えてくださる僕なる王なのです。


【今週の聖書の言葉】2022年11月13日

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20:38)

 この言葉の意味は・・・神さまは、死んでしまった人に対しては神であることを止めてしまう、神さまは、肉体がまだ生きている人だけの神なのだ、神は死んでしまった人からは離れてしまう・・・このようなことではないでしょう。
 むしろ、神さまがある人の神である、ということは、その人の肉体が生きている時も死んだ後もいつも神さまが一緒におられる、ということではないでしょうか。
 さらには、ある人が「生きている」とは、神さまとの関係で言えば、生物として生きている、肉体として生きているということではなく、神さまとつながっている、神さまがその人とつながっている、ということではないでしょうか。
 言い換えますと、神さまは、わたしたちが肉体として生きている今も、肉体が滅びた後も、いつもわたしたちとともにいらしてくださる、そのことで、わたしたちは、生き続けるのです。
 「永遠の命」のポイントは、無限の時間を生物として生息し続けることなどではなく、永遠なる神さまがわたしたちと結んでくださるきずなは滅びることがない、永遠なる神さまからわたしたちに伸ばされた御手は永遠である、ということではないでしょうか。
 神さまは、今すでにわたしたちとつながっていてくださいます。そして、このつながりは永遠です。その意味では、わたしたちは永遠の命に入れられているのです。永遠なる神さまとつながっているならば、生きている今すでに、永遠の命に生かされているのであり、これは死によっても終わることはありません。


【今週の聖書の言葉】2022年11月6日


「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントの信徒への手紙二4:18)。

 わたしたちの心は、目に見える物質や目に見える出来事ばかりに向けられていないでしょうか。目に見えないものに、もっと心を注ぐべきではないでしょうか。目に見える物質はやがて朽ちますし、目に見える出来事は永久ではなく、変化します。
 けれども、目に見えないものは、永遠に存続する、とパウロは言います。目に見えないものとは、どんなもののことでしょうか。空気は目に見えませんが、物質であり、重さがあります。電波も目に見えませんが、エネルギーであり、測定できます。
 パウロがここで言っている目に見えないものは、むしろ、心や愛や希望や信仰に近いものではないでしょうか。これらには重さもなければ測定もできませんが、わたしたちは、これらがたしかにあることを知っています。
 わたしたちの心自身が目に見えないものですから、わたしたちの心は、もっと目に見えないものに注がれてよいし、心は目に見えるものより見えないものと親和性が高いのではないでしょうか。
 神さまも目に見えませんし、聖霊も目に見えません。イエス・キリストも、今は目に見えません。わたしたちは、目に見えない愛や希望、心を日常生活で当然のものとしているように、目に見えない神さま、聖霊、イエス・キリストにも、もっと自然に心を向けてよいのではないでしょうか。そして、この世の旅を終え、今は目に見えない死者たちにも目を注ぐことができるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年10月30日

 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(ルカ11:35)

 わたしたちの中にある光とは何でしょうか。わたしは、それは、神さまの光、あるいは、神さまという光のように思います。それは、神の「命の息」(創世記2:7)でもあるし、わたしたちのなかに生きておられるキリスト(ガラテヤ2:20)とも重なるのではないでしょうか。
 わたしたちの中にはこの神さまの光が点っていることを、いつも覚えていたいと望みます。わたしたちがそれを忘れてしまうことが、それを消してしまうことになるのではないでしょうか。
 そして、わたしたちは、この神さまの光が他の人にも伝わり、他の人の道を照らすことを祈り求めたいと思います。それは、わたしたちが何も聖人や立派な信仰者になることとは限らず、わたしたちの姿を見て、誰かが、ああ、神さまがこの人を生かしておられると感じることではないでしょうか。
 わたしたちの中にはたしかに「強欲と悪意に満ちて」(ルカ11:39)います。けれども、わたしたちの中には、神さまの光、神さまの命の息があり、キリストがおられます。
 わたしたちにできることは、強欲と悪意が神さまの光を妨げないことではないでしょうか。神さまの光が他の人に届くことをわたしたちの強欲と悪意が邪魔してしまうことを恐れ、そうならないように祈り求めたいと思います。
 わたしたちの中にある光をわたしたちが覆い隠してしまわないように日々心掛けたいと願います。


【今週の聖書の言葉】2022年10月23日

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

 イエスは「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言います。これは、今日食べるもの、今日着るもののことはたしかに不安だが、食によって養うべき命そのものと衣服によって保護すべき体そのものとは与えられているのだから、心配するな、という励ましの言葉ではないでしょうか。日本語で絶体絶命という言葉があるように、命と体は同じ事柄、つまり、今生かされているわたしたちのことを指しているのかもしれません。
 鳥は人間よりも小さいですが、食べ物のことで思い煩いません。空腹や食欲はあるかもしれませんが、どうしようかどうしようか思い煩うことなく、今あるものを食べるのです。
 神さまは食べ物よりも大事な、というか、食べ物の前提になる命そのものを鳥に与えています。鳥も人間も思い悩んでも寿命を伸ばせないことにも現れているように、命は神さまから与えられるものであり、神さまの領域に属するものなのです。
 野原の花も、着るもののことで思い煩いません。思い煩わなくても、神に装われているのです。花はその体そのものが装いなのです。
 神さまは着るものより大事な、というか、着るもの、装うものの前提になる体そのものをわたしたちに与えてくださっています。体も、それが今生かされているわたしたちを指すのであれば、それは、神さまからの贈り物であり、神さまの領域に属するものです。
 有体有命などという言葉はありませんが、命と体を与えてくださる神さま、今ここに生きているわたしという存在をわたしに与えてくださる神さまに委ねつつ生きるように祈りましょう。わたしたちは、小さくても、恐れなくてよいのです。


【今週の聖書の言葉】 2022年10月16日

  「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレト12:1

  19歳の春に大学に入学したものの、親元を離れ、入試のプレッシャーから解放され、わたしは通学はせず、パチンコと麻雀に明け暮れました。そんな生活を一年続け、これからどうしようかと考えました。

 その時、わたしの持っていた、ましなものと言えば、教会生活でした。小さな教会の子ども礼拝を手伝い、また、牧師夫婦と三人だけの聖書と祈りの会に毎週出席し(ご飯もごちそうになり)、牧師と二人だけのキリスト教読書会に参加していました。

 当時の自分にとって、まともなことはそれだけでした。小さい頃から教会には行っていましたが、聖書もキリスト教もどんなものなのかは分かっていませんでした。けれども、実家からは遠い町の教会で、それが少しずつわかり始めているような気がしていたのです。

 言い換えますと、大学に入学したものの遊び惚けて、大げさに言えば、何も持っていいなかったわたしにあったものは、冷静に言えば、すべてを失ったわけではなかったけれどもお決まりの軌道を外れたわたしにあったものは、神さま(だけ)だったのです。振り返れば、母の胎にあったときから、神さまはわたしと一緒にいてくださいました。小さい頃から、祈りはわたしとともにありました。祈りを通して神さまはわたしとともにいてくださいました。

 そのことが、道に迷った21歳のわたしにあきらかになったのです。わたしを創造してくださった神さまがそれ以来ずっとわたしの横に、わたしとともにいてくださったことが、あらためて示されたのです。このことを、青春の日々に、そして、今日この日に、わたしたちは心に刻もうではありませんか。


【今週の聖書の言葉】2022年10月9日

「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マルコ14:12)

 自分を捕まえようとする者たちが迫っている時、イエスは、「立て、行こう」と言います。これは、弟子たちに言っているように見えますが、同時に、自分を鼓舞しているのではないでしょうか。
 避けられない苦しみを前にして、わたしたちはどうするでしょうか。避けられないのですから、受けるしかありませんが、それには二通りあるように思います。
 ひとつは、受けたくない、受けたくないと思いつつ、否応なく、受けさせられてしまうこと、もうひとつは、すべてを神に委ねようと苦しみを受ける覚悟をすることです。
 イエスは、この直前に神にこう祈りました。「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 苦しみを取りのけてください、と祈ってもよいのです。しかし、その祈りは、神への委ねに支えられているのです。イエスの祈りは二段構え、二重構造なのです。
 「願うことではなく御心に」は、自分の考えより神さまのお考えの方が大切です、という、立派な信仰を表していると考えられますが、同時に、神さまへの深い委ねを意味しているのではないでしょうか。
 人生では、避けられない苦しみが起こります。病気の治療、挫折、自分の非を認め謝罪することなどには苦痛が伴いますが、避けることはできません。
 そして、最後には死を迎えます。死にたくないと言いつつ死ぬのか、神さまに委ねつつ死を受け入れるのでしょうか。その時は、立って、行きましょう。神さまがともに行ってくださるのですから。


【今週の聖書の言葉】2022年10月2日

「すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」(マルコ14:15)

 弟子たちは、その日の夕べの過越祭の食事をどうするか、気がかりでした。けれども、イエスは、場所、会場は用意されているので、そこに行って、食事の準備をしなさい、と言います。
今で言えば、テーブルとイスのある部屋はもう手配済みなので、あとは、そこに行って、食べるものを並べなさい、ということになるでしょうか。
 神とわたしたちの関係もこれに似ていないでしょうか。神は、わたしたちのために舞台は用意しておいてくださいます。あとは、その舞台で、わたしたちがどのように生きるか、ということなのです。
 わたしたちには、世界、社会、文化、言語といった舞台が、生まれた時から用意されています。体と心も用意されています。あとは、それを用いて、わたしたちが何をするか、いかなる生き方をするのか、ということなのです。
 あるいは、このように言うこともできるでしょう。神は、わたしたちに、インマヌエル(神がわたしとともにいてくださる)、アガペー(神がわたしを無条件に愛してくださる)、シャローム(神の平和、平安)という環境を用意してくださいました。
 あとは、わたしたちがこの環境に気づき、この環境に基づいて、また、この環境に従って、この環境にふさわしく生きる、ということなのです。
 ところで、過越とは、死から生へ移ることです。神は、わたしたちが死(神から離れた状態)から生(神につながった状態)へと移る用意をしてくださいました。あとは、わたしたちがそれに気づき、死ではなく神につながって生きることなのです。

【今週の聖書の言葉】2022年9月25日

「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(マルコ14:6)

 イエスの生きた社会にも「あの人たちは罪人だ」とレッテルを貼られた人びとがいました。けれども、イエスはその人びとを斥けようとしませんでした。この聖書の個所でも、イエスは「重い皮膚病」の人たちと食事をしていました。これはどのような病気かわかりませんが、この人たちは社会の外に置かれていました。
 イエスがこのような人たちと親しく交わることは、社会の中心にいる者たちからは、無駄なことであり、目障りなことであったのではないでしょうか。
 けれども、ここに、一人の女性が現れ、イエスの頭に高価な香油を惜しみなく注ぎます。
 「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩編23:5)。このような光景だったのかもしれません。
 けれども、これを見て、憤慨し、これは無駄遣いだ、と彼女を咎める者たちがいました。これは、罪人と呼ばれる人びとを排除しないイエスを、無駄な人間、目障りな人間と思っていた者たちかもしれません。
 けれども、彼女の行為は、罪人と呼ばれる人びとと食卓を共にするイエスの姿への賛美、肯定、共感だったのではないでしょうか。彼女は、神とともに、その食卓を祝福したのではないでしょうか。それゆえに、イエスを嫌う者たちを刺激したのではないでしょうか。
 イエスは彼女の自分への共感に喜んだことでしょう。イエスは、彼女の行為をそのままに受け入れ、自分への善意として受け入れたのです。 

【今週の聖書の言葉】2022年9月18日

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)

 パウロは洗礼を、わたしたちがキリストとともに死に、キリストとともに復活し、新しい命に生きることだ、と言い表しています。
 これまでの自分が死に、新しく生まれかわって、これまでとはまったく違う生活、人生、命を始めるのです。
 何が新しいのでしょうか。気持ちや考え方、生活の仕方も新しくなるかもしれませんが、一番新しいことは、これからは、自分の力ではなく、神の力によって生きる、ということです。
 これまでは、わたしという人間の運転席にはわたしが座ってわたしがわたしという人間を運転していましたが、これからは、そこには神に座っていただいて、わたしという人間を神に運転していただくのです。
 これまでは、わたしという人間をわたしの体や心が支えていましたが、これからは、神がわたしの支え、根本の支え、土台となってくださるのです。
 「新しい命に生きる」(ローマ6:4)とありますが、これには、三つの意味があると思います。ひとつは、わたしたちの生活が新しくなるということです。つぎに、人生が新しくなるということです。そして、わたしたちのいのちが新しくなるということです。
 これまでは、生物としての生命を生きてきましたが、これからは、神とつながって生きるのです。神とつながって生きることを、聖書は「永遠の命」と呼んでいます。
 洗礼は、このような新しい命、永遠の命の始まりなのです。


【今週の聖書の言葉】2022年9月11日

「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)

 ここで言われている心、精神、思い、力とは、どのようなものなのでしょうか。それぞれ別々のものでしょうか。それとも、同じものを言い換えているのでしょうか。それを尽くして、つまり、そのすべてによって、神を愛するように言われているのですから、それは、わたしたちを神と結ぶものと考えても、まとはずれではないでしょう。「霊」と言い換えてもよいかも知れません。あなたを神と結ぶ霊のすべてを尽くして、と。
 第二の掟で言われている「自分のように」とはどういうことでしょうか。いろいろ考えられますが、わたしたちは、自分のためには、やはり、すべてを尽くします。自分のことには全力を注ぎます。そうすると、「隣人を自分のように愛しなさい」とは「自分を愛するときすべてを尽くすように、すべてを尽くして隣人を愛しなさい」というように受け取ることもできるでしょう。
 このように考えると、第一の掟と第二の掟の共通点は、自分のすべてを自分にではなく、自分以外(つまり、神と隣人)に注ぐことである、とも考えられます。
 じっさいには、これは、とてもできないことですが、短い時間であるならば、自分への思いの半分を、神や隣人に向けることができるかもしれません。礼拝、祈り、他者への傾聴など。すべてではなくても、自分への思いのいくらかは、神と隣人に向けられるように祈ります。


【今週の聖書の言葉】2022年9月4日

「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』」(マルコ12:10)

 神はわたしたちにいのちを与えてくださっただけでなく、わたしたちが生きる世界をも創造してくださり、それを大切にすることをわたしたちに託してくださいました。
 旧約聖書の預言者たちは、神から課されたこの働きを人びとが忘れていないか問いかけ、あらためて思い起こさせようとしていたのではないでしょうか。けれども、人びとはこれを嫌い、憎み、袋叩きにし、殴り、侮辱し、殺し、捨て去りました。
 わたしたちも、自分以外の人びとを大事にしなかったり、苦しめたり、傷つけたりするのであれば、預言者を追い出しているのと同じではないでしょうか。
 わたしたちは、自分中心ゆえに、人を抑えつけます。それは、自分が世界を支配しようとすることと同じではないでしょうか。世界を自分の思うようにするために、わたしたちは人の背中を踏んでいないでしょうか。それは、自分が神にかわって、世界の主となろうとすることではないでしょうか。
 けれども、わたしたちのこの陰謀は失敗に終わります。なぜなら、わたしたちが捨てた石が、他の人の親石、他の人の支えになるからです。わたしたちが人を抑えつけても、人を斥けても、神はその人を大事な石、誰かを支える石としてお用いになります。
 わたしたちも、誰かに無用のものとされても、自分でそう思っても、神はわたしたちを大事にしてくださり、誰かの支えにしてくださいます。たとえば、わたしたちが存在している、生きているということが、誰かひとりの支えになっているのです。
 捨てられた石を親石にしてくださる神の奇跡に感謝いたします。

【今週の聖書の言葉】2022年8月28日

「イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」」(マルコ10:49)

 視覚に障害のある人がエリコの町の出入口付近の道端に座り込んでいました。そうしているしかなかったのではないでしょうか。起き上がることができなかったのではないでしょうか。
 そこをイエスが通りかかります。それを聞いて、この人は「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。人びとは黙らせようとしますが、この人は叫び続けます。
 すると、イエスは立ち止まりました。人びとはこの人をノイズ、いや、騒音としか思いませんでしたが、イエスはこの人の苦しみを聞いて、立ち止まったのです。そして、「あの人を呼んで来なさい」と言いました。
 そこで、人々はこの人に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言います。この人は何のためにイエスに呼ばれたのでしょうか。この人はイエスの前に行き、目が見えるようになります。
 けれども、イエスのメッセージはその前から始まっていました。人びとの「安心しなさい。立ちなさい」という声に、この人は、座り込んでいた状態から、躍り上がります。ここからすでにイエスの働きは始まっていたのではないでしょうか。
 「安心しなさい。立ちなさい」とは、人びとの言葉であると同時に、イエスのこの人へのメッセージだったのではないでしょうか。そして、このメッセージが、この人を起き上がらせたのではないでしょうか。
 神は、イエスとともに、わたしたちにも「安心しなさい。立ちなさい」と呼びかけてくださいます。そして、座り込んでいるわたしたちを起き上がらせてくださいます。



【今週の聖書の言葉】2022年8月21日

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)

 神の国は子供たちのものである、とはどういう意味でしょうか。ふたつのことが考えられます。
ひとつは、神は子どもたちを受け入れるということです。これは、弟子たちは妨げようとするのに、イエスは子どもたちを歓迎し、抱き上げて、手を置いて祝福したことに表現されているのではないでしょうか。
 もうひとつは、子どもたちも神を受け入れるということです。大人はあれこれ心配します。自分の未来や人生を信頼していません。いつも不安です。
 けれども、子どもたちは、お腹を空かせて泣いたり、何かを恐がったりすることはあっても、未来や人生に対する漠然とした不安などは持っていないのではないでしょうか。
誰かの手に抱かれている子どもは、その手を信頼して委ね切っているのではないでしょうか。赤子にとっては、その手こそが世界のすべてであり、その意味では、世界に自分を委ね切っているのではないでしょうか。
 世界に自分を委ねることは、神に自分を委ねることであり、それは、神を信頼することです。大人になって、時間を長い単位で、空間を広い範囲で考えるようになり、わたしたちは不安を増してしまいます。
 けれども、じつは、わたしたちが神やイエスに委ねることは、わたしたちが生きる時間と空間にわたしたちを委ねること、今自分を生かしてくださる永遠の命にわたしたちを委ねることではないでしょうか。
 自分のすべてを神の手に委ねる、子どもたちのあの霊性をわたしたちは取り戻したいものです。


【今週の聖書の言葉】2022年8月14日

「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。」(マルコ9:45)


 これに続く47節では、「一つの目になっても神の国に入る方がよい。」とありますから、「命にあずかる」とは「神の国に入る」と言い換えることができるのでしょう。
 これは、神とつながっていること、神がわたしと世界と人生を治めていると信じること、そのような信頼関係によって神に包まれていることではないでしょうか。
 ところで、「片足になっても」「一つの目になっても」とありますが、ここを「片足になって」「一つの目になって」とする聖書の翻訳もあります。
 どう違うのでしょうか。「も」がつく場合、無意識も知れませんが、「片足」や「一つの目」を「二本の足」や「二つの目」に「劣る」状態と見なしているのではないでしょうか。
 ところが、この聖書の言葉が本当に伝えようとしていることは、「たとえ片足になってしまって、二本の足より劣ってしまっても、神とつながっているからましだ」ということではないでしょう。
 そうではなく、この聖書の言葉が本当に言いたいことは、「あなたはつまずかないで、命にあずかっている方がよい」ということではないでしょうか。
 つまずくとは、この場合、神から離れてしまう、ということでしょう。わたしたちは、神から離れてしまいがちです。
 けれども、イエスは、しっかりと神とつながっていなさい、神がもたらしてくれる信頼の世界にしっかりとどまっていなさい、とわたしたちを招いているのではないでしょうか。わたしたちは、神の命にあずかり続けられますようにと祈りましょう。 


【今週の聖書の言葉】2022年8月7日

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35) 

 平和に生きるためにはどうしたらよいでしょうか。他の人や他の集団、他の国を侵害しないで、むしろ、共存するためにはどうしたらよいでしょうか。

 今日の聖書の個所(マルコ9:33-41)にもいくつかのヒントがあると思います。まずは、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」こと、つまり、人を抑えつけ自分が一番になろうとしないこと、自分の考えを押しつけようとしないことが挙げられます。

 つぎに、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げる」(36節)。つまり、もっとも弱く、一番隅っこに追いやられている人びとを、むしろ、真ん中に迎え、もっとも低くされている人びとを、むしろ、上へと抱え上げることが考えられます。

 そして、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(40節)。つまり、言葉や態度で味方であることを示してくれる人びとは味方で、そうでない者は敵である、というような考え方を止めることです。黙っていてもじつは味方である人びとはいます。誰もが自分の敵と思わないことです。

 さいごに、「一杯の水を飲ませてくれる者」(41)。水をかけて追い払うのではなく、水を差しだして迎えることが平和なのです。

 わたしたちは、日常の言葉や行為のひとつひとつにおいて、どれだけ、こうしたことを意識しているでしょうか。相手を傷つけていないでしょうか。相手をさきに攻撃していないでしょうか。攻撃されたら攻撃しかえしていないでしょうか。

 神こそがわたしたちの平和(シャローム)であることを想い起し、人との間に、シャロームを置く生き方を祈り求めたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2022年7月31日

「その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。」(マルコ9:26-27)

 わたしたちは生きている間にも、「死んだように」なる、死んだも同然の状態になることがあります。病気、家族、人間関係、仕事、学校、心のことで、苦しみ、それを乗り越える道が見えず、希望を絶やしてしまう、つまり、絶望してしまうことがあります。起き上がれなくなってしまうことがあります。
 そんなときでも、イエスが手を伸ばしてくれるこの聖書の個所を、わたしたち自身の物語として読むことができれば、それが希望になるのではないでしょうか。倒れても、また、倒れても、誰も近寄ってきてくれなくも、イエスだけは手を伸ばしてくれる、神だけは起こしてくれる、この物語は、絶望するわたしたちの希望です。
 けれども、わたしたちはやがて本当に死んでしまいます。死はすべての終わりなのでしょうか。いや、そうではない、ということをも、この聖書の言葉は伝えてくれているのではないでしょうか。
 死んだあと、わたしたちはどうなるのでしょうか。死後はどういう世界なのでしょうか。わたしたちの体や心はどうなるのでしょうか。聖書はそれをおぼろげにしか語っていません。たしかなことはわかりません。
 それにもかかわらず、たしかなことがあります。ひとつは、「神の国」は死を越えて続くということです。「神の国」とは、この世の支配者ではなく神さまこそがわたしたちを治めてくださるということですが、それは、生きている今だけでなく、死を越える永遠のことなのです。
 もうひとつ、インマヌエル(「神ともにいます」)という恵みも死を越えるとわたしたちは信じます。死後の世界ははっきりとはわかりませんが、そこもインマヌエルであると信じます。このことこそが、わたしたちの最大の希望ではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年7月24日

「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。」(マルコ8:23)

 この個所の「見える」という言葉は、目に見えるだけでなく、心で感じられる、という意味に解釈することができるかもしれません。
 もし、そうするならば、この聖書の個所は、イエスによって、わたしたちが神と出会う、神に導かれる道のりを語っているようにも思えます。
 じっさい、イエスは、「神の国は近づいた」「神の国・・・ それは、からし種のようなものである」「野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」というような言葉で、人びとに神のことを知らせようとしています。
 けれども、それは、一挙に進むものではなく、プロセスがあるようです。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(8:24)。イエスに癒されたこの人はこのように答えました。
 人は見えますが、ぼんやりと木のようにしか見えないのです。しかし、歩いていることはわかります。わたしたちも、神の姿ははっきりとは見えないのですが、神が生きて働いておられることはわかる、といったことがあるのではないでしょうか。
 「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(8:25)。
 わたしたちは、神のことを「何でもはっきり」わかることはありえませんし、神がはっきりわかったなどと思うことは誤解であり傲慢であると思いますが、それでも、神について、そのゆたかな横顔の数々やその深みを少しずつ感じてくるのだと思います。イエスはわたしたちをそのように導いてくれます。


【今週の聖書の言葉】 2022年7月17日

「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8:15)

「ファリサイ派の人々のパン種」とは何でしょうか。人を規則で縛ろうとし、それに違反する人びとを、罪人である、神に救われない、と裁く心の種でしょうか。「ヘロデのパン種」とは、人を支配し、自分の言うことを聞かせようとし、そうしない者を抑えつけようとする心の芽のことでしょうか。

これらは、今は小さくても、イースト菌の入ったパン生地のように、わたしたちの心や人の群れの中で、大きく膨れ上がってしまいます。わたしたちは、人を裁いたり、支配したりする思いでいっぱいになってしまいます。ここでは、このように、「パン種」は、わたしたちが注意したり避けたりするもののたとえとして用いられています。

しかし、この直後、イエスは、今度は、「パン屑」について語り、同じパンにまつわる題材でも、意味は大きく違います。

「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。」(8:19)。

この場合の「パン屑」は、神の恵みのゆたかさを示しています。五千人を満腹にさせても、あまりが出るほどのパン。神の恵みはそれほどまでにゆたかだと言うのです。

わたしたちは、ひとりひとりや群れの心の中に忍び込むパン種に注意し、それを大きくさせないように、神に祈りたいと思います。どうじに、神がわたしたちの人生に与えてくださった恵みのゆたかさをあらためて想い起したいと思います。


【今週の聖書の言葉】 2022年7月10日

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)


 なぜ徴税人や娼婦たちの方が祭司長や長老よりも先に神の国に入るとイエスは言うのでしょうか。この続きを見ますと、徴税人や娼婦たちはヨハネが示した義の道を信じ、祭司長たちや長老たちは信じなかったからだとあります。
 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:1)と言いました。徴税人や娼婦たちは祭司長や長老たちよりも深く悔い改めたのでしょうか。天の国のことを深く信じたのでしょうか。
 徴税人や娼婦たちはその社会の中で差別されていました。律法を守らない罪人とされていました。この人たちは、社会や周りの人びとを頼りにすることができなかったのではないでしょうか。それによって、この人たち自身の力も弱められ、発揮しようがなかったのではないでしょうか。
 この人たちは、神を深く信じたというより、このように、神しか頼むものが存在しなかったのではないでしょうか。そして、イエスは、そのような人びとこそが、神の心の中では、優先されていると信じたのではないでしょうか。
 平等とは皆にパンを一個ずつ同時に配ることではなく、今パンをひとつも持っていない人びとから先に配ることです。イエスは、今苦しんでいる人の苦しみこそがまっさきに顧みられるべきであると考えたのではないでしょうか。そして、神はそのようになさると。
 「神の国」とは「神の治め」のことです。この世は力がある者たちが治めているように思われますが、じつは、世界を治めているのは神だという知らせは、苦しんでいる人びとの救いと希望になるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2022年7月3日

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(マルコ6:2-3)

 イエスの言葉や行動に触れて、人びとは、非凡なものを感じますが、それは、すぐに打ち消されます。イエスは、学者でも宗教者でもなく、大工であったこと、イエスの家族は人びとと変わらない庶民であったことが理由です。
 わたしたちも、人を、その人の性、学歴、仕事、人脈、人脈における位置づけなど、その人の属性によって判断しないでしょうか。
 「いくら仕事ができると言ったって、あの人は女性ではないではないか」「あの人の学歴はたいしたことないではないか」 口には出さなくても、心の中で、こんなふうに思うことがないでしょうか。
 あるいは、同じ閥に属していても、そこには、目に見えないランク付けがあり、就職などで優遇される人もいれば、不遇を余儀なくされる人もいます。このランク付けは、小学校のいじめの構造とも似ていて、優遇・不遇、上位・下位の理由は明確には説明されないのですが、差別そのものは明確に存在します。
 イエスは、このように社会の中で差別される人間のひとりだったのではないでしょうか。イエスにおいて神は人となったと言う時は、それはどのような人だったのかが大切でしょう。神はヘロデ王や総督ピラトになったのではないのです。
 イエスが被差別者であったということは、わたしたちの差別を指摘し、同時に、差別されているわたしたちの友となったということではないでしょうか。 


【今週の聖書の言葉】2022年6月26日

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコ5:19)

 ここでイエスは「主があなたを憐れんだ」と言っていますが、これはどういうことを指すのでしょうか。
 ある人が非常に苦しんでいました。それは汚れた霊に取りつかれているとしか思えないような苦しみでした。その人は、叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていたからです。人びとはその人を助けるすべも、抑えるすべもなく、むしろ、鎖で縛ったり、墓場に追いやったりしました。
 けれども、イエスは違いました。イエスは、この人から汚れた霊を追い出そうとしました。それは、苦しむこの人から苦しみの原因、苦しみそのものを追い出し、この人を救おうとしたのです。
 その結果、この人から、汚れた霊が出て行き、苦しみが去り、落ち着きと平安が戻ってきました。イエスはこの出来事を指して「主があなたを憐れんだ」と言ったのです。
 この人はとても苦しんでいる。けれども、神がこの人から苦しみを追い出そうとしている。イエスはそう知って、「汚れた霊、この人から出て行け」と言ったのではないでしょうか。
 わたしたちも苦しみを抱えています。けれども、神はそのことを知っていてくださり、苦しみを追い出してくださいます。そして、わたしたちにはシャローム、平安が戻ってきます。
 神がそうしてくださると信頼しつつ、神さま、そうしてくださいと祈り続けましょう。


【今週の聖書の言葉】2022年6月19日

「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」(マルコ1:34)

 この聖書の個所では、イエスは病人から悪霊を追い出しています。それと入れ替わりに、神の霊が吹き込まれ、その人は回復するのではないでしょうか。
 この話と同じように、神は、わたしたちの中から、嫌なものを追い出し、良きものを注ぎ込んでくれるのではないでしょうか。
 ガラテヤの信徒への手紙にこうあります。「5:19 肉の業は明らかです。それは・・・敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ・・・その他このたぐいのものです。」「5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
 祈りは呼吸に似ているかもしれません。敵意、ねたみを吐き出し、平和、善意を吸い込むのです。祈りだけでなく、聖書を神の言葉として読むこと、キリストとしてのイエスに出会うことは、わたしたちの中の古いものが追い出され、新しいものをいただくことではないでしょうか。
 軍事、数、量、言葉や態度の強さ、頑なさで相手を抑えつけ自分を通そうとする態度が、この世界やわたしたちには染み付いているのではないでしょうか。それは、悪霊に取りつかれていることと似ていないでしょうか。
 ならば、わたしたちは、それを追い出したというイエスを通して、そのような古い態度、古い生き方から抜け出して、愛、寛容、誠実、柔和という新しい生き方を祈り求めることを習慣化したいと思います。そのような生き方へと招いてくれる神の言葉をつねに自分に聴かせたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2022年6月12日

「すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:11)

救いとは何でしょうか。わたしたちはどうしたら救われるのでしょうか。答えはひとつではないでしょう。聖書からも、二千年のキリスト教の歴史からも、いくつもの答えが見出されるでしょう。ひとりひとりにそれぞれの考えがあるでしょう。

わたしは、神がわたしたちを無条件で愛してくださり(アガペー)、わたしたちとともにいらしてくださり(インマヌエル)、そのことで平安をもたらしてくださる(シャローム)ことが、神の救いであり、これは、すべての人にすでに与えられていると考えています。

救いという言葉を使わずに、「神はすべての人を無条件に愛している」と言うこともできるでしょう。これは、最近は、よく言われているのではないでしょうか。

立派であるとかないとかに関係なく、神は人をそのまま愛している、ということを、教会はとくに最近強調してきたのではないでしょうか。

ところが、その裏で、この神の愛に応えて、わたしたちがどのように生きるのか、わたしたちがイエスに従って生きたり、神の愛の器として生きたりすることについては、あまり真剣に考えられてこなかったのではないでしょうか。

そのような生き方をしたら、神から救われるとか愛されるとかいうふうには、わたしは考えませんが、すでに神に救われている者、愛されている者として、自分を律して生きていく努力が、わたしには非常に欠けていたと思います。そして、私利私欲ではなく、神の愛にふさわしい生き方を習慣づける必要があると思うようになりました。


【今週の聖書の言葉】2022年6月5日

「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:4)

「一同は聖霊に満たされていた」とあります。つまり、そこに集まっていた人びとは、全体としては、聖霊に満たされていた、と言うことができるのです。けれども、それは、皆がまったく同じということではありません。ひとりひとりは、たがいに別の言語で話し始めたのです。共通点は「神の偉大な業を語っている」(2:11)ということです。

これを、聞く側からすれば、自分にもっともなじみのある言語で神のことが語られているということになります。隣にいる人には、自分とは違う言語が聞こえているかもしれませんが、「その人にもっともなじみのある言語で神のことが語られている」ということは共通しています。

使徒言行録はこれを、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されている」(2:6)と言い表していますが、これは、じつは、わたしたちにとっては、言語のことだけにとどまらないでしょう。

神は、わたしたちひとりひとりに、それぞれに一番なじむ方法で、語りかけてくださっているのではないでしょうか。わたしたちひとりひとりのこれまでの道のり、今の状態、心、体、たましいの様子に合わせて、語りかけてくださっておられるのではないでしょうか。

言い換えれば、神は、わたしたちひとりひとりの心、体、たましいの今の苦しみを知っていてくださり、それにあわせて、わたしたちに語りかけてくださるのです。それは、言語によるとは限りませんが、神はわたしたちとともにおられ愛してくださっておられることを、かならず、わたしたちにお示しくださると信じましょう。


【今週の聖書の言葉】 2022年5月29日


「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)

 永遠の命とは、どのようなものでしょうか。何万年、何億年、いや、永久に生きる生命のことでしょうか。上の聖書の言葉は、そのようには言っていません。
 この聖書の言葉は、永遠の命とは、唯一のまことの神を知ること、そして、その神が遣わしたイエス・キリストを知ることと述べています。聖書において、知るとは、深い交わりを持つことを意味します。おたがいに深くつながることと言ってもよいのではないでしょうか。また、「唯一のまことの」とは、世界やわたしたちの唯一のまことの源を意味すると考えられます。
 そうすると、永遠の命とは、イエス・キリストを通して、わたしたちの唯一のまことの源である神とつながった命、ということになります。
 わたしたちは、何かにつながって生きようとします。家族、友人、人脈といった人とのつながりを求めますし、水道、電気、ガス、流通といったライフライン(「いのちのつながり」!)によって生存しています。インターネットもつながりです。
 このようなつながりはひじょうに大切であり、わたしたちの人生や生活、生命に欠かせませんが、そこには限界もあります。モノのつながりは災害などで切断されることがありますし、人とのつながりも残念ながら永久のものではありません。
 けれども、神とのつながりは永遠です。わたしたちは神から命を与えられ、生まれてきて、神に支えられ、神に伴われて生きてきて、やがては、神の元に帰り、ずっとそこにいることができます。永遠の命は、死後始まるのではなく、いますでに、神とのつながりにおいて、ここにある命なのです。

【今週の聖書の言葉】2022年5月22日

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」(ヨハネ16:22)

 わたしたちの人生には、悲しいことがいくつか起こります。けれども、聖書は、それは永遠のものではない、と繰り返し述べています。
 「わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる」(エレミヤ31:13)。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。
 今日は苦しいけれども、明日には平安が訪れる。これは、たしかに大きな希望です。たしかに神はそうしてくださることでしょう。
 けれども、神の平安、神からの喜びは、明日まで待たないとならないのでしょうか。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」。わたしたちは、再びイエスと会い、わたしたちは心から喜ぶことになる。
 いや、わたしたちは、もうイエスと会っているのではないでしょうか。イエスはここにいるのではないでしょうか。目に見えないけれども、イエスはここにいるのではないでしょうか。さらに言えば、目に見えないけれども、神は今ここにわたしたちとともにおられるのではないでしょうか。
 そうであるならば、その喜びは、明日ではなく今すでにここにあるのです。わたしたちは悲しみの中にありますが、同時に、神がともにおられるという喜びの中にいるのです。悲しみの方がわたしたちの体に近いから、わたしたちは悲しみますが、じつは、その悲しみと悲しむわたしたちを、神がともにおられるという喜びが大きく包みこんでくれているのです。

【今週の聖書の言葉】2022年5月15日

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3-4)

わたしたちが自分以外の人びととともに生きていくとき、そして、教会のような共同体で生きていくとき、一番大切なことは何でしょうか。それは、へりくだること、だとパウロは述べています。

これは、たんに、いわゆる腰の低い姿勢だけを意味するのではなく、自分が得をしたい、尊敬されたいという思いを棄てることです。むしろ、相手を自分よりも尊ぶことです。ただ敬うだけでなく、相手の気持ちになって考え、行動することです。

「自分が、自分が」「相手よりも自分の考えを通そう」という思いを「無くす」ことです。わたしたちは、他の人びとと話をするときも、自分の意見を通そうとしていないでしょうか。その気持ちを棄てて、相手のことを考えることです。

パウロはその理由をこのように言っています。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:5-7)。

神は自分が神であることに固執せず、むしろ、神である自分を無にして、神と正反対に思われる僕(しもべ)の身分になった、それがキリストだと言うのです。

そして、この神に倣って、わたしたちも自分に固執せずに、むしろ、自分の思いを横において、他の人に仕える僕になろう、と言うのです。

【今週の聖書の言葉】 2022年5月8日

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」「殺してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」。このような旧約聖書の戒めは、ほんらいは、人を縛るものではなく、むしろ、人と人とが神につながって共に平和に生きるためのものだったのではないでしょうか。ところが、人が神を想いつつ心身を休めるための安息日が、いつのまにか、何が何でも仕事をしてはならない日とされ、それを守れない人は罪人だとして差別されるようになってしまうと、どうでしょうか。

イエスは「新しい掟」を与える、と言います。この掟は、形骸化し、桎梏となった律法とは違い、ほんらいの律法のように、人が神とつながり、人とつながり、人が生かされるものではないでしょうか。

「互いに愛し合いなさい」とあります。「互いに」です。「一方的に押し付ける」ではないのです。むろん、相手に条件や見返りを求めない「一方的な愛」というものがあります。愛とは、じつは、そのようなものでありましょう。

しかし、「相手に条件や見返りを求めない一方的な愛」は「一方的に押し付ける」こととはまったくちがい、むしろ、相手を想う愛のことです。この意味で、愛は、「相手に条件や見返りを求めない一方的なもの」であると同時に、相手を想う「互い」のもの、相互のものなのです。

わたしたちが、おたがいに、自分の利益ではなく、相手のことを想い、自分の主張ではなく、相手の考えを尊重するなら、どんなに平安なことでしょうか。イエスがわたしたちに伝えてくれた神の愛とは、神の利益のためでもなく、神の主張でもなく、神がわたしたちを無条件に受け入れてくれる愛ではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2022年5月1日

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10:10)

ここで、「わたし」とはイエスのことであり、「羊」とは、イエスの聴衆、聖書の読者、わたしたちのことであると考えてもよいでしょう。

では、わたしたちがイエスから受ける命とは、どういうものでしょうか。生物としての生命のことでしょうか。毎日の生活のことでしょうか。人生のことでしょうか。

これは、神とつながったいのち、神とつながって生きるいのちのことではないでしょうか。

神は目には見えません。では、わたしたちはどうやって神に気づき、神とつながるのでしょうか。それは、イエス・キリスト、キリストであるイエスを通してだ、と聖書は言うのです。

イエスは、教えやたとえ話、癒し、食事のわかちあい、嵐の鎮静などを通して、わたしたちが神に気づくように、また、神に触れるように導いてくれます。目に見えないけれども、世界を創造した神が今わたしたちとともにいて、わたしたちとつながっていることを感じさせてくれます。わたしたちは、そのことによって、平安と慰めを与えられます。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」(10:9)とはこういうことではないでしょうか。

ヨハネ福音書のこの個所では、「救われる」「牧草を見つける」「命を受ける」「豊かに受ける」という言葉が、ほぼ同じ意味で使われているように思われます。

イエスを通して、わたしたちは、神につながって生きるのです。


【今週の聖書の言葉】2022年4月24日

「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)

何かを間違いないと思いたいとき、わたしたちは目に見える証拠や、たしかな論拠を求めます。しかし、神を信じるための、そのような証拠も論拠も存在しません。それらによるのであれば、それは、「信じる」ことではなく、合理的納得です。

わたしたちの人生も、生きている世界も、歩んでいる歴史も、証拠や論拠によって理解するものではなく、むしろ、信頼すべきものではないでしょうか。

空気は目に見えませんが、物質として存在しますし、やりかたによっては、重さをはかることもできるでしょう。電波も熱も目に見えませんが、測定することはできます。

けれども、心や愛や友情はどうでしょうか。わたしたちは、これらが当然あるものとして生きていますし、言葉として使っていますが、じつは、これらが存在するという証拠も論拠もないのではないでしょうか。しかし、これらは、わたしたちの人生において欠かすことのできないものです。

わたしたちは、目に見えるもの、証拠のあるもの、論拠のあるものに頼りすぎていないでしょうか。わたしたちはその上に立とうとしているのではないでしょうか。

しかし、世界の基にあるものは、そのような目に見えるものではなく、目に見えず、証拠もない、けれども、わたしたちに予感をもたらす何かなのです。

わたしたちは、それを神と呼び、神の愛と呼び、聖霊と呼ぶのではないでしょうか。見えるものではなく、見えない神、わたしたちの人生、その舞台である世界をこそ、信頼したいと思います。


【今週の聖書の言葉】2022年4月17日

「彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。」(マルコ16:3-4)

イエスが十字架で死に墓に葬られ、ともに歩んだ人びとは、イエスは手の届かない遠いところに行ってしまった、イエスと自分たちの距離を埋めることは不可能だ、と絶望してしまいました。

イエスが埋められている墓の入り口には大きな石が置かれていて、それが、イエスと自分たちを隔てている、自分たちの力ではあの石は動かせない、いったいどうしたらよいのか、どうすることもできない、と。そう思いながら、下を向いて、とぼとぼと重い体をなんとか墓までひっぱっていきました。

それでもどうにか墓の前に辿り着いて、目を上げて見ると、なんということでしょう、自分たちでは動かすことができない大きな石が、もうすでに動いていたのです。あれこれ悩んでいるうちに、じつは、問題はすでに解決されていたのです。イエスとわたしたちの間にあった妨げは、じつは、すでに取りのけられていたのです。

わたしたちはひとりひとり、解決が難しい問題を抱えています。わたしたちは、どうしたらよいのか悩み、どうしようもないと絶望しています。けれども、神は、その大きな石をすでにとりのぞいてくださったのです。下を向いていては見えませんが、目をあげれば、天を仰げば、神を見れば、それがわかるのです。

わたしたちと死者とのあいだの大きな石もすでに取り除かれています。二千年前に死んだイエスと交流できるのと同様に、すでに召されたわたしたちの大切な人びととの心の交わりを隔てるものも、すでに取り除かれているのです。


【今週の聖書の言葉】2022年4月10日

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)

 病気、事故、災害などで、わたしたちの地上の生命が消え入りそうになるとき、わたしたちは、その危機を乗り越えるために、できる限りのことをします。また、自分以外の人の生命も、わたしたちはできるだけ守り、守られるように祈ります。神に与えられた自他の生命は、可能な限り守らなければなりません。
 けれども、わたしたちの地上の生命は永遠ではありません。できるだけ守り抜く努力をしても、地上の生命には終わりがあります。地上での、わたしたちの万策がつきるときがあります。そのときは、どうしたらよいのでしょうか。
 そのときは、神に委ねるのです。生命の最期の過ごし方も、そして、その後の地上のことも、その後のわたしたちのこともすべて神に委ねるのです。
 わたしたちは、二段構えで祈ることが許されています。イエスがそれを教えてくれました。
ひとつは、イエスのこの祈りのように、「神よ、この苦しみをわたしから取りのけてください」と祈るのです。「神よ、友の苦しみを取りのけてください」と、精いっぱい祈るのです。
 けれども、この第一の祈りを下から支えるように、「神よ、この地上での生命の終わりの時が来たならば、あなたに委ねます、わたしたちがあなたに委ねることができるように、神よ、わたしたちを導き、支えてください」と祈るのです。


【今週の聖書の言葉】2022年4月3日

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:44)

 イエスのこの言葉から、わたしたちは、どのようなメッセージを受け取るでしょうか。たとえば、会社の社長、組織の長など、「偉い者」「いちばん上の者」と思われる人は、長であるにもかかわらず、全員に仕える者、全員のしもべになりなさい、ということでしょうか。
 あるいは、偉くなりたい人、いちばん上になりたい人、長になりたい人は、最初からそうしないで、人に仕えたり、しもべになったりすることから始めると、だんだんと、認められたり、人望を得たりして、そうなれますよ、ということでしょうか。
 あるいは、偉くなりたい、いちばん上になりたい、などという考えは止めなさい、ということでしょうか。
 わたしたちは、トップになりたい、長になりたいなどとは思っていなくても、自分の思いや考え、意見を通したいという気持ちがないでしょうか。そして、そのために、言葉や態度は丁寧であっても、相手を抑えつけてしまうことはないでしょうか。
 人に奉仕をすることは大事ですが、その前提として、人を抑えつけようとしない、自分の思いを通そうとしない姿勢が求められるのではないでしょうか。
 言い換えますと、自分はどうしても人より上に立ってモノを言い、人を抑えて自分を通そうとしてしまうことに気づいて、そういうことがないようにつねに心がける、人を抑えつけない姿勢、生き方を身につけることが、すでに、人に仕えることになっているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年3月27日

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(マルコ9:5)


 山の上でイエスの服が真っ白に輝き、天にいるはずの旧約預言者エリヤとモーセが現れたのを見て、ペトロはこのような言葉を口にしました。興奮して舞い上がっていたのではないでしょうか。
 イエスら三人のために仮小屋を建てることは、聖なるものを大切にすることのようにも思えますが、違うようにも考えられます。つまり、ディズニーランドでとても楽しい思いをした子どもが、ぼくはもうずっとここにいる、明日からの嫌な学校生活には戻らない、と言い出すのと、ペトロの発言は似ているようにも思えるのです。
 山を下りてからイエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言います。
 ペトロたちが山の上で見たのは、復活するイエスの姿の「予告編」のようなものだったのかも知れません。しかし、「死者の中から復活する」とあるように、復活の前には死があるのです。死を無視して、復活の「予告編」だけを語ってはならないのです。
 わたしたちの人生にはいくつか喜びがありますが、それは、悲しみを乗り越えてのものがほとんどではないでしょうか。希望をもつ前には絶望の期間があり、楽しみの前には苦しみがあり、治癒の前には病があったのではないでしょうか。
 わたしたちは、一足飛びに救いを求めてしまいます。しかし、小春日和から春に至るには、厳しい冬の寒さを経なければなりません。言い換えれば、この冬を超えれば、春が来るのです。この苦しみを経れば、喜びが待っているのです。


【今週の聖書の言葉】2022年3月20日

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:33)

 これはイエスがペトロに向けた言葉です。イエスは、ペトロをサタンだと思ったというよりも、ペトロの考えは、あまりにも人間的だ、目に見えるものしか見ていない、深く考えず条件反射しかしていない、と言いたいのではないでしょうか。
 この直前にイエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言いました。「人の子は」とはこの場合「イエスは」ということですが、ペトロはこれを聞いて、イエスをわきに連れて行き、いさめたと言うのです。
 ペトロは、イエスの言葉の前半だけに気を取られ、そんな恐いことを言ってはならない、自分たちもそれに巻き込まれたくない、そんなことは起こりませんよね、わたしは絶対に嫌です、と感情を乱したのではないでしょうか。
 たしかに、恐いこと、痛いこと、悲しいこと、苦しいことは、わたしたちも嫌です。できるだけ、そんなことはあってほしくありません。しかし、そのようなもののすべてを避けることはできず、受けなければならないものもあります。
 できるだけの医療、治療、できるだけの戦争反対が必要です。けれども、それでも、わたしたちはいつか死にます。今死ぬことはできるだけ避けなくてはなりませんが、いつか死ぬことは受け入れなくてはなりません。それには、人間の思い、わたしたちの日常の思いを超えて、神を思う必要があるでしょう。
 そして、自分の思いを超えて、神の思いを垣間見るとき、イエスの言葉の後半、「殺され、三日の後に復活する」という言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年3月13日

「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:29)

 わたしたちが生きている社会には、悪霊がなしていることなのか、それとも、神の霊がなしていることなのか、わからないことがあります。
 戦争はどうでしょうか。多くの人が殺され、日常の生活が奪われるのですから、これは悪霊の仕業か、それとも、神のなしたことか、と問われれば、悪霊の仕業である、と答える人は少なくないでしょう。けれども、正義の戦争、聖なる戦争という考え方も、歴史上では何度もあらわれ、宗教者が必勝祈願などをする場合もありますから、この戦争は神の霊の働きだ、と答える人もいるでしょう。
 戦争に反対することはどうでしょうか。これも、戦争反対行動は神の霊に導かれているという人もいれば、悪霊に取り付かれているという人もいるでしょう。
 イエスは病気の人々を癒しました。当時、病気は悪霊の仕業だと思われていましたから、病気を癒すことは、悪霊を追い出すことを意味しました。イエスもそのような考えを共有していたかもしれません。
 しかし、イエスはそれを神の力を感じながらおこなっていたことでしょう。イエスは、神の国が来ている、神の力が働いている、植物の成長を見ると神のいのちの力がわかる、と考えていたのですから。
 ところが、イエスが病気の人から悪霊を追い出せるのは、イエスが悪霊の親分の仲間でその力を使っているからだ、と誹謗中傷する人びとがいました。
 わたしたちは、自分の利害関係や感情によってではなく、そこに神の働き、いのちの働きがあるかどうかによって、賛否や行動を決めるべき時があるのではないでしょうか。上記のイエスの言葉の真意はここにあるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年3月6日

 「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ1:13)

病気、家族のこと、仕事のこと、心のことなど、わたしたちの人生にはときおり難しい問題が起こります。それを試練と呼ぶこともできるでしょう。イエスはサタンから誘惑を受けたとありますが、それも試練のようなものなのかもしれません。
 わたしたちは問題が起こると解決したいと願います。それは当然のことですが、残念ながら、解決の難しい、あるいは、解決しようがない場合があります。治療困難な病気、変わらない人間の態度、自然災害、組織の巨悪の前で、わたしたちはどうしようもない場合があります。
 そのような解決困難な苦難と、わたしたちはどのように向かい合ったらよいのでしょうか。そのような苦難の期間をどのように過ごしたらよいのでしょうか。
 ひとつは、その苦しみを何とかわかろうとしてくれる人に話すことが良いと思います。アドバイスをもらったり、その人の考えを教えてもらったりするというよりも、「ああ、それは、苦しいでしょうね」と共感してくれる人に聞いてもらうのが良いと思います。どうじに、自分もその人の苦しみを、指導的にではなく共感的に受けとめることが大事だと思います。
 けれども、そのような相手は多くはないかも知れません。しかし、わたしたちには神がいます。神は、何も言ってくれないように思えるかも知れませんが、じつは、わたしたちの苦しみをじっと聞いておられるのではないでしょうか。
 イエスは四十日間苦しんだとありますが、その間、「天使が仕えていた」とあります。それは、神がともにいた、ということではないでしょうか。わたしたちの苦しみのさなか、神はわたしたちとともにいて、苦しみをわかちあってくださるのです。


【今週の聖書の言葉】 2022年2月27 日

「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」(マルコ4:39)。


イエスと弟子たちを乗せた舟が夜のガリラヤ湖をわたります。すると、激しい風と波が起こり、舟は水浸しになります。弟子たちは、心を乱します。けれども、イエスは枕をして眠っています。弟子たちはイエスを起こし「わたしたちがおぼれても構わないのですか」と訴えます。すると、イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言うと、風はやみ、すっかり凪になったというのです。

しかし、イエスが叱ったのは、弟子たちの乱れた心であり、イエスが「黙れ、静まれ」と呼びかけたのは、騒ぎ立つわたしたちの心ではないでしょうか。イエスは、わたしたちが心を乱しているのを叱りつけたというよりは、揺れに揺れるわたしたちの心を沈めようとしたのではないでしょうか。

苦しいこと、不安なこと、恐ろしいこと、人生や生活や生命が脅かされることがあると、わたしたちの心は、嵐の海のように乱れに乱れます。誰かが慰めようとしてくれても、自分で自分を鎮めようとしても、何か他のことで気を紛らわそうとしても、心の暴風はおさまりません。

しかし、嵐の海も深いところは静かだと言います。表面では風が吹き荒れ、波が押し寄せ、舟がひっくりかえりそうになっても、その海のずっと深いところは静まり返っているといいます。

わたしたちの心にも、海面ばかりでなく、深海があるのではないでしょうか。そして、深海は静かなのではないでしょうか。わたしたちの心の表が泣き叫んでいても、心の底では、イエスが枕をして静かに寝ているのではないでしょうか。

心の底の静寂に気づくとき、心の表にも凪が訪れるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2022年2月20日

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(マルコ2:5)

「あなたの罪は赦される」というイエスの言葉を聞いて、律法学者たちは「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」とイエスを責めました。罪を赦すことができるのは神だけであり、こんなことを言うなんてイエスは自分が神のつもりになっている、神を冒涜している、というのです。

しかし、彼らの問題はこれだけではありません。彼らは、中風など病気は罪を犯した人が神から受ける罰である、だから、神しか赦すことができない、と考えているのです。そして、自分たちこそが、神になったつもりで、この人は罪人だ、などと決めつけているのです。

けれども、イエスは、病気は神からの罰である、などとは考えていませんでした。病人は罪ゆえに神から罰を受けているのだから斥けようとする人の群れ、社会こそが問題であると考えていました。

ですから、イエスの「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉には、「神はあなたに罪の罰を与えてなどいない、社会はそういうふうに言うが、わたしは、それに反対する、人びとがあなたを罪人だと言うのなら、わたしはそんな罪は赦される、と言ってやる。病気は罪の罰などではないのだ」という意味合いがあるのではないでしょうか。

たしかに、キリスト教では、自分中心で、神からも人からも心が離れてしまっている状態を「罪」だと考えてきました。けれども、それに対して、神が個別に罰を与えるわけではありません。むしろ、その罪を乗り越えて、神がわたしたちのところにきて、ともにいてくださる、と信じるのです。

病気、不幸、失敗、挫折、貧困などを、わたしたちは、その人のせいだ、自分のせいだ、と考えてしまうことがあります。だから、しかたがないと。

けれども、聖書全体を通して、神は、そうではない、わたしはあなたを罰しない、あなたの苦しみはわたしからの罰ではない、苦しむあなたとわたしはともにいる、というメッセージを送ってくださっているのだと思います。

神はわたしを罰していない。これを受け入れる勇気を持ちましょう。


【今週の聖書の言葉】 2022年2月13日

「『また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた」(マルコ4:8-9)

 自分の思いや考え、言いたいことを話してばかりのときと、人の言葉に耳を傾け、かつ、それを理解しようとするとき。どちらのほうが、わたしたちの心はゆたかになるでしょうか。
 人の話を聞くということには、その人の考え方、筋道、心情、状況を理解し、場合によっては、それによって自分の主張を変えることさえ含まれるでしょう。自分の考えだけに執着すれば、心はそれ以上はゆたかになりませんが、人の考えも受け入れれば、心はずっと丸く膨らむでしょう。
 読むことも同じです。読むとは、知識や情報量を増やすこと以上に、今までの自分とは違う考えに触れることです。自分の考えを棄てて新しい考えに変えるというよりは、樹の下の土地のように舞い降りて来る無数の葉を積み重ねていく感じでしょうか。あるいは、自分の心の中に、ひとつの引き出しだけでなく、さらに、ひとつ、ふたつ、引き出しを増やしていくことでしょうか。
 たとえば、洗礼は大人が受けるという信仰があります。それから、洗礼は新生児でも受けることができるという信仰があります。ひとつの教会ではどちらか一方に決めるという考え方もありますが、どちらの信仰も尊重するという考え方もあります。
 自分の考え方を通すことにこだわらず、他の考え方を否定せず、自分以外のものに開かれ、自分の思いに閉じこもらなければ、わたしたちは、ゆたかになっていくのではないでしょうか。
 本を読んだり人の話を聞いたりすることだけではありません。神に対して開かれることです。自分の中の神のイメージにこだわらず、その中に閉じこもらず、聖書や礼拝や祈りや隣人を通して、あるいは、野の花や空の鳥や風景を通して、あるいは、文学や音楽や美術などの文化を通して、つねに語りかけてくる神に対して開かれること。これがわたしたちを百倍ゆたかにしてくれるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2022年2月6日

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4:26-27)

「神の国」とは「神のいのちの力が働いている場」と考えることができるかもしれません。イエスはこの種蒔きのたとえにおいて、神について、ふたつの大事なことを述べているように思われます。
 ひとつは、「(人が)夜昼、寝起きしているうちに」という言葉には「人が夜寝ている間にも」という意味合いが感じられます。つまり、蒔かれた種は、人間の力ではなく、神の力によって育つ、ということでありましょう。
わたしたちは、あれこれ自分の力でやろうとして、うまく行けば自信を持ち、うまくいかなければ失望したりしますが、わたしたちの人生には、そして、わたしたちの中には、自分ではなく神が育ててくれるものがあるのではないでしょうか。わたしたちの中には、神が育ててくれる植物があるのではないでしょうか。
 もうひとつは、「その人は知らない」とあるように、わたしたちは、そのような神の力、神が育ててくれるものに気づかなかったり、すこし気づいたとしても、完全には知り得なかったりするのではないでしょうか。
 神の気配、神の存在、神の力に気づくことは大事ですが、どうじに、神はわたしたちが把握しきれない存在、わたしたちがわかったつもりになってしまってはいけない存在なのです。
 わたしたちは、わたしたちをはるかに超えた神の力、いのちの力に気づきつつ、神をわかったつもりにならないで、むしろ、これまで知らなかった神のあらたな恵みに少しでも深く触れたい、と祈りつつ、前に進み続けたいと思います。
 神を知ったと思えば、神からの恵みもその人にはそれだけしか見えないかも知れませんが、神を知り得ないが少しでも深く知りたいと思えば、その人はより多くの恵みに気づくのではないでしょうか。そして、それもまた、神がわたしたちの中に植物を成長させてくださっておられることではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年1月30日

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1:41-42)

 その人はイエスに「あなたはわたしを清くすることができる」と訴えました。当時(そして、今なお)重い皮膚病の人は「清くない」「汚れている」と見なされていました。清い、汚れているという形容詞は、社会の人びと(そしてわたしたち)の偏見によってつけられていたのです。
 しかし、イエスはそのような人間の差別意識ではなく、いのちを与える神の愛に根差しており、自分を「清くない」とする社会のレッテル貼りから解き放ちてくれる、と重い皮膚病の人たちは直感したのではないでしょうか。
 イエスはこの人を「深く憐れみ」ます。これは、「腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られる」と訳すことのできる言葉です。つまり、重い皮膚病ゆえに人びとから汚れたものとされ蔑まれ遠ざけられていたこの人の苦しんでいる姿を見て、イエスは、自分の腸が引き裂かれるような苦しみを受けた、この人の痛みを(じゅうぶんかどうかはわかりませんが)激しく感じたのです。
 「憐れむ」とは、自分は安全を確保しながら、「この人はかわいそう」「助けてあげたい」と上から見下ろすことではありません。むしろ、自分の身が痛むほどに苦しむことです。「愛しい」と書いて「いとしい」と読みますが、「かなしい」とも読みます。compassionは「共感」と訳されますが、comは「共に」、passionは「被ること」「受難」を意味します。つまり、共に苦しむことが「共感」なのです。
 イエスは重い皮膚病の人の痛みをともに負いました。いや、ひとりの痛みは誰かに理解されたり共有されたりするものではありませんから、ともに負おうと切に願ったというべきかもしれません。あるいは、神だけがそれをできると知っていて、イエスは神に切に祈ったのかもしれません。苦しみながら祈ったのかも知れません。
 人びとが「汚れている」としたその人にイエスは「手を差し伸べて触れ」ました。そして、「よろしい。清くなれ」と言いました。イエスのこの言葉には、「あなたは汚れてなんかいない。そのあなたを清くないとする人間の差別が克服されよ」という祈り、腸がちぎられるような苦しい祈りがあるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2022年1月23日

 「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(マルコ1:25-26)

 もし、わたしたちの家が何ものかに占拠されて、わたしたちが苦しんでいるところに、助け手があらわれて、無法者に向かって「ここから出ていけ」と叱りつけ、追い出してくれたら、どうでしょうか。この聖書の個所を読んで、わたしはこんなことを想像しました。
 あるいは、わたしたちが心の中にどうしても長年消えない辛い思いを抱えているところに、神が訪れ、わたしたちの辛さをわかってくれ、その辛さに向かって「ここから出ていけ」と叱りつけてくれたら、どうでしょうか。
 イエスはある会堂で汚れた霊に取りつかれていた男の人と出会いました。当時、汚れた霊は、病気や人間関係で人が苦しむ原因のひとつに考えられていたのではないでしょうか。
 イエスは、その人が苦しんでいるのを見て、自分も苦しみ、なんとかその苦しみを取り去りたいと強く思ったことでしょう。そして、それが「この人から出て行け」という言葉になったのではないでしょうか。汚れた霊への激しい言葉は、苦しんでいる人への深い共感ゆえではないでしょうか。
 イエスの深い共感は、その人の中に浸みこんでいったことでしょう。その人は、汚れた霊と正反対のもの、聖霊、神の霊が入ってきたと感じたかもしれません。そして、それは、その人を苦しめている汚れた霊にまさる、と知ったのではないでしょうか。その人の心は、いまや、汚れた霊ではなく、神からの慰めの霊が治めるようになったのです。
 わたしたちも、苦しい思いに苦しめられます。そんなときは、本を読むのが良いと思います。聖書も良いと思います。苦しい思いにまさる慰めの言葉、しかも、世界の根源と永遠を志向する言葉は、わたしたちを苦しめるものにまさってくれます。汚れた霊が追い出されるという不思議な出来事は、わたしたちには、このような形で経験されることもあるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2022年1月16日

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

 わたしたちの中には、人への憎しみもありますが、人を大事にしようとする愛もあります。もう駄目だという絶望もありますが、きっと大丈夫だという希望もあります。何かを信じられない気持ちもありますが、信頼する心もあります。
 わたしたちが生きる世界にも、争いもありますが、和解や協同もあります。力によるねじ伏せもありますが、力を放棄したいたわりもあります。破壊もありますが、創造もあります。
 わたしたちには、憎しみ、絶望、不信、争い、ねじ伏せ、破壊ばかりが見えますが、愛、希望、信頼、和解、共同、いたわり、創造をも見ることがよいのです。
 絶望の後に希望が来ることだけでなく、絶望と同時に希望があることを見るのがよいのです。不信と同時に信頼があることを見るのがよいのです。
 洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判したゆえに、暴力によって投獄されました。イエスはその暗闇をしっかりと見ました。イエスは誰よりも深くその闇を凝視したことでしょう。
 けれども、イエスは、もうひとつのことも見ていました。この闇に輝く光があると。この世界を支配しているのはヘロデ王の権力のように見えるが、じつは、神が同時に支配しているのだと。ヘロデの支配は見せかけであり、神の支配はまことであると。ヘロデのは権力、暴力による支配だが、神のは愛による治めだと。
 わたしたちは、どちらを選択するでしょうか。ヘロデの暴力支配でしょうか。神の愛による治めでしょうか。憎しみでしょうか。愛でしょうか。絶望でしょうか。希望でしょうか。
 「福音を信じなさい」とは「福音の中で神を全面信頼して生きなさい」という意味だと学びました。この世は闇のようであるが、じつは、神が愛で治めている。わたしたちは、その愛の中に自分の身を委ねて、神を全面信頼する道を選びたいと思います。
 たとえ、わたしたちが全面信頼できなくても、神はわたしたちの全面を抱えてくださると信じたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2022年1月9日

「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」(マルコ1:10)

 イエスはヨハネから洗礼を受けた、とあります。頭の天辺までヨルダン川の水に浸かったのかもしれません。その水の中からイエスが顔を出すと、天が裂けて、何かが注がれた、というのです。
わたしたちは、息を止めて、プールに潜って、もうがまんできない限界で、水の外に顔を出したとき、ああ、生き返った、と感じたことがないでしょうか。
 水中から仰ぎ見る水面は、鋭角的ではないけれども、きらきら光っていなかったでしょうか。そして、水面を切り裂くようにくぐり抜けたところは、さらにまばゆく、いのちに満ちた世界ではなかったでしょうか。
 空が広いところでは、雲の間の太陽が30度くらいの扇形に光を地上に注いでいる光景を、ときどき目にします。わたしには、それが、神の霊が鳩のように降りて来るイメージと重なりあいます。
 洗礼は、「神はわたしを無条件に愛してくださる」という文字列を、具体的な経験にしてくれる出来事ではないでしょうか。
 雲の合間からの陽光は、「神の愛はすべての人に、世界全体に注がれる」ことの身体的経験ではないでしょうか。
 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、感覚などによる身体的経験と、言語や思索や感動や驚嘆などによる精神的経験を、行ったり来たりしながら、わたしたちは、神の霊を注がれているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2022年1月2日

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)

両親は、イエスがいない、迷子になったのか、連れ去られたのか、心配で探し回ったのですが、イエスは、「わたしは自分の父の家にいる」と強い調子で言います。これはどういうことなのでしょうか。
その時イエスは神殿の境内にいました。神殿は神の家、神はイエスの父、だから、神殿にいることは父の家にいること、という意味なのでしょうか。

そうかもしれませんが、もう少し広く考えることもできるでしょう。神は世界の主、この世界は神の家、だから、世界のどこにいても、神の家にいるのだ、だから、イエスは両親と離れても平然としていたし、両親も心配することはなかったのだ、というように読むこともできるでしょう。

以前の讃美歌に「ここも神の 御国なれば」とあります。父の家にも神の国にも、神が治め、わたしたちを守ってくれる場、という意味があると思います。

この世界には、たしかに、危険なこと、不安なこと、心身が張り裂けること、突き刺す孤独、震撼があります。理不尽も不条理もあります。

けれども、それでもなお、わたしたちは、ここも神の国、神の家と信じることが大事だと思います。思い切ってそう信じる勇気を持つことも大切ですが、無理に信じるのではなく、信じられる要素を数えてみることも大切ではないでしょうか。

何十年か前にいのちを与えられたこと、生きる世界が用意されていること、苦しいことばかりでなく楽しいこともあること、悪意ばかりでなく愛もあること、わたしが今ここに存在することをゆるされていること・・・


【今週の聖書の言葉】2021年12月26日

 「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ2:12)

神はわたしたちにどのようにして語りかけるのでしょうか。聖書の言葉、あるいは、讃美歌の一節、礼拝で聞いた言葉、自分の中に浮かぶ言葉にならない思いをそのように感じることもあるでしょう。あるいは、東からやってきた占星術の学者たちのように、夢での天使のお告げを神の言葉と受け止める場合もあるでしょう。

いずれにせよ、学者たちはイエスと出会うことによって、「ヘロデのところへ帰るな」という神のメッセージを受け取ったのでしょう。

それは、ヘロデのような生き方を止めて、新しい生き方を求めることだったのではないでしょうか。ヘロデのような生き方とは、自分の立場が脅かされることにつねに怯え、それゆえに、そのような者を警戒し、動きを抑えるような生き方のことではないでしょうか。

わたしたちは、自分を傷つける相手からは避難したり距離を置いたりしなくてはなりませんが、そうではなく、自分にとって好ましくない相手をただ追い払おう、ただやっつけようとする生き方は止めようとすべきではないでしょうか。

自分中心の思いで人を傷つけたり斥けたりねじ伏せたりする生き方から、他者の思いを不可能ながらも想像し、傷つけたり抑えつけたりせずに、むしろ、いたわり、その人に任せる生き方へと変われるように願い求めるのがよいのではないでしょうか。

あるいは、自分の人生を不安がるばかりの生き方から、神に委ねる、あるいは、委ねようとする、新しい道、これまでとは別の道を選ぶのがよいのではないでしょうか。イエスとの出会いはそれへと導いてくれるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年12月19日

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる』」(ルカ2:10)
 
 この病気はどうなるのか、足腰は悪くなるばかりなのか、家族の人生はどうなるのか、自分の日々の生活は維持できるのか、仕事は続けられるのか・・・わたしたちは、さまざまな不安や恐れを抱え、このままではいけない、どうしたらよいのか、しかし、どうにもならない、このままだとだめだ、と怯えています。
 わたしたちの心は、苦しみや悲しみや寂しさやいらだちや憎しみや憤怒でいっぱいです。ときどき楽しいことがあっても、それもまた否定的な想いの下に隠れてしまいます。
 二千年前、暗闇で野宿をしていた羊飼いたちも、恐怖や孤独や絶望に囲まれていたのではないでしょうか。けれども、天使は言います。「恐れるな。喜びの知らせがある」。
 この天使の声はわたしたちに届いているでしょうか。わたしたちは天使の声に耳を傾けているでしょうか。自分の声ばかり聞いているのではないでしょうか。
 天使はまばゆい姿で現れ高らかに語るとは限りません。むしろ、天使の言葉は、わたしたちには、別の姿で届くのではないでしょうか。
 わたしたちが目を閉じ、自分の思いを横に置き、黙祷し、静寂に耳を傾けるとき、聖書の言葉の表面の奥の深いところにある神のメッセージを求めるとき、一輪の花を咲かす深いところのいのちの力を想うとき、わたしたちには、恐れなくてもよい、大丈夫だ、あなたを創造し生かし続けるいのちの力がいつも注がれている、という喜びの知らせが聞こえてくるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年12月12日

「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:4)

わたしたちは、自分が過去になしたことや受けたことによって苦しめられます。それは、他者や自分を傷つけることであったり、自分が傷つけられることであったりするでしょう。わたしたちは、そのような過去に囚われてしまっています。
 その縄目から赦されるすべ、そこから解き放たれるすべはあるのでしょうか。聖書は、神に立ち返る道を示してくれます。それは、悪いことを止めて善いことを始める、ということに限られません。
 わたしたちは、神から心と体を与えられた者であり、神はわたしたちの心身の源泉ですが、わたしたちは傷ついたことで、そこから遠のいたり、それを忘れたりしてしまいます。
 聖書は、そのようなわたしたちに、源である神に立ち返るように、自分のルーツにもう一度触れるように、教えてくれます。しかも、神は、わたしたちから遠く離れているのではなく、じつは、目には見えないけれども、わたしたちのすぐそばに、日常の内奥にいるというのです。
 洗礼とは、そのような神に気づき、もういちど神とつながろうとする道のひとつでありましょう。劇的な変化、魔法の出来事が必ずしも起こるわけではありません。
 けれども、自分や世界の深いところに、神というこんこんと湧きだすいのちの泉があることを思うとき、わたしたちの人生も確かに深くなるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年12月5日

「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ7:8)

  聖書に書かれていることのすべてが、わたしたちが耳を傾けるべき神の心である、とは限りません。たとえば、コリントの信徒への手紙一14:34に「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」とありますが、これに従う教会は少ないのではないでしょうか。
 これは、神の心というよりも、女性を差別する時代や世の中を反映した言葉でありましょう。しかし、わたしたちの社会にも、「女性は一歩下がっているべきだ」という通念が強くはびこっているのではないでしょうか。セクシャリティの平等が唱えられても、男性以外のセクシャリティが軽視、蔑視され続けています。人間はそのような差別思考を固守し続けています。
 残念ながら、聖書にもそのような言葉が含まれています。けれども、聖書には、同時に、いや、聖書の根底には、すべての人を等しい重みに創造した神の愛が横たわっています。
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。神は、すべてのものを、人を、ひとしく「良い」、美しい、尊い、とご覧になるのです。これこそ、神の心ではないでしょうか。この神の心に基づいて、「隣人を愛しなさい」という神の掟があるのです。
 「婦人は黙っていなさい」は神の掟などではなく、人間の頑なな差別思考、わたしたちの執着であり、「神が愛する隣人をあなたも愛しなさい」こそが、神の掟なのです。 わたしたちの頑なな思いを棄てて、神の心に立ち返りたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2021年11月28日

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ13:32)

 マルコ福音書によれば、イエスは、大きな苦難が訪れ、太陽や月や星に異常が起こり、それに続いて「人の子」と呼ばれる者が神の力を帯びて雲に乗ってやってくる、と語りますが、「その日、その時は、だれも知らない、神だけが知っている」と付け加えます。
 大地震などがいつごろ起こるかについては真剣な科学的探究がなされていて、わたしたちも無関心ではありませんが、1999年に来るなどと空想されていた「世界最後の日」については、日常的に興味を持ち続けている人はほとんどいないのではないでしょうか。
 わたしたちにとって大事なことは、むしろ、わたしたちは神のような全知全能の存在ではない、わたしたちの人生や世界には予測したり対処したりできないことがある、わたしたちは神や世界のすべてを知ることはできない、という謙虚さではないでしょうか。
 創世記の物語では、人は禁断の実を食べ神のように賢くなろう、つまり、すべてを自分の考えで支配しようとしますが、神はそれを戒めます。
 わたしたちは、人生のすべてを自分の思うようにしたり、周りの人を自分の思うようにコントロールしたりするのではなく、その人のことはその人に、神のことは神に委ねることが大切ではないでしょうか。
 人生はどうなるかわからない、死はどのようなものかわからない、ただ、わからないことだけはわかり、自分の思いや力以外にこれらを委ねることが、生きることの意味、目標ではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年11月21日

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)

 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という戒めをみな守って来たという人に、イエスは「あなたには欠けているものがひとつある」と言いました。
 たしかに、この人は言われたことはすべて果たしてきたのでしょう。しかし、それ以上のことは、何一つしてこなかったのではないでしょうか。
 わたしたちも人を殺してはいないかもしれません。けれども、より積極的に、人を生かしてきたでしょうか。誰かが生きることに自分の持てる力や時間や財産を用いて来たでしょうか。
 わたしたちも人から盗んではいないかもしれません。けれども、より積極的に、人とわかちあってきたでしょうか。自分の時間や労力や衣食住の財を人とわかちあってきたでしょうか。
 イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言いました。金持ちは自分の富を独占しますが、それは、神の心からはほど遠い、とイエスは言うのです。
 はんたいに、富を独占せずに、自分のもてるもの(富、時間、心、身体、そして、祈りなど)を他の人とわかちあうことが、神の心に沿うのであり、神を中心にした交わりを豊かにすると言うのです。
 自分中心、独占から共生、わかちあいへ、イエスはわたしたちを招いています。


【今週の聖書の言葉】 2021年11月14日

「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マルコ13:5)

 災害、病気、悪政、貧困、挫折、失業、暴力、暴言、虚偽など、わたしたちの人生にはさまざまな困難が生じます。そのとき、わたしたちは何を頼りに、何を支えとすればよいでしょうか。
 家族や友、場合によっては見知らぬ人が大きな助けになる場合もあるでしょう。人と人とのつながりの中で生かされることは非常に大切です。けれども、残念なことに、わたしたちを惑わす人もいます。救ってくれるように見えた人がそうでなかったこともあります。一見救いに見える派手な言葉にわたしたちは惹かれてしまいがちです。
 世の中から聞こえてくる情報が助けになる場合もあるでしょう。正確な情報を得て判断することも大切です。けれども、わたしたちは、ふたしかなうわさや強引な言葉に、揺さぶられてしまうこともないでしょうか。
 職場や人間関係でひどい目に遭うこともあるでしょう。誹謗中傷を受けたり、言い分を聞いてもらえずに処分されたり、解雇されたりすることもあるでしょう。そういうときどうしたらよいのか、わたしたちにはわかりません。
 濡れ衣を晴らしたり、相手の非を明らかにしたり、謝罪してもらったりすれば、心が楽になれるような気もしますが、それには多大な時間と費用と労力が必要な場合があるでしょう。そんなことをすれば、苦しめられた記憶が際限なく繰り返され、ますます苦しくなったり、そんなことをしても、相手がこちらの願う通りにはしてくれないこともあるでしょう。どうしたらよいのでしょうか。
 イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言います。この言葉には、苦しみの中でも神があなたとともにいる、神はあなたをけっして見棄てず、むしろ、あなたとともに苦しみを負ってくれる、という前提があるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年11月7日

「神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」(出エジプト記3:15)

今から三千年以上前、旧約聖書によれば、イスラエルの人びとはエジプトで奴隷として苦しんでいました。しかし、神はモーセをリーダーに任じ、民を解放しようとします。
 その際に神は自分は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗ります。アブラハムらはモーセたちより数百年前の世代です。しかし、神は世代を超えて神である、というのです。
 アブラハムらの人生を導いた神は、その子孫であるモーセらイスラエルの民をも導くというのです。しかも、アブラハムの神は今でもアブラハムの神であり、それは、アブラハムは地上の旅を終えたあとも神とつながっていることを意味するのではないでしょうか。
 さらには、先祖が今も神とつながっていて子孫も今神とつながることによって、先祖と子孫も今もつながっているということではないでしょうか。
 先祖に限らずすでに地上の旅を終えたわたしたちの大切な人びとは、今も神とつながっています。神とつながっているという意味では、今も生きているのです。
まだ地上の旅を続けているわたしたちとも神はつながっています。そして、神を通して、わたしたちの大切な人びとはわたしたちとつながり続けているのです。


【今週の聖書の言葉】2021年10月31日

「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」(マルコ7:18)

 イエスが生きていた社会では、これらを食べると汚れるとみなされているものがありました。また、このような人は汚らわしい、このような行為は汚らわしい、などとも考えられていました。汚れたものに接触すると汚れる、というのです。
 たしかに、旧約聖書をみますと、そのようなことも書かれています。しかし、創世記には、より根本的なことが書かれています。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。
神は汚らわしいものなど創造していない、神が創造したものは、すべて、良い、美しい、と言うのです。
 人間の社会では、ときに、あの人たちは汚れているなどと思ってしまい、その考えが制度などで蔓延してしまうこともありますが、イエスは、創世記の言葉と同じように、汚れている人などいない、と知っていたのではないでしょうか。
何を食べたから、何をしたから、何だから汚れている、などとイエスは考えなかったでしょう。むしろ、そのような考えに怒りを覚えていたことでしょう。
だから、イエスは、その社会で、罪人だ、汚れているなどと言われ、斥けられていた人びとと親しく交わり、食事をともにしたのでしょう。
 これは汚れているという人間の想いによって、人をも自分をも汚してよいのか、とイエスは問いかけているのではないでしょうか。どうじに、自分は汚れていると苦しんでいる人に、あなたは汚れてなどないと語りかけているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年10月24日

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書4:24)

 ここでは、神は霊である、と言われています。そうすると、神を礼拝する者がもつように言われている「霊」は、神自身のことなのでしょうか。それとも、わたしたち人間がもつ精神的な何かのことなのでしょうか。
 この聖書の言葉をこのように言い換えてみるとどうでしょうか。「神は目に見えない大切な存在である。だから、わたしたちも、目に見えない大切なものをもって、神を礼拝するのだ」
 では、わたしたちは、目に見えない大切なものをもっているでしょうか。わたしたち自身ではそのようなものを持てないようにも思えますが、目に見えない大切な存在である神が、その目に見えない大切さをわたしたちにわかちあたえてくださるのなら、わたしたちの中にもそれがありうるのではないでしょうか。
 「聖霊」という言葉は神の霊について使われます。あるいは、神自身が聖霊であるとも言われます。そうすると、わたしたちの中にある霊は、この聖霊がわたしたちにわかちあたえてくれたものであると考えることもできるでしょう。
 神経、精神といった熟語が示すように、漢字の「神」には「心」という意味もあります。神は目に見えない大切なものであり、心も目に見えない大切なものです。
 わたしたちの心の愛が神の愛に基づくように、わたしたちの心の良質な部分も神に由来するものであるかもしれません。人間には憎しみや自己中心もありますが、信仰、希望、愛のような美しいものもあります。これら目に見えない大切なものは、やはり、目に見えない大切な神からいただいたものではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年10月17日

「目を覚ましていなさい」(マタイ25:13)

わたしたちは神に対して目を覚ましているでしょうか。ここに神がいることに、働いていることに気づいているでしょうか。
 わたしたちが神を知るのは、不思議なこと、奇跡的なことを通してばかりではありません。旧約聖書を開けば、聖書を記した人たち、その人たちが遺してくれた言葉、そして、預言者たちが、わたしたちを神に気づかせようとしてくれます。新約聖書では、イエス、パウロ、福音書記者たちが、わたしたちの目を神に向けようとしてくれます。
 あるいは、神が創造した世界も、また、神を予感させてくれます。大空、青空、雲、朝夕の陽光、山、森、木々、花、果実、土、風もそうです。イエスは空の鳥と野の花を通して、神がいのちに働きかけていることを教えてくれました。 
音楽や絵画も、芸術家が神を感じたことをわたしたちに伝え、わたしたちも芸術家とともに神を感じます。 人との交わり、人の温かさ、人の愛も、わたしたちに神の愛を予感させます。
 しかし、もしわたしたちが目を覚ましていなかったら、これらの中に、神を見過ごしてしまうかもしれません。
 イエスが十字架で息を引き取ったのを見て、ローマ兵の隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだ者の中に、「神の子」、神に生かされたいのち、神のいのちの働きを見いだすなどということは、眠っていてはできないでしょう。
 神はここに生きておられます。そのことに、いつも目を覚ましていたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2021年10月10日

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)
 
わたしたちが今持っているもの中には、自分の力で手に入れたものもありますが、そうでないものもあります。わたしたちが生きている世界、そして、わたしたちの命、わたしたち自身は、努力や代価と交換したものではなく、無償で与えられたものです。
 わたしたちは、この世界に生まれてくるとき、お金を払って命を買ったわけではありませんし、わたしたちが生きる世界の空間に賃料を払っているわけではありません。
 命も世界も、神がわたしたちに無条件であたえてくださったものです。わたしたちの人生もそうですし、わたしたち自身もそうかもしれません。
「神のものは神に返す」とはどういうことでしょうか。神のものとは、神からいただいたものです。わたしたちの命と世界は、自分のものではなく、神のものである、と知る。神のものを神に返すことは、まず、ここから始まるのではないでしょうか。
 けれども、始まりには続きがあります。わたしたちは、やがて地上の旅を終えます。その時は、わたしたちは、わたしたちの人生と命、そして、わたしたちが生活したこの空間を神にお返ししなければなりません。
 死は滅亡ではなく、返却なのではないでしょうか。神のものを神にお返しする日まで、わたしたちは神からいただいたものを大切にし続け、その時が来たら、感謝しつつお返しするのです。


【今週の聖書の言葉】2021年10月3日

「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう』」(マタイ21:31)

 当時のユダヤ社会の政治や宗教において力を持っていた人々に向けて、イエスはこの言葉を語りました。その人々は、自分たちこそがまっさきに神の恩恵を受けるべき者であり、徴税人や娼婦などは神から祝福されるはずがない、と考えていたのです。
 徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となり同胞であるユダヤ人からときには不正に税を取り立てていました。それゆに、徴税人は嫌われ、娼婦とともにその社会から差別を受けていたのです。しかし、イエスはこの人びとこそがまっさきに神の愛を受けると言いました。
 なぜでしょうか。ひとつは、社会を支配する政治や宗教の権力者が傲慢であり、人びとを踏みにじっていることを明らかにするためではないでしょうか。もうひとつは、それと対照的に、徴税人や娼婦たちは、苦しみ、悲しみ、痛みを抱えていて、自分の弱さを知るゆえに、神に救いを求めていることを、イエスは言い表そうとしたのではないでしょうか。弱さゆえに神に救いを求める、というよりも、苦しみ悲しみ痛みを抱えていること自体がすでに神の方を見ていることなのではないでしょうか。
 人間を見てイエスの言葉を考えればこういうことになるでしょう。しかし、イエスは、人間だけでなく、神を見ていました。人間の神へのまなざしだけでなく、神の人間へのまなざしをも、イエスは見ていました。
 イエスが見た神は、かつて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知った神でした。その神は、イエスの前で、徴税人や娼婦にも、さらには、わたしたちにも、同じまなざしを向けてくださるのです。


【今週の聖書の言葉】2021年9月26日

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)

 ぶどう園の主は、夕方の仕事終了間際になってやっと雇われた者にも、朝一番に雇われて一日働いた者と同じ賃金を支払いたいと言います。
 多くの時間働いた者が、あるいは、多くの成果を上げた者が多くの報酬を受けるという考え方からすれば、これは不正だということになるでしょう。
 しかし、このぶどう園主は、人びとを雇う際に、時給いくらなどとは口にしてなく、「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言ったのです。
 これを聞いて多くの人は「労働時間や労働成果にふさわしい賃金」と理解するかもしれませんが、じつは、これは、「あなたと家族が明日一日を生きるのにふさわしい賃金」を払おうという意味なのかもしれません。
 家族四人の一日の食費に一デナリオンのお金が必要だとします。朝一番に雇われた人は、朝一番にその不安がなくなりました。今日の夕方まで働けば、それを手にすることができるからです。しかし、午後になっても雇ってもらえない人は、明日の食費を確保できるか、朝からずっと不安で仕方ありません。
 ぶどう園の主の願いは、人びとに働いてもらうこと以上に、人びとの不安をなくすこと、人びとが明日も生き抜くことだったのではないでしょうか。「同じように支払いたい」とは「同じように生き抜いて欲しい」ということではないでしょうか。
 職を得られない、職を失うとは、生きていくことができないということです。わたしたち人間の世界ではざんねんながらそれがあります。
 しかし、神は誰をも解雇しません。たとえ、わたしたちが職を失っても、神を失うことはありません。神は、誰をも生かし、命の息吹を日々新たに吹き込んでくださいます。


【今週の聖書の言葉】2021年9月19日

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)

イエスのこの言葉は、「人間は自分の力で永遠の命を得たり天の国に入ったりすることはできないが、神は人間を天の国に入れることができる」という意味だと思われます。
  「永遠の命を得る」あるいは「天の国に入る」ということは、死後のことだけではなく、この世界で神に恵みを受ける、神に大事な存在と見なされる、神に愛される、ということでありましょう。
 ある人びとは、これを神からのご褒美だと考えて、ご褒美を得るために、戒めを厳しく守ったり、善行をなしたりしようとします。あるいは、神に対して信仰熱心であろうとします。
 しかし、これをどれだけなせば、神に愛されるのでしょうか。完璧になさなければならないのでしょうか。100点をとらなければならないのでしょうか。80点以上なら大丈夫でしょうか。65点ならどうでしょうか。神から愛されるのは65点以上の人なら、64点の人は神から愛されないのでしょうか。
入学や就職の試験ならそうでしょう。しかし、神の国はそうではありません。神は、何点以上の人を愛するのではなく、すべての人を愛するのです。
神の国に入るのに入学試験があるならば、わたしたちは誰も合格できないのではないでしょうか。しかし、神の国に入るのに、資格はいりません。神はすべての人を招いているのです。
 自分はこんなにダメな人間だ、生きる資格がない、教会に行く資格がない、神を信じる資格がない、とわたしたちは考えます。けれども、神はわたしたちに資格を求めません。神はわたしたちを資格なしで愛してくださいます。神にはそれができるのです。

【今週の聖書の言葉】2021年9月12日

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイ18:33)

これは、イエスのたとえ話の中で、主君が家来に言った言葉です。つまり、神はわたしたちに「わたしがあなたの苦しみを受け止めたように、あなたも仲間の苦しみを想うべきではないか」と言っているということではないでしょうか。

「憐れむ」という語には、恵まれた人が恵まれない人を上から見下ろすようなニュアンスをわたしたちは感じますが、本来はそうではないようです。「同情する」という類語にも同様の意味合いがまとわりついていますが、漢字を見ますと、「同じ」「情(心、感情)」を持つ、とあります。「共感」も「感情、心」を「共にする」という意味でしょう。

たとえ話で主君が家来に使った「憐れむ」という意味のギリシャ語の類語には、内臓が動かされる、という意味があります。わたしたちも、人の苦しみを目の当たりにして、お腹が痛くなることがないでしょうか。

旧約聖書の出エジプト記3:7にこうあります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」

神はわたしたちの苦しむ姿のすべてを見てくださり、わたしたちの叫び声を聞き逃さないでくださり、痛みをわかってくださるのです。

その神に感謝してわたしたちのできることは、やはり、苦しむ人の痛みをわたしたちの痛みにすることではないでしょうか。ともに傷むことではないでしょうか。それは難しいことですが、そうしようと願う人だけがその難しさを知り、その難しさを知る人だけがそうしたいと切に祈るのではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】2021年9月5日

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)

 「小さな者」とは誰のことでしょうか。マタイによる福音書では、イエスはこの言葉の少し前に、子どもを呼び寄せ、弟子たちに受け入れるように勧めています。社会の一員とは認められず、役に立たないものとして周縁に斥けられていた子どもたちを、イエスは、むしろ真ん中へと招いたのではないでしょうか。
 マタイ福音書はまた25章のイエスの言葉において、飢えている人、喉の渇いている人、宿を求める旅人、着るもののない人、病気の人、獄中の人を「最も小さい者」と呼んでいます。
 そうしますと、「小さな者」とは、世の中で斥けられている人びと、居場所のない人びと、困難を抱えている人びとのことであると考えることができるでしょう。
 あるいは、心細さを抱えている人びと、自分の弱さに苦しんでいる人びと、自分には価値がないと心を痛めている人びとのことでもありましょう。
 では、「滅びる」とはどういうことでしょうか。ひとつは、この世の中で無いに等しい存在とされてしまう、存在を無にされてしまうことではないでしょうか。そして、もうひとつは、神とのつながりを失ってしまうことではないでしょうか。
 しかし、それは神の心ではない、神の願い、神の意志ではない、と聖書は言うのです。小さな者が人びとから斥けられず、むしろ、人びととつながり、神から斥けられた者と見なされず、むしろ、神ともつながる。これが神の心であり、神の意志であると聖書は言うのです。
 わたしたちもまた、自分をどんなにダメだと思っても、神の目には価高いことを想い起し、同時に、他の人を斥けない生き方に招かれていることを思い出しましょう。


【今週の聖書の言葉】2021年8月29日

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13:45-46)

「天の国」とはどのようなものでしょうか。イエスはこのようにたとえています。商人が良い真珠を探しています。良い真珠とは、人生にとって大切なもののことではないでしょうか。そして、商人とは、それを探し求めているわたしたち人間のことではないでしょうか。高価な真珠とは、わたしたちの人生にとってもっとも大切なもののことではないでしょうか。
 わたしたちは、意識していてもしていなくても、いつも何かを求めています。自分の心の穴、むなしさ、空白、不安、孤独を満たしてくれる何かを求めています。そうしていろいろなものを手にとってみます。
 しかし、お金や地位や娯楽や快楽は、一時的な幸福感を与えてくれますが、それはいつも、すぐに失うのではないかという不安感やこれは本物ではないという虚無感と背中合わせなのではないでしょうか。
 わたしたちが本当に求めるべきものは、わたしたちのいのちの源である神とのつながりでありましょう。わたしたちはひとりぼっちではない、いのちの源である神がいつもともにいてくださる、神はわたしたちを無条件に愛してくださる、このことこそが、わたしたちを満たしてくれるのです。神の愛、神とのつながり、神ご自身こそが天の国です。
 けれども、天の国は、わたしたちが探し求めるだけでなく、それ以前から、わたしたちの前にあり、わたしたちを待っていてくれることも覚えておきたいと思います。


【今週の聖書の言葉】 2021年8月22日

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-32)

 わたしたちは母の胎に宿って二か月くらいの時、身長は数ミリ、体重も数グラムで、ぶどう1粒くらいだったそうです。誕生時は、個人差はありますが、数十センチ、数キログラムになる場合があります。成人になると、百数十センチ、数十キログラムにもなる人もいます。つまり、身長は数百倍、体重は一万倍くらいになるのです。
 植物の場合も、小さな種や苗木が、何千倍、何万倍に成長します。動植物の成長する力には驚かされます。成長する力は生命の力でもありましょう。そして、生命の力は、神の力でありましょう。神の力が働いている場を、神の国、あるいは、天の国と呼びます。
 小学校一年生の時、大きなマスのノートにひらがなを初めて書いて以来、今日までわたしたちは一体どれだけの文字を書いてきたことでしょうか。小学校に上がる前、初めて言葉を発して以来、今日までわたしたちは一体どれだけの言葉を紡いできたことでしょうか。たとえ、それが記録に残っていなかったとしても、その時間が積み重ねられて、わたしたちの人生の丘があります。
 自分の歩みを振り返ってみて、小さな種を大きく育ててきた、小さな夢を大きく実現してきた、と言えるようなことがなかったとしても、わたしたちの何十年もの、呼吸、足跡、考えたこと、感じたこと、出会った人、すれ違った人、触れた言葉は、莫大なものです。やはり、からし種は大きな木になり、いのちの営みは積み上げられてきているのです。神のいのちの力は働いているのです。


【今週の聖書の言葉】2021年8月15日

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50)

親の愛、家族の愛、その強さやその崇高さにまさるものはない、とよく言われ、フィクションやノンフィクションの題材にもされます。しかし、同時に、親の暴力、支配、家族の桎梏、重圧、冷淡もニュースになり、本などのテーマにもなっています。
 家族は愛に満ちたものなのでしょうか。それとも、残酷な舞台なのでしょうか。家族は初めから自然に愛に満ちているわけではなく、そこに愛があれば、愛の場となりますが、愛がなければ、渇いた砂漠となるでしょう。
 人は他の人と生きていきますが、家族はその最小単位のひとつであり、人が他の人と一緒に生きていくための稽古場のひとつでもありましょう。
 家族は無条件に愛に満ちているわけではありません。そこにいる人が、イエスの言うように「天の父の御心」つまり「神の意志」つまり愛を実行しようと意識しなければならないでしょう。
 エフェソの信徒への手紙は教会の人びとに、愛によって自分たちの共同体を築いていくように促しています。「愛によって」とは、人びとが互いに相手を愛すること、大切にすること、尊重することによってであり、どうじに、神が人びとを愛し、人びとにそのような愛をもたらしてくれることによって、でありましょう。愛とは相手を重視することです。
 家族も、それ以外の人間のつながり、集まりも、愛によって築こうとすることで、愛の場に育っていくのです。


【今週の聖書の言葉】2021年8月8日

「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)

 神を信じるゆえに、あるいは、その信仰に基づいて愛や正義や平和を求めるがゆえに、憎まれたり、迫害を受けたりすることが、歴史上では繰り返されました。
 日常の生活においても、真実の一面を言い当てているゆえに反発されたり傷つけられたりすることがあります。いじめられやすいことを直感的に見抜かれ、学校や職場で残酷な仕打ちを受けている人もいます。あるいは、病気や災害、事故など、自分にはどうしようもない苦しみに見舞われることもあります。
 わたしたちはこれにどのように立ち向かえばよいでしょうか。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とイエスは言っています。
 神を信じるゆえに痛みも苦しみも感じない人もいるかもしれませんが、多くの人は、神を求めつつも、痛みや苦しみをも負い続けます。
 今は痛い、今は苦しい。しかし、神がこれを知っていてくださる。神もわたしとともに痛み苦しんでくださる。耐え忍ぶとはこういうことではないでしょうか。
 これに加え、このトンネルには出口がある、この闇夜には朝が来る、この雨もかならず止むときが来る、神がもたらしてくれる、という希望を持つことではないでしょうか。
 今のわたしたちの苦しみはとても大きいですが、永久ではありません。この苦しみが終わる日を神が創ってくださいます。それまで、神がともにいて、ともに苦しみを担ってくださると信じて、耐え忍ぼうではありませんか。これがわたしたちの救いです。


【今週の聖書の言葉】2021年8月1日

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)

わたしたちの心の中には、平和とは正反対の感情が渦巻いています。それに従ってわたしたちがとる行動や態度を、パウロは「肉の業」と呼び、具体的には「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」を挙げています。
 わたしたちはこれらに負けたままではならないのではないでしょうか。むろん、たやすく勝てる相手ではありません。自分が傷ついたがゆえにやりかえしたい衝動、その衝動を正当化する理屈がわたしたちを支配しようとします。
そこには平和はありません。だから、わたしたちは平和を実現する、いや、平和を造り出す意志を持たなければなりません。岩波書店の聖書では、ここを、「幸いだ、平和を造り出す者たち」と訳しています。
 わたしたちは、日々の言葉と行動の中に、平和を造り出そうという祈りを込めることができないものでしょうか。なかなかそうできませんが、そうしたいという想いを深め、どうじに、その想いをいつでも引き出せるようにしたいです。
 戦争は一人の衝動によって生じるものではありません。何人もの権力者たちの同意が必要です。熟慮、合議の結果を装います。しかし、戦争が起こり、こどもやおとなや、市民や兵士が数えきれないほど死んでしまうことに、わたしたちはけっして同意してはなりません。ひとりの人生は非常に大きなものです。ひとりの人生にはとても多くの人がつながっています。ひとりの人生=生活=生命=ライフはとても地球よりも重いものです。戦争では地球より重い生命が数えきれないほど殺されるのです。わたしたちはこれに同意することはできません。
 平和を造り出すことは、ひじょうに困難で、険しく、重い仕事ですが、それに携わる者は、幸いだ、とイエスは言います。なぜならば、平和は神の意志であり、平和を祈る者は、神の意志をわかちあっているからです。

【今週の聖書の言葉】2021年7月25日

「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(マタイ9:10)

 罪人とはどういう人々でしょうか。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」「殺してはならない」「盗んではならない」など、旧約聖書にはいくつもの戒めが記されています。
 これらは本来、神と人間との良い関係を示すためのものだと思われますが、徐々に杓子定規に守ることだけが重視されるようになりました。たとえば「安息日を心に留め、これを聖別せよ」は、週に一度仕事を休んで神に祈り平安に過ごすためのものでしたが、安息日には外出も料理も制限されなければならないと考え、それを人々に強要する宗教者が出てきました。新約聖書に出てくるファリサイ派や律法学者たちもそうです。
 しかし、貧しさゆえに安息日に仕事をせざるを得ない人々もいました。また、徴税人は、自分たちを支配するローマ帝国の手先となり、同胞であるユダヤ人からときには不正に税金を取り立てたと言われていますが、ユダヤ人からすれば偶像崇拝者であるローマ人とつきあっていたので、律法に背く罪人と見なされたようです。
 このような人々は、世の中で斥けられていました。新約聖書の福音書に出てくる罪人とは、このように、社会から「罪人」とされ、差別されていた人々です。
けれども、イエスはこの人々と共に生きようとしました。
 (しかし、キリスト教では、自分が隣人を傷つけたり、自分の言動や精神が神の愛とは正反対であったり、神に委ねられず、むしろ、神から離れてしまう自分のことをも「罪人」として認識しています。これと福音書の「罪人」を不用意に混同すべきでありません。)


【今週の聖書の言葉】2021年7月18日

「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(マタイ8:8)

  ある人の部下が病気でひどく苦しんでいます。なんとか助かってほしいと願っています。そして、イエスに言いました。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」
 この人は切なる願いを持ちながらも、自分からはこれだけしか言葉を発しませんでした。この人は、むしろ、言葉を受けようとします。「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」
 むろん、自分の切実な想い、悲しみ、苦しみ、不安、望みを、心の中で神のまえで打ち明けることはとても大切です。言葉にならないときは言葉にならない心を神に見ていただきます。神はそれを聞いてくださいます。
 しかし、わたしたちは自分から発するだけでなく、神から言葉を受けることが必要です。祈りは、わたしたちから語るだけでなく、神に耳を傾けることでもあります。神の言葉を受けてから、わたしたちが言葉を発する、あるいは、わたしたちが言葉を発してから、神の言葉を受けることです。
 たとえば、沈黙も神の言葉です。目を閉じて手を合わせ静かにする。わたしたちが静かにすれば、静けさという神の言葉がわたしたちに届きます。心を静かにして、神の静けさ、神からの平安を受けるのです。
 あるいは、聖書の言葉を通して、わたしたちは神の言葉を受けることもあります。聖書のすべての文字というよりは、わたしたちを深く慰めたり、傲慢を打ち砕いてくれたり、勇気や希望を与えてくれる聖書の言葉こそが、わたしたちが受ける神の言葉でありましょう。「ひと言、おっしゃってください」。聖書の人物とともに、わたしたちも神の言葉をいただきましょう。


【今週の聖書の言葉】2021年7月11日

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)

 「捕らわれている人に解放を」。この言葉から、わたしたちはどのような解放を思い浮かべるでしょうか。
 罪からの解放を考える人がいるでしょう。わたしたちは、自分の強い思いに捕らわれ、神に聴くことも委ねることもせず、隣人を想うこともしません。そのような罪にもかかわらず、わたしたちは生かされています。また、その捕らわれから一歩外に出るように、神に促されています。
 心身の苦しみ、生活や仕事の苦しみからの解放を祈り求めている人がいるでしょう。わたしたちは、自分のことだけでなく、友や世界の人びとの平和、平安を祈らずにはいられません。
 そして、力ある者による抑圧、たとえば、部落差別、人種差別、民族差別、障がい者差別、性的少数者差別、学歴差別、人事・雇用差別、支配者の民衆抑圧、金持ちの貧乏人抑圧がなくなり、それによって苦しむ人がいなくなることを何十年も深く祈り求めている人びとがいます。
 残念ながら、これらはすぐには解決しません。自分を捨て、神に完全に委ね、隣人のことだけを想う人はいません。心身、生活、仕事の苦しみがまったくなくなることはありません。強者による差別、抑圧がなくなる日はいったいいつになるのでしょうか。
 しかし、その苦しみをしっかりと受け止め、そこからの解放を切に祈り求め、心に希望を抱くとき、わたしたちは苦しみの中にあって、すでに解放への道を歩んでいるのではないでしょうか。解放はゴールではなく道ではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】2021年7月4日

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

わたしたちはこの言葉をどのように受け止めることができるでしょうか。ひとつは、一所懸命に祈ったり、努力をしたりすれば、願いはかなう、という理解がありうるでしょう。これは、わたしたちの祈りや努力を促し、希望をあたえてくれる考え方です。

しかし、わたしたちがこうすれば神はかならずこうしてくれる、という考えは、一歩間違えれば、わたしたちは何かをすることで神をわたしたちの思い通りにさせようとすることにもなりかねません。神をコントロールしようとすることにもなりかねません。

じっさい、願いは努力すれば必ず適い、祈りの中で願ったことは必ず実現する、とは言い難い経験をわたしたちは持っています。一所懸命に勉強しても志望校に入学できないことはよくあり、それは、努力不足のゆえだと言い切ることはできません。心の底から祈っても適わぬこともありますが、祈りの不足と言うこともできないでしょう。

願えば、願っていることがそのまま実現するわけではありません。それにもかかわらず、わたしたちは願い求め続けるべきでしょう。

「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」。これらの言葉は、真実です。後に「そうすれば・・・」と続かなくても、これらの言葉だけで、すでに、真実です。

そして、「与えられる」「見つかる」「開かれる」。これらの言葉も真実です。「求めなさい、そうすれば」という前置きがなくても真実です。神は、わたしたちが求める前から、すでに与え、開いていてくださいます。

わたしたちは、何かを求めればそれが与えられると考えがちですが、それを一度切り離して、わたしたちが求めることと、神が与えてくださること、それぞれの深みを考えてみたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2021年6月27日

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)

「これらのもの」とは、生きるために食べるもの、飲むもの、着るもののことでしょう。25節にはこうあります。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。
 わたしたちは、ふつう、命を保つためには食べ物や飲み物が、体を保つには着るものが必要だと考えます。「これらのもの」がなければ、命を維持できないと考えます。
 しかし、この個所のイエスの言葉は、命があってこその食べ物、飲み物、体があってこその着るもの、と言っているようにも聞こえます。あるいは、たとえ、食べ物、飲み物がなくても命があるではないか、たとえ、着るものがなくても、体があるではないか、と言っているように聞こえます。
 イエスは、命と体こそがすべての基本なのだと言っているのではないでしょうか。そして、それは、「神の国と神の義」を求めることで、あるいは、神の国と神の義の表れとして、与えられるものだと言っているのではないでしょうか。
 ようするに、イエスにとっては、神の国と神の義、そして、命と体こそが、わたしたち人間の土台であり基本であり根本であり、衣食は、それへのプラス・アルファなのだということではないでしょうか。
 わたしたちの人生においては、絶対必要なはずの衣食住や医療が欠けたり、さまざまな祈りが叶わなかったりすることがあります。そんな時、極論を言えば、神を疑うことさえありえます。
 しかし、たとえ足りないものがあったり苦しいことがあったりしても、神の国と神の義はわたしたちの命と体とともにある、とイエスは教えてくれているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年6月20日
 
「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」(マタイ5:25)

 この言葉はどういう意味でしょうか。裁判沙汰にされるならその前に和解してしまいなさい。そのようにも聞こえますが、ほかの意味も考えられないでしょうか。
 この言葉に至る前に、イエスは、人を殺した者は裁きを受けるが、人に腹を立てる者、「ばか」と言う者、「愚か者」と言う者も同じことだ、と言っています。
 たしかに、人は誰かに腹を立てれば、相手を罵ることがあるでしょう。そして、ごくまれなことですが、相手を殺してしまうこともあるでしょう。しかし、心の中で腹を立てるだけのことと、相手を傷つける言葉を発すること、相手の身体を傷つけたり殺したりすること、この三つを単純に一緒にすることはできません。腹を立てただけのことと殺してしまうことの間には相当の隔たりがあります。腹を立てることは日常的によくありますが、殺してしまうことはめったにありません。腹を立てても新聞沙汰にはなりませんが、殺してしまえばニュースになります。
 しかし、はんたいに、殺さなければ、相手に何をしてもよい、何を言ってもよいわけでもありません。傷害罪、殺人罪にならなくても、人は人に深く傷つけられることがあります。憎しみを込めて「ばか」「愚か者」と言われた人の心はどんなに傷つくことでしょうか。
 激しい言葉だけではありません。表面的には静かな言葉でも、その内容、その態度によって、人のたましいは深手を負います。当然、人を殺してはなりません。「ばか」「愚か者」などという言葉で人を傷つけてもなりません。しかし、それだけでなく、わたしたちはつねに、どんな言葉やどんな態度であっても、それが誰かの精神を傷つけていないか、謙虚に省みるべきではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】2021年6月13日

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」(マタイ5:13)

 イエスは「あなたがたは地の塩である」と言います。「地の塩になりなさい」と言うのではなく、「あなたがたはすでに地の塩である」と言っているようにも聞こえます。
 塩は塩味を備えています。塩味は、食べ物の腐敗を防ぎ、長持ちさせます。塩味は、また、食べ物にひきしまった味わいをもたらします。
 わたしたちも、地の塩となり・・・というより、地の塩であり・・・周りの人びとにとって、塩のようなものでありたいと願います。人びとの生活に慰めをもたらしたいと願います。ちょっとしたなごみや笑顔を届けたいと思います。
 言い換えれば、愛を伝えたいと思います。しかし、その愛は誰の愛でしょうか。わたしたちの愛でしょうか、それとも、神の愛でしょうか。
 「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」。塩が塩味を発揮できるのは、塩に塩気があるからです。
 わたしたちが誰かに愛を伝えることができるのは、わたしたちの中にすでに神の愛が伝えられているからです。わたしたちは神に愛されているから、神の愛がわたしたちの中にあるから、わたしたちも隣人を愛することができるのです。いや、誰かを愛することで、その人の隣人になることができるのです。
 わたしたちが地の塩として塩味を持つことができるのは、神という塩気が存在するからです。神がわたしたちを愛してくださることをあらためて深く思い、心の深くに留めて、わたしたちも人を愛する者となる、いや、そのような者でいるように祈り願います。


【今週の聖書の言葉】 2021年6月6日

「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)


 ヨハネが唱えすぐにイエスも唱えたとマタイが告げるこの言葉を、わたしたちはどのように受け止めるでしょうか。
 ひとつは、見方をあらためる、それにともない、生き方をあらためる、ということが考えられます。ここは、じつは、神の愛が治める世界であることに気づき、それにふさわしい生き方を祈り求めることです。
 ガラテヤの信徒への手紙にこうあります。「肉の業は明らかです。それは・・・敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ・・・このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5:19-23)。
 わたしたちはこの世界に誰かの悪意だけを見てしまうと、敵意を抱き、怒り、争おうとしてしまいます。これは、「肉の業」です。自分の思いだけにとらわれますと、こうなってしまいがちです。
 ところが、この世界に神の愛があることを思い出すと、どうでしょうか。すると、喜び、平和、寛容、誠実、柔和への道が開かれます。「霊の結ぶ実」です。神の愛に促され、神の愛に従おうとする心が生まれる可能性が生じます。
 しかし、たとえば、悪いことばかり続くのに希望を抱いたり、自分を傷つけた相手に怒りや憎しみを抱かずに愛したりすることは至難の業です。
 けれども、わたしたちは、肉の業にとらわれつつも、霊の結ぶ実に憧れる、慕い求めることはできるのではないでしょうか。憧れつづけ、祈り続けることで、霊の結ぶ実が育つ、という希望を持ちたいと思います。


【今週の聖書の言葉】2021年5月30日

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11:25)

「知恵ある者や賢い者」とは、イエスの時代のユダヤ教指導者たちを指すのかもしれません。彼らは、自分たちこそが神のことをよくわかっているとし、彼らが「幼子」と見下す人びとの背中に、多くの細かい戒めを負わせました。

しかし、神のことを本当に知っているのは、彼らが「幼子」と見下した貧しい庶民であり、また、そのひとりであったイエスだったのではないでしょうか。

イエスは、規則を正確に守る者が神に祝福されるなどとは考えずに、むしろ、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)神が世界を治めていると信じたのです。イエスは、神の名において人びとに重い荷を負わせる者たちを批判したのです。そして、イエスのこの批判によって、人びとの荷は軽くされたのではないでしょうか。

わたしたちもさまざまな規則に縛られています。親や教師や世間や社会などから、また、自分自身から、「こうしなければならない」「こうでなければならない」という重荷を負わされています。財産や地位こそが幸福だという世間の価値観に染められています。

しかし、イエスはこの束縛からわたしたちを解き放とうとしてくれているのではないでしょうか。世の中の幸福に恋い焦がれるわたしたちに、神の国の福音を示してくれているのではないでしょうか。そして、神の国は死後にではなく、じつは、今すでに、ここに始まっていることを教えてくれているのではないでしょうか。



【今週の聖書の言葉】2021年5月16日

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒言行録1:8)

 聖霊とはどのようなものでしょうか。神やイエスの場合と同じように、聖霊についての、わたしたちのイメージはさまざまです。ある人は聖霊をとても強いものとして感じますが、ある人はゆるやかに感じます。
 創世記には、神は土で創った人の鼻に「命の息」を吹き入れた、とあります。人間は物質、肉体だけでなく、その中にはそれを生かす「命の息」があると言うのです。
 聖霊には、この「命の息」でもあることでしょう。エゼキエル書では枯れた骨の上に霊が吹き付けると、骨が生き返って人となり大きな集団となったとあります。これは、国が滅ぼされ、バビロンで捕囚の身となり、弱り果てたユダヤの民が、そこから解放され、ふたたび神の民として、神の力を得ることを示していると考えられます。
 つまり、聖霊は、わたしたち人間に生命をもたらす、神からの「命の息」であり、また、人生において挫折したり弱ったり困窮に陥ったり希望を失ったりしたわたしたち人間を立ち上がらせてくれる、神からの力でもあるのです。
 イエスの弟子たちは、イエスの死による別離によって力を失いますが、聖霊により、ふたたび力を得ます。
 聖霊とは、神がともにいることであり、イエスがともにいることであり、死んだ人がともにいることであり、わたしたちは、そのことによって、神がわたしたち人間を創造したときと同じ力を受けるのです。

【今週の聖書の言葉】2021年5月9日

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1-4)

施しや善行をなすときは、人に見せたり、ほめられようとしたりしないようにと、イエスは戒めています。こうした行為はほんらい利他的なもの、他者を利するためのものであるはずなのに、賞賛が目的ならば、利己的、自分を利するためのものになってしまうのではないでしょうか。

しかし、愛は、持っている人が持っていない人に、強い人が弱い人に与える一方的なものではなく、ふたりの間(あわい)に働く双方向のものです。施しや善行も、一方的に見えますが、じつは、そこには、双方向の力が働いているのではないでしょうか。

愛は、ゆたかな者が貧しい者に渡すものではなく、ふたりの間に働く力です。S極とN極の間でたがいに引きあう力のようなものです。しかも、この愛は、じつは、人から出ているものではありません。
ヨハネの手紙には「神は愛である」とあります。愛は、人から出るものではなく、人と人との間に働く神の力、あるいは、神自身のことなのです。

施しや善行も、愛と同じように考えることができるでしょう。これは、誰かが誰かになす誇らしい行為のことではなく、神の愛が働く場と考えることができるでしょう。

たとえば、食糧は、誰かが誰かに施すものではなく、わかちあうものです。人目につく必要はありません。誰かがほめられる必要もありません。食糧がわかちあわれる場に神の愛が働いている。このことがすでに神からの報い、いや、祝福なのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年5月2日

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」(ヨハネによる福音書14章1-2節)

神の家には住む所がたくさんある、とイエスは弟子たちとわたしたちに教えてくれます。弟子たちも、わたしたちも、心を騒がせていますが、神はそのふところに受け入れてくださる、と言うのです。
旧約聖書のイザヤ書40章11節にこうあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。

羊の群れも安全や糧や行く先について不安をかかえていますが、羊飼いはそれを導きます。同じように、神もわたしたちを導きますが、小羊のように不安が強かったり歩くのが難しかったりする者はふところに抱いてくれるというのです。

ふところは漢字で書くと懐ですが、これには「いだく」「思う」という意味があります。神の家に住む所があるということは、神はわたしたちのことを深く思い、いだいてくれるということではないでしょうか。

イエスはこのことをわたしたちに教え、わたしたちを神のふところに導いてくれます。それゆえに、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言います。

イエスは神のふところの深さをわたしたちに示してくれます。それゆえに、イエスは道なのです。イエスは、わたしたちに誠実でわたしたちに命を与えてくれる神を示してくれます。それゆえに、イエスはまことであり命なのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年4月25日

 「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。」(ヨハネによる福音書21章11節)

 ペトロは「わたしは漁に行く」と意志表明をし、数人の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と決意して従いました。しかし、夜通し漁をしても何も捕れませんでした。
わたしたちも、自分で決め、自分で実行しようとします。しかし、進学、就職、病気、仕事、人間関係、家族のことなど、なかなか思うようにならない経験を重ねてきました。
 そこにイエスが現れます。イエスはペトロたちに「舟の右に網を打て。そうすればとれるはずだ」と言います。弟子たちはそうします。すると、網を引き揚げられないほどの魚が得られました。
 わたしたちも、自分の考えや行動では何もできなくても、イエスに従おうとするとき、大きなことができるのではないでしょうか。
 いや、イエスに従って生きてきたつもりだけど、自分の人生、貧しいものだった、信仰の面でもゆたかと言えるようなものではなかった、と思われます。
 しかし、イエスを信じることで人生が大漁になるということは、仕事で成功したり、名をなしたり、人から敬意を払われたり、自尊心が満たされたりすることとは、違うのではないでしょうか。
 むしろ、イエスを通してこの世界には目には見えない神の愛があることを知ることで、いままで小さくつまらなく思えていたことが、じつは大きくゆたかな恵みに見えることではないでしょうか。イエスがいれば、野の花が限りなく美しく見えてきます。
 自分一人で何でも判断するのなら、人生は不作かもしれません。しかし、イエスとともに見るのなら、人生は一面の花畑であったことに気づかされるのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年4月18日 

「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(ヨハネによる福音書20章26節)


 コロナウィルス感染を避けるために、わたしたちは思うように外出ができなくなり、家の中にいることが多くなりましたが、そこにもイエスがともにいて、神がともにいるとわたしたちは信じたいと思います。いや、そのように信頼したい、神を信頼したい、人生を信頼したいと思います。
トマスはそれを信じませんでした。信頼しなかったのです。心を閉ざしていたのです。しかし、この聖書の個所によると、そんなトマスのところにも、イエスが来て、真ん中に立ちます。神は、信頼しないトマスの心の真ん中にも来るのです。
 トマスだけではありません。他の弟子たちも、人々が自分たちに害を加えるかもしれないと、恐れ、鍵をかけ、家の中に閉じこもっていました。しかし、イエスはその中に入ってきて「あなたがたに平和があるように」と言います。「恐れではなく、平和があるように」と。
 わたしたちの心の中にも恐れがあります。痛い思いをすることへの恐れ、苦しいことへの恐れ、辱められることへの恐れ、自分の小ささを知らされることへの恐れ、自分の思うようにならないことへの恐れ、否定されることへの恐れ・・・。そして、自分の中に閉じこもってしまいます。
 しかし、イエスは、その恐れの代わりに平和を、と言ってくれます。恐れはいくつでも数えられますが、平和は目に見えません。けれども、目には見えなくても、ここには、恐ればかりではなく、平和がある、それに気づこう、とイエスは言っているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2021年4月11日

「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」(ルカ24:13-15)

 旅は道連れ、と言います。私たちの人生には一緒に歩き互いに支え合う同伴者が必要です。
 イエスの弟子ふたりが街道を進んでいました。ふたりは、自分たちの師であり友であるが死んでしまったイエスについて語り合っていました。すると、そのはずのイエスが近づいてきて、ふたりと一緒に歩き始めた、とルカによる福音書は物語っています。
 ここにふたつのことがあります。ひとつは、わたしたちがイエスについて語り合うとき、イエスはここにいるということです。わたしたちがともに聖書を読んだり感想や考えや疑問を語り合うとき、イエスはここにいるのです。
 もうひとつは、わたしたちが人生の旅路を辿るとき、イエスも一緒に歩いているということです。イエスはわたしたちの人生旅行の道連れ、同伴者なのです。
 マタイによる福音書は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたし(=イエス)もその中にいる」(18:3)と述べていますが、イエスの弟子であるふたりがイエスについて語り合っているところにイエスが近づいてきたという今日のルカの物語も似たようなことを伝えているのかもしれません。
 では、わたしたちがひとりで歩くときはどうなのでしょうか。その場合は、イエス自身が二人目になってくれるのではないでしょうか。こうして、ひとりでいても、ふたりでいても、イエスがいて、さらには神がいて、わたしたちはひとりではないのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年4月4日

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28:7)

 わたしたちは地上の旅を続けているあいだにも、いくつかの死を経験します。大病、大怪我、落第、不合格、不採用、解雇、別離、不誠実、加害、被害・・・。その苦しみ、その牢獄から、わたしたちはなかなか脱出することができません。
 しかし、わたしたちはずっとそこに留まっているのではありません。ずっとそこにうずくまっているのではありません。なぜなら、イエスはそこから外に出たからです。イエスは起き上がったからです。
 イエスは死にとどまらず、さらに生き続けました。そこがガリラヤです。わたしたちも人生の墓にとどまらず、ガリラヤという人生の舞台で生き続けようとするならば、そこでイエスと出会うことができます。そこをイエスとともに歩むことができます。
 イエスはわたしたちの墓の外で待っていますが、わたしたちを墓から連れ出してくれるのもイエスです。イエスはすでに墓を出てガリラヤを歩いている、といううれしい知らせ、福音が、わたしたちを閉所から空の下へと大地の上へと導きだしてくれるのです。
 わたしたちより先に地上の旅を終えた友らも墓の中に閉じこもってはいません。友らも、死者の中から復活して、わたしたちより一歩先にガリラヤを歩いています。友らを墓に求めてはなりません。友らは今わたしたちとともにいます。
 神は、イエス、友ら、わたしたちを墓に封じ込めません。色とりどりの花と緑の野へと救い出してくださいます。

【今週の聖書の言葉】 2021年3月28日
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒言行録2:44-45)

 この世界やここにあるものはもともとはわたしたちが生きるために神が備えてくれたものなのに、わたしたちは、たとえば、この土地は自分のものだ、などと主張します。そのうち、空気さえ独占所有され、手に入れるにはお金を払わなければならなくなるかもしれません。
 わたしたちは、これは自分のもの、これは自分が手に入れたから自分のものなどと主張しますが、ほんとうにそうなのでしょうか。いのちは自分のものでしょうか。自分だけのものでしょうか。知識や才能は自分だけのものでしょうか。
 すべてのものを共有することは難しいでしょう。自分の衣食住に関わるものを、自分だけでなく、他の人とわかちあうことは簡単ではありません。
 しかし、わかちあうことができるものもあるでしょう。たとえば、時間です。その1時間を自分のことだけに費やすのではなく、誰かと一緒に過ごすこともできるのではないでしょうか。あるいは、こころです。そのこころを自分のことだけでいっぱいにするのではなく、他の人のことを思いやる、想像することに使うこともできるのではないでしょうか。あるいは、食卓です。一人で、あるいは、家族だけ、親しい者だけで食べるのではなく、そこに誰かを招くこともできるでしょう。自宅に招待する以外にも、食卓のわかちあいかたはあるでしょう。
 神はわたしたちにいのちと愛と正義をわかちあってくださいました。わたしたちも苦しむ誰かといのちと愛と正義をわかちあおうとする、これが人生の意味ではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】 2021年3月21日


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26-27) 

 〇〇長になりたい、人から羨まれ自分のプライドも満たされる地位につきたい。そういう人々がいます。そこまではいかなくても、人から良く思われたい、敬意を払われたい、という思いは、わたしたちに日常にもありふれています。人の考えを抑えてでも、自分の意見を通したがります。
 しかし、イエスは、そうではなく、皆に仕える者になりなさい、皆の僕になりなさい、と言います。わたしたちは、この言葉をどのように受け止めたらよいでしょうか。
 たとえば、生涯、自分は不遇だった、〇〇長になるどころか、いつも、下にいた、という人は、イエスのこの言葉によって、自分の境遇が否定されていないような思いを持てるかも知れません。
 つねに人にほめられたいと思っている人は、自分のその姿に気づかされたり、さらには、ほめられなくても生きていける道を求め始めるかもしれません。
 いつも自分の思いを通そうとする人は、それを引き下げ、相手に譲るふるまいを試み、それが少しできたときは、思いを通したとき以上の幸福を感じるかもしれません。
 わたしたちの中には、自分を通したい、人に勝りたいという思いがありますが、パウロの言葉で言うならば、これは、「肉の思い」であり、相手の「死」(ローマ8:6)、あるいは、日常の小さな死を招くのではないでしょうか。
 それに対し、相手のことを考える、相手の気持ちや考えを尊重することは、「霊の思い」であり、「命と平和」(ローマ8:26)であり、相手を生かすことではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2021年3月14日

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ7:24) 

 「これらの言葉」とはどのような言葉を指すのでしょうか。マタイによる福音書は、5章から7章に、イエスが山に登って語った言葉を記し、8章1節でイエスは山を下りています。つまり、「これらの言葉」とは、イエスが山の上で語った、たとえば以下のような言葉を指しています。
 「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。人を侮辱する言葉、傷つける言葉を吐くな、むしろ、和解せよ、ということでしょうか。
 「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」。あれこれ思い煩わずに神を信頼せよということでしょうか。
 「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。塩や光のように世の中の役に立つようになりなさいということでしょうか。
 こうした言葉を聞いて、実行に移すことが、わたしたち自身の強固な基盤になるとイエスは言っているのではないでしょうか。
 これは容易なことではありません。しかし、まったくできもしないことでもありません。まず、これらの言葉は、わたしたちへの使信となり、わたしたちの指針となります。目標となります。つぎに、わたしたちはどうしたらこのようなことが実行できるか、思案したり、試行錯誤したりします。結果的にはうまくいかなくても、そこには足跡が残ることでしょう。
 ゴールには至らずとも、道は示され、わたしたちはすでに踏み固めてきたのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年3月7日 

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)

 人生にはさまざまな苦しみが訪れます。中には、自分の努力や人の支援によって、ときには、神の力によってとしか思えないような仕方で解決されるものもあります。
しかし、そうならない問題もあります。苦しくてもわたしたちが引き受けていかなければならないこともあります。死もその一つです。いくつかの死の危機を乗り越えることができたとしても、わたしたちはやがて死を通過するのです。仕事や人間関係、家族などについても、苦しくても受け入れざるを得ないことがいくつかあるでしょう。
 イエスもそれを引き受けました。「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され・・・ることになっている、と打ち明け始めた」。
 けれども、ペトロはすぐにはそれを引き受けられませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。
 避けられない苦しみをあえて自分のものとして引き受けるとき、わたしたちはひとりではなく、神がともに苦しんでくださる。そのようにしてわたしたちは生かされる。ペトロはこのときはまだこれを知らなかったのです。
 避けられない苦しみからも逃げて楽になることだけしか考えないなら、わたしたちは神とともに歩む生を失ってしまうかもしれません。しかし、それを引き受けようとし、ともに歩んでくださる神に気づくとき、わたしたちは生とともにあるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2021年2月28日

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)

 イエスの時代、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」(12:23)がいると考えられていました。マタイ福音書は、この人はイエスによっていやされて、ものを言い、目で見るようになったと伝えられています。
 これを見て、イエスに敵対する人びとは、イエスは悪霊の親玉の力によって悪霊を追い出したと非難しました。けれども、イエスは、そうではない、これは神の霊によるものだ、と答えました。
 たしかに、わたしたちは、誰かや自分を苦しめる悪に対して、悪を持って立ち向かいたくなることがあります。悪口を言われれば悪口を言い返したくなります。ひどいことをされればひどいことをし返すことでひどいことに立ち向かおうとしてしまうことがあります。
 けれども、悪には善を持って、立ち向かうことができたら、なんとすばらしいことでしょうか。悪徳には美徳をもって、激しく醜い悪口には落ち着いた美しい言葉で、ひどい仕打ちには静かな愛の態度で臨むことができたら、どんなによいことでしょうか。
 悪霊には悪霊を、ではなく、悪霊には神の霊を、です。わたしたちは、悪を前にしたとき、悪に引きずられた激情ではなく、神の霊がわが心に宿るように、神の霊に支えられて悪に立ち向かえるように、神の国が来ますように、と祈り求めたいと思います。そのとき、神の国が来ると信じようではありませんか。


【今週の聖書の言葉】 2021年2月21日

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」(マタイ14:26-27)

弟子たちは湖を渡ろうと舟を出しましたが、イエスはそれには乗らず、山に行き、ひとり祈りました。夜の湖には逆風が起り、舟は進まず、波が襲いかかります。
 そこにイエスがやってきます。弟子たちはおびえ、叫び声をあげます。嵐で舟が沈むかもしれない、死ぬかもしれない。それに加えて、何ものかが湖上を歩いてやって来る、幽霊だ、という恐れ。
 けれども、それは、イエスでした。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。いや、これは、慰め以上に励ましの言葉でした。「しっかりせよ。わたしだ。恐れるな」。
 ペトロはイエスに招かれ水上を歩こうとしますが、強風を恐れ、すぐに沈みます。けれども、イエスが手を伸ばし、二人が舟に乗ると、風は静まりました。
 わたしたちの人生にも夜があります。逆風で進めない時があります。波が襲いかかります。そのとき、わたしたちは、イエスを幽霊と見間違えます。恐れなくてよいものを恐れるべきものと見間違えます。愛を憎しみと、希望を絶望と、光を闇と、救いを滅びと、花を蛇と見間違えます。
 しかし、そのようなわたしたちをイエスは「しっかりしなさい。幽霊ではない。わたしだ。わたしが一緒にいるから、たとえ夜であっても、たとえ逆風であっても、たとえ波が舟を沈めようとしても、恐れるな」と励ましてくれます。
 人生という舟は、たとえ湖が嵐でも、イエスが乗り込んでくれれば、強風は凪に変わるのです。風は止まるのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年2月14日

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」(マタイ14:26-27)

 弟子たちは湖を渡ろうと舟を出しましたが、イエスはそれには乗らず、山に行き、ひとり祈りました。夜の湖には逆風が起り、舟は進まず、波が襲いかかります。
 そこにイエスがやってきます。弟子たちはおびえ、叫び声をあげます。嵐で舟が沈むかもしれない、死ぬかもしれない。それに加えて、何ものかが湖上を歩いてやって来る、幽霊だ、という恐れ。
 けれども、それは、イエスでした。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。いや、これは、慰め以上に励ましの言葉でした。「しっかりせよ。わたしだ。恐れるな」。
 ペトロはイエスに招かれ水上を歩こうとしますが、強風を恐れ、すぐに沈みます。けれども、イエスが手を伸ばし、二人が舟に乗ると、風は静まりました。
 わたしたちの人生にも夜があります。逆風で進めない時があります。波が襲いかかります。そのとき、わたしたちは、イエスを幽霊と見間違えます。恐れなくてよいものを恐れるべきものと見間違えます。愛を憎しみと、希望を絶望と、光を闇と、救いを滅びと、花を蛇と見間違えます。
 しかし、そのようなわたしたちをイエスは「しっかりしなさい。幽霊ではない。わたしだ。わたしが一緒にいるから、たとえ夜であっても、たとえ逆風であっても、たとえ波が舟を沈めようとしても、恐れるな」と励ましてくれます。
 人生という舟は、たとえ湖が嵐でも、イエスが乗り込んでくれれば、強風は凪に変わるのです。風は止まるのです。


【今週の聖書の言葉】 2021年2月7日

「イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、
女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」(マタイ15:26-27)

ここで「子供たち」とはユダヤの人びと、「小犬」とはそれ以外の人びと(異邦人)のように思えます。犬呼ばわりはひどいですが、イエスが異邦人を犬扱いしていたのか、それとも、ユダヤ人一般や弟子たちがそうしているのをイエスが引用したのか、はっきりとはわかりません。
 けれども、イエスが最終的にはこの女性を犬などと見なさなかったことはたしかです。なぜなら、イエスは最後に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言っているからです。イエスはこの女性に「犬よ」ではなく「婦人よ」と呼びかえています。
 わたしたちは、とくに日本人は、外国人を差別してきました。あの人は〇〇人だから、〇〇人はああだこうだ、という偏見を持ってきました。自分たちより下に見てしまいます。これは、つねに反省すべきことです。
 けれども、イエスは外国人のこの女性に敬意を払いました。相手への尊敬。どんな人をも尊敬する、どんな人をも見下げずに、敬意をもって接する、尊敬の念をもって話を聞く。「あなたの信仰は立派だ」というイエスの言葉はこのことをあらためて教えてくれます。
 しかし、信仰とは信頼のことでもあります。この女性がイエスを深く信頼しただけでなく、会話の中で、イエスと女性の間に信頼が築かれていったのではないでしょうか。「小犬」が「婦人」に変わったのは、信頼関係ができあがったことの証ではないでしょうか。わたしたちも、イエスに問いかけ、イエスから問われるなかで、イエスとの信頼関係をつねにあらたに作っていこうではありませんか。

【今週の聖書の言葉】 2021年1月31日

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17-18)

「律法を完成する」「一点一画も消え去ることはない」。この言葉を読んで、わたしたちは聖書に書いてあることを隅から隅まですべて守らなければならない、と考えるべきでしょうか。
 そうではありません。人を殺した者だけでなく、人に腹を立てる者、ばかと言う者も裁きを受ける、とイエスが言うとき、それは、重箱の隅をつついているのではなく、「殺すなかれ」という戒めの意味を掘り下げているのでしょう。
 また、神を愛することと隣人を愛することに「律法と預言者」(すなわち旧約聖書)は基づいている、とイエスが言うとき、イエスは律法の根本精神に立ち返るべきことを教えてくれているのではないでしょうか。
 十戒の前半は神を愛することを、後半は隣人を愛することを言っていると考えることができるかもしれません。そして、後半は、「殺すなかれ」「盗むなかれ」という言葉にまとめることができるかもしれません。
 イエスは「殺さない」という戒めを、「腹を立てない」「ばかと言わない」というところまで深めました。いや、イエスはさらに進んだのではないでしょうか。
 イエスは殺さないどころか、病の人を癒しました。生かしました。殺さないことの完成は、生かすことではないでしょうか。
 盗まないことの完成は、与えること、わかちあうことではないでしょうか。イエスはそうしたと思います。わたしたちもまた、そこに招かれているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2021年1月24日

「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった・・・『暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。』」(マタイ4:14-16)

 今から2700年前、イスラエルはアッシリアに攻め込まれ、占領された地は、まさに「暗闇」「死の陰の地」となりました。しかし、預言者イザヤは、かならず神が救ってくださるという希望を「大きな光を見る」「光が射し込む」と言い表しました。
 それから700年経ち、イエスが現れ、神の国とは正反対のような世の中で、「神の国はすぐそこにある」と人びとに訴え、たとえ話や癒し、共食を通して、神の力強さと愛を表しました。マタイはそのイエスを、700年以上前にイザヤが言った「大きな光」と重ね合わせたのです。
 イエスや周りの人びとが生きた世界も暗闇でした。たとえば、ヘロデ王を批判した洗礼者ヨハネは逮捕され投獄され殺されました。人びとの生活も貧しく、つねに死と隣り合わせで、ユダヤの王やローマ帝国に抑えつけられていたのではないでしょうか。
 けれども、イエスは、まことの王は神である、その神がすべての人を無条件で愛してくれる、と説きました。それは、まさに暗闇の光でした。
 コロナ不安の日々が一年に及びます。ひとりひとり、もっと長く苦しんでいる問題も抱えています。けれども、神はこの闇を照らす光です。そして、その神を示してくれるイエスも、わたしたちの光です。
 光を仰ぎ見ながら、この闇路をともに歩きぬきましょう。

【今週の聖書の言葉】 2021年1月17日

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:19-20)。

 わたしたちはお金や名誉について行っていないでしょうか。自分の満足、自分の機嫌の良さ、自分の正しさを追い求め、それに人生を導かれて、いや引きずられていないでしょうか。
 イエスについて行くということは、そのようなこととはまったく違います。むろん、最低限度プラスアルファくらいのお金もあったほうがよいですし、満足感、心地よさ、自己肯定感を求めることも当然です。けれども、それは、二番目以下のことがらです。
 わたしたちの一番は、わたしたちの根本的な支えは、根本的な導きは、わたしたちを創造し、わたしたちに息を吹き込んでくださる神なのです。イエスはまっすぐにその神を指し示してくれます。だから、わたしたちはイエスに従っていくのです。
 イエスに従っていくことは、お金でも名誉でも快感でもなく、ただ神のみをわたしたちの人生の主、つまり、わたしたちに人生を創造し、与え、導いてくださるお方とすることです。
 「人間をとる漁師」とは何でしょうか。網を捨ててイエスに従った二人は、それまでは「魚をとる漁師」でした。魚が人間に換わっただけではありません。「とる」ことの意味も変わりました。魚をとるのは自分たちの糧にするためでしたが、人間をとるのは人間を生かすためです。
 網を捨てるとは、自分の利益を追い求め利益に支えられようとする生き方から、神を追い求め、神に支えられ、出会う人を生かす、愛をもって人と出会う生き方に換わるということではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2021年1月10日

「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:17)

洗礼とは何でしょうか。神を信じる、という、わたしたちの決意表明でしょうか。それとも、あなたを生かす、という神の救いでしょうか。
 どちらか一つが正解なのではなく、わたしたちの信仰と神の救いは、洗礼のふたつの側面なのではないでしょうか。
 洗礼を受けようとするイエスに恐縮してヨハネは思いとどまらせようとしますが、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とヨハネを説き伏せます。
 洗礼は自分たちにとって大切なものであるから、わたしはぜひ受けたい、という信仰と意志をイエスは明らかにします。
 ところが、洗礼はそれだけに終わりませんでした。水から出たイエスの上には、「これはわたしの愛する子」という神の声が響きます。
 イエスの想いから始まった洗礼は、神の愛の言葉によって完結しました。わたしたちも同じではないでしょうか。神を信じる、信じたいという祈りによって自ら受けた洗礼は、「わたしはあなたを愛している」という神の声によって包み込まれるのです。
 わたしたちの信仰から神の救いへ。いや、本当はその逆ではないでしょうか。まず、神の愛、神の救いがあり、わたしたちはそれに気づき、あるいは、予感し、それに促されて、神を信じる道を歩きはじめるのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2021年1月3日

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(マタイ2:18)

イエスが生まれる七百年前、北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、人びとは捕虜として連れて行かれました。その途中でラマを通ります。
 伝説によれば、ラマにはラケルの墓がありました。ラケルはイスラエルの民の祖先であり、自分の子孫たちのいのちが踏みつぶされていることを知れば、墓の中で泣くだろう、慰めを拒否するくらいに悲しむだろう、とマタイは言うのです。
 イエスの時代に戻りましょう。イエスの生まれたことを知ったヘロデ王は自分の王位が脅かされる不安に駆られ、イエスを殺そうとしますが、居場所がわかりません。そこで、イエスと同じ年頃の男の子を皆殺してしまいます。そうすれば、その中にイエスも含まれているだろうという冷酷な考えなのでしょうか。
 マタイによる福音書はこのように物語りますが、実際の歴史はどうだったのでしょうか。たしかなことはわかりませんが、ヘロデ王が人びとに対して残虐なことを積み重ねていた可能性は否定できません。また、歴史において、子どもたちや大人たちが王、支配者、権力者によって虐殺されるという出来事は、非常に残念ながらどの時代も絶えることがありませんでした。
 マタイの物語では、イエスはエジプトに避難して生き延びますが、同い年の子どもたちは殺されてしまいます。彼らはかわいそうだけどもイエスは助かったので良かった、とすませるわけにはいきません。
 マタイは、残虐な歴史を語ることで、かえって、それを深く悲しんだのではないでしょうか。ヘロデが死の王であることに対し、神は「いのちの神」であることを、イエスはその神のいのちを伝えていることを、言い表そうとしているのではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 2020年12月27日


「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ2:12)

 イエスはヘロデ王の時代に生まれましたが、ヘロデ王とはまったく異なる存在でした。ヘロデ王は何でも自分の力で強引に進めましたが、イエスは、病人を癒し、斥けられた人々と食事をともにし、神の国を語り、偽善を暴きながらも、深いところでは、花や鳥のように神に委ねていたのではないでしょうか。問題を解決するために自分の力で強引に人を傷つけることはしませんでした。
 占星術の学者たちは星を見て「ユダヤ人の王が生まれた」と考え、エルサレムにやってきました。ヘロデ王はそれを知り不安になりました。自分の王位が脅かされると感じたからです。そこで、新生児イエスを探し出し、殺そうと考えました。これがヘロデの道です。
 しかし、学者たちは、ヘロデ王と対面したものの、イエスと出会った後は、ヘロデのもとに帰りませんでした。ヘロデにイエスの居場所を教えませんでした。彼らはヘロデの道を拒否したのです。
 それは、イエスの道を歩むことでもあったのではないでしょうか。イエスへの彼らの献げものは、ヘロデではなく、王ではなく、イエスに委ねることを意味したのではないでしょうか。
 力を強引にふるうのではなく、神に委ねる道を歩きはじめることを意味したのではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】 2020年12月20日

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ2:7)

 皇帝の命令ゆえにマリアとヨセフは慣れ親しんだ町ナザレを後にしなければなりませんでした。けれども、目的地には彼らの宿はありませんでした。
歴史を振り返っても、多くの民が故郷から強制的に出発させられ、着いた地においても斥けられ、休まる住まいを見つけることはできませんでした。近代日本が朝鮮半島の民にしたことも同罪です。あるいは、ヨーロッパがアフリカの人びとに、アメリカ合衆国が中南米の人びとにしていることも同じです。自国内でも決まった住まいのない生活を余儀なくされている人びともいます。
 このような政治にかかわる差別とは意味合いが全く同じではないことに留意しなければなりませんが、クラスでいじめられている子ども、職場で片隅に追いやられている人、学校に行けない人、職のない人、自分の居場所がない人もいます。この人びとも、「泊まる場所」を見つけられないでいます。
 聖書の伝える誕生物語では、生まれたばかりのイエスには、このような人びとに通じるものがあったと言えるのではないでしょうか。ひじょうに貧しく、苦しい境遇です。
 けれども、聖書はそんなイエスに、飼い葉桶があり、体を包む布があったと物語っています。飼い葉おけは貧しさ、苦しさそのものですが、どうじに、貧しい者、苦しい者に横になる場をわかちあいます。貧しい自らを宿のない者の宿にします。それは、これからのイエスの生き方を示しているのかもしれません。


【今週の聖書の言葉】 2020年12月13日

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:5)

目が見えない人、視力が非常に低い人は、歩行、移動、読書などで、大きな困難を余儀なくされています。それは、社会が目の見える人を中心に造られていて、視覚に障害を抱える人びとのことを十分に考えていないからです。点字のメニューを用意しているレストランは少ないですし、街にはあちこちに段差があります。そうしたことが改善され、視覚障害を持つ人びとがもっと自由にされることを祈り求めたいと思います。
 何年も仕事が与えられず、先が見えないと苦しんでいる友がいます。すべての人が公平に職に就くことができ、希望を持って前を見ながら生き続けていけるように、社会や組織、集団、教会が改革されることを祈り求めずにはいられません。
 わたしたちには神が見えているのでしょうか。神は目に見えません。目に見えない神を信頼することは、目に見えない愛を信じることであり、目に見えない人生、自分と家族、友の人生がなんとかなる、神がともにいますと信じることであり、暗闇の中で見えるはずのない光を見ずに見ることであり、絶望の中でありえない希望を見ずに見ることであり、どうなるかわからない死とその先を見ずにそこに我が身を任せることではないでしょうか。
 聖書の言葉がわたしたちとともにそのように祈っていてくれると信じましょう。

【今週の聖書の言葉】 2020年12月6日

「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイ13:57)

 イエスの故郷の人びとは、イエスの言葉や行動やイエス自身に敬意を払いませんでした。この人のことは昔からよく知っている、この人の家族のことだって知っていると思っていたからです。
 自分はもう知っている、この人が言うことなどもうわかっていると決めつけると、わたしたちは新しいことを学べません。今より少し成長することができません。
 先生はわたしたちの知らないことを知っている、先生の知っていることの中にはわたしたちの知らないことがたくさんある、という前提があるから、子どもは学ぶことができます。
 大人になって人の話を聞くとき、この人はいつも同じことしか言わない、この人の話など聞かなくてもわかっていると思っていると、わたしたちは大切な話を聞き逃すかも知れません。
 神と出会ってからわたしたちは何度目のクリスマスを迎えつつあるでしょうか。アドベントやクリスマスはなつかしい気持ちになる季節です。子どものころから聞き慣れた讃美歌やイエス誕生の物語は、わたしたちの郷愁を誘います。
 けれども、それにばかり浸っていると、わたしたちは新しい知らせを受けることができません。聖書は汲みつくすことのできない泉です。そこには、まだわたしたちが見つけていない使信が待っているのです。
 クリスマスをよく知っていると思いこまずに、そこには気づかなかった神からの贈り物と課題があると信じ、このアドベントは聖書の言葉に思いをめぐらそうではありませんか。


【今週の聖書の言葉】 2020年11月29日

「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(マタイ24:42)

 朝までぐっすり寝続けたいのに夜中に目が覚めて、なかなか寝付けないことがあります。けれども、朝になり、本当に目を覚まさなくてはならないときになっても、ぼーっとしていて、もっと寝ていたいこともあります。

 わたしたちは、心配事には気持ちが奪われるのに、神に対しては心が向いていないのではないでしょうか。自分の孤独は身に染みて感じるのに、神がともにいること、インマヌエルには気づいていないのではないでしょうか。自分にとって苦痛なことには敏感なのに、じつはこんな良いこともあるということには鈍感なのではないでしょうか。わたしたちは絶望だけでなく、絶望の中にある希望、絶望を取り囲む希望に目を覚ましたいと思います。

 神がわたしたちのところに来る日とは、わたしたちが神の臨在に気付く日でもありましょう。それは、この上ない喜びの日です。神がともにいてくださることにまさる喜び、それを心から感じる喜びにまさる喜びはありません。

 けれども、神の存在に目覚めることは、わたしたちの身をただす日でもあります。神の前で優等生になるためではありません。神とともに歩くためにです。わたしたちは、神がともに歩いてくれることに心から感謝しますが、わたしたちは神とともに歩もうとしているでしょうか。
 
 神が敵を愛するように、わたしたちは敵を愛するように努めているでしょうか。神が人の隣にいるように、わたしたちは人の隣にいようとしているでしょうか。わたしたちは、神とともに歩んでいることに対しても目を覚ましたいと思います。


【今週の聖書の言葉】 2020年11月22日

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)

 キリスト教会の暦はクリスマスの四週間近く前の日曜日から始まります。一年を終え新しい年を迎えるにあたって、わたしたちはこれまでのことを振り返って反省し、これからのことを考え気持ちを新たにします。
 その導きとして、聖書はわたしたちに問いかけます。あなたは、「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢にいたりする」「人の子」に「食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、訪ねた」かと。
 すると、わたしたちは、「そう心がけ、ほんの少しはそうしたかもしれませんが、十分というにはまったく足りないものでした」とか「そうしたいと思ってもじっさいにどうしてよいかわかりませんでした」と答えざるを得ないのではないでしょうか。
 しかし、聖書はさらに語りかけてくれます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。たった一人にしたことが「人の子」にしたことなのだと。
 わたしたちは、神と隣人を十分に愛することができたわけではありませんが、まったく愛さなかったわけでもないのではないでしょうか。
 しかし、わたしたちは、自分はこれでよいのかと考えます。自分や自分の家族が何とか生きることしか考えてこなかった、人びとを思い、神を思い、心高く生きることをしてこなかった、せめてこれからは、自分以外の、せめて一人のことは何よりも大切にして生きていきたい、そのように創り変えてくださいと切望します。


【今週の聖書の言葉】 2020年11月15日

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)

 二千年前イエスに語りかけられた人びとにとって「敵」とは、たとえばローマ兵のような、自分たちユダヤ人以外の者たち、さらには、ユダヤ人であっても律法を守らない「悪人」「正しくない者」たちのことであったと考えられます。
 いまイエスに語りかけられるわたしたちにとって「敵」とは、自分を抑えつけたり傷つけたり、苦しめることを言ったりしたりする者たちのことばかりでないでしょう。わたしたちは、外国人、自分と異なる心身や性、生活のあり方の人などをも、自分たちを脅かす「敵」とみなしているのではないでしょうか。
 そのような「敵」を「愛する」のは、容易なことではありません。しかし、イエスは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言います。この言葉に、「敵を愛する」ためのヒントがあるのではないでしょうか。
 ひとつは、父、すなわち、神は、わたしたちが悪人や正しくない者とみなす人にも光、熱、水といった、いのちを支える要素を与えているということです。神がわたしたちだけでなく「敵」のいのちをも支えているのなら、わたしたちにも「敵」を愛する=大事にすることが求められるでしょう。
 もうひとつは、太陽は光をもたらすだけでなく、灼熱によってわたしたちを苦しめます。雨は生活用水だけでなく、洪水、災害をもたらします。わたしたちも「敵」もそれに苦しむ「弱い者」です。しかし、「敵」も「弱い」と知るとき、「敵」は「愛」すべき存在、「大事」にすべき存在に変わるのではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】 2020年11月8日

「あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」(マタイによる福音書23:25)

 偽善とは「偽りの善」あるいは「それがあたかも善であるかのようにいつわる」ことでしょう。そして、そのようにふるまう偽善者が、残念ながら、わたしたちの生きる世界にはまったくいないとは言えません。
 たしかに、善人もいます。あるいは、人はあるとき、善をなします。わたしたちは、人の善、慈しみ、誠実さに触れて、心を和ませます。けれども、善をいつわる人もいます。自分の不正を認めたり反省したりしないのに、自分に不都合な人やことについては「あれは不正だ」と、自分が正しいように偽る人びとがいます。
 ひとりの人が、ある時は善人であったり、別の時は偽善者であったりすることもあります。その首尾一貫性のなさ自体が偽善であり不誠実だと思います。わたし自身、わたしはそのような者ではない、と言えば、これも偽善でありましょう。
 けれども、神は偽善者ではありません。神は、むしろ、善であり、誠実です。神以外のものが神のようになってしまうとき、神以外のものにわたしたちが頼ろうとするとき、それは偶像になってしまいます。お金やこの世での地位にわたしたちが究極の頼みを置くなら、それは偶像であり、偶像は偽善者に似ています。偶像がいくらわたしたちを幸福にするようにささやきかけても、じつは、それは、とてもむなしい言葉なのです。
 それとは正反対に、神の「わたしはいつもあなたとともにいる」(インマヌエル)という言葉は、昔も、未来も、そして、今まさにその通りである誠実な言葉です。

【今週の聖書の言葉】 11月1日

「イエスは息子をその母親にお返しになった」(ルカによる福音書7:15)

 新約聖書のルカによる福音書にこんな話が書かれています。ひとりの女性がいました。夫とは何年か前に死別しています。そして、今、息子にも先立たれてしまいました。夫も息子も彼女をおいて天に帰ってしまったのです。息子の遺体が棺に入れて担ぎ出されます。
 そこをイエスが通りかかります。イエスはその女性を見て、その悲痛を察知し、自分も深く心を痛めます。そして、女性に「もう泣かなくともよい」と語り掛けました。さらには、棺に手を置き、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と言いました。すると、棺に横たわっていた息子が起き上がり、話し始めたと言うのです。イエスは、その息子を女性に返しました。聖書には直接は書かれていませんが、女性は息子を抱きしめ、ゆっくりと言葉を交わしたのではないでしょうか。
 わたしたちの愛する人びとももう何人も天に帰りました。その人びととはもう二度と会うことも話をすることもできないのでしょうか。このイエスの物語は、そうではなく、この女性と同じように、わたしたちも愛する人びとと再会し、じっくりと話をすることができることを示唆しているのではないでしょうか。物語のようにわたしたちの家族や友人の身体が起き上がることはありませんが、わたしたちは愛する人びとと、心で再会し、心で語り合うことができるのです。神は、愛する人びとをわたしたちのところにすでに返してくださったのではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】 10月25日「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタイ10:29)

 じつはここは「あなたがたの父なしに」とも訳すことができます。そしてこれはどんな意味なのか、いくつかのことが考えられます。まず「ちっぽけな雀が地に落ちることがあったとしても、その時は神が一緒にいる、一緒に落ちる」という意味です。それから、「ちっぽけな雀でも、神が(雀を落とす者に)許可しなければ、落とされることはない」という意味です。ところで、大地震や津波は、神が引き起こしたものなのでしょうか。あるいは、神が地球や海に許可をくだした結果でしょうか。ある人は、東日本大震災は天罰だと言いました。はたしてそうでしょうか。ある人は、神は世界を創り、地震や津波の起きるのも神が創った世界の仕組みに由来するが、神はひとつひとつの災害を許可したり、それに罰の意味を込めたりしない、と言います。病気や怪我はどうでしょうか。それは、神が許可した結果でしょうか。神からの罰でしょうか。自分でそのように受け止めて、なお、神に従って生きていこうとする信仰はありうると思います。そのように受け止めた方がその人は生きやすい、という場合はあるでしょう。けれども、それはあくまで自分の受け止め方、その人自身の受け止め方であり、他の人に説いて聞かせることではありません。他の人に起こった苦難について、それは神からの罰だなどと言うべきではないでしょう。さて、上の聖書の言葉に戻りましょう。自分は押しつぶされてしまいそうだと苦しんでいる人びとに、いや、神はそんなことは許可しない、神はそんなことはけっしてしない、というメッセージがここにはないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 10月18日「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17:21)

 皆同じ考え、同じ行動、全員一致して支配者や組織の言うなりになったり、同調したりする。イエスがここで言っているのは、このような「一つ」ではないでしょう。イエスが言う「一つ」は、皆が一つのものに飲み込まれてしまうことではありません。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」。神がイエスの中にいて、イエスが神の中にいるとは、一方が他方に吸収されてしまうことではなく、むしろ、たがいに相手の立場に身を置こうとする、相手に近づこう、寄り添おうとすることでしょう。イエスはイエスのまま、神は神のまま、しかし、たがいに自分を相手に寄せるのです。「すべての人が一つになる」のも、それと同じではないでしょうか。わたしたちは、それぞれがそれぞれの個性を抱えたままで、一つになることが求められています。わたしたちの心や体はひとりひとり違いますが、神に愛されている、イエスに愛されている、という点では一致しています。わたしたちは、神を中心にしたいくつもの図形のようなものではないでしょうか。一つになるとは、皆がまったく同じになることではなく、たがいに共鳴し合う、共振し合う、共感し合う、相手の痛みに心を揺らし合うことではないでしょうか。


【今週の聖書の言葉】 10月11日「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」(ヨハネ11:11)

 イエスは二千年前に死を迎えましたが、聖書や祈り、礼拝を通して、いまもわたしたちに語りかけてくれます。わたしたちもそのイエスに答えようとします。イエスとわたしたちの間にはいまでも対話があります。たとえ、それが整った言葉でなくても、拙い言葉や思いであっても、沈黙であっても、ここには、イエスとわたしたちの交わりがあります。わたしたちはイエスの復活をこのように経験することができるのです。イエスだけではありません。わたしたちは、作家や哲学者、詩人らと、この人々の言葉を通して、心を通わせることができます。言葉だけではありません。音楽や絵画、建築も、わたしたちを交流へと招きます。ここに、この人々の復活があるのではないでしょうか。歴史上の有名な人びとだけではありません。わたしたちは、すでに天に召された家族や友人、大切な人びととも、いまなお、話し続けることができます。それはアルバムの思い出に留まりません。すでに召された人の言葉や姿や感覚や何かを、わたしたちが思うとき、それは、昔の思い出ではなく、今の対話なのです。大切な人びとは眠っているのではありません。イエスによって起こされ、今なお、わたしたちとともに生きているのです。

【今週の聖書の言葉】10月4日「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(ヨハネ10:38)

 イエスは神をとても親しく感じていたのではないでしょうか。イエスは神に「アッバ」と呼びかけましたが、これには「お父ちゃん」というような親しみが込められていたと言われています。私たちは、神はどこにいるのか、と問いますが、イエスは、「神はわたしの中にいる。わたしも神の中にいる」と言いました。神がわたしの中にいて、わたしが神の中にいる、ということは、物理的には不可能ですが、これも、イエスと神との近さ、イエスの神との一体感を言い表しているのではないでしょうか。わたしたちもイエスのように神に親しみたいと思います。イエスを知り、イエスと神の親しさを悟るとき、わたしたちも今よりも神を身近に感じることができるのではないでしょうか。

【今週の聖書の言葉】9月27日「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない・・・だれも父の手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:28-29)   

「この手をしっかり握っているんだよ。けっして放してはいけないよ」。人混みで親は小さな子どもにこう言います。けれども、たとえ子どもの手が緩んでも、親は手を放しません。むしろ、ますます強く握ります。神とわたしたち、イエスとわたしたちの結びもこれと同じではないでしょうか。わたしたちが神やイエスから離れようとしても、誰かが引き離そうとしても、状況によって離れそうになっても、神は、そして、イエスは、わたしたちを離さないのです。たとえ、わたしたちが振り払おうとしても、「恵みと慈しみはいつも追いかけて」(詩編23:6)きます。だれもわたしたちをイエスの手から、神の手から奪うことはできません。たとえ、そのように思えてしまう苦境にあっても、目に見えない神がわたしたちの手を強く握っています。神のこの手を信頼しようではありませんか。「だれもあなたをわたしの手から奪えない」と神は言います。


【今週の聖書の言葉】9月20日

「羊飼いは自分の羊の名を呼ぶ・・・羊はその声を知っている」(ヨハネ10:3-4)   

私たちの前には歩むべき道があります。天に帰るまでの道、そして、天への道です。これらの道を私たちだけでは歩めません。導き手が必要です。聖書は、それは神でありイエスであると教えてくれます。羊飼いが羊たちを青草の原に導くように、神とイエスが私たちを導いてくれます。どこに、でしょうか。神のみもとにです。地上を不安げに歩く私たちを、旧約聖書においては、神が神自身に導いてくれます。神自身が青草の原なのです。新約においては、イエスが私たちを神に導いてくれます


 【今週の聖書の言葉】9月13日

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)

 私たちはいろいろなものに束縛されています。時間、お金、仕事、人間関係、病気、身体、自分の思い、他者の目、過去、将来についての不安。こうしたものが私たちをまるで奴隷のように縛り付けています。これらには、否応なく私たちを襲うもの、押し付けられるものもありますが、私たち自身が招き寄せているものもあります。けれども、神は、私たちをここから解き放とうとしてくださいます。むかしエジプトで奴隷であった民に神は「わたしはあなたと共にいるよ」と呼びかけ、民の縄目をほどき、自由にしました。インマヌエル、神がともにいる。この真理は、私たちを自由にします。神がともにおられるから、私たちはもう何かに囚われる必要はないのです。


【今週の聖書の言葉】9月6日


「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)

 私たちの人生には闇があります。私たちは病気になったり、仕事や家族のことで悩んだり、人や組織に苦しめられたり、不当な目に遭ったり、どうしても解決できない問題をずっと抱え続けたり、つねにあることを心配したり、いつもつらい記憶が再現されたりします。しかし、そのような闇路を歩くときも、神が光になってくださいます。神が光となり、闇路に一筋の道を示してくださるから、私たちは生きることができます。その意味で、神は光であり、私たちを生かしてくれる私たちのいのちなのです。いのちとは、神と私たちとの永遠のつながりであり、神自身です。その神と深く出会い、私たちにその神を指し示し、その神とつながらせてくれるイエスは、私たちのキリストであり、神と同じく、私たちの光なのです。イエスという光に導かれ、神という光に照らされれば、私たちは、世界がたとえ暗闇であっても、歩きぬくことができるのです。


【今週の聖書の言葉】8月30日


「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:11)

※私たちは皆、神にすべてを委ねることができず、思い煩います。隣人を隣人として愛することができず、自分勝手な言動に終始します。私たちはまた人を裁きます。人にレッテルを貼ります。私たちも人からそうされます。けれども、神は違います。神は私たちを何かのゆえに切り捨てることはありません。神は私たちを裁き捨てることはしません。むしろ、あらたな道を繰り返し備え、「行きなさい」と導いてくれます。今度は、神に委ね、隣人を愛することができるようにと。何度でもそうしてくださいます。