No.117<チュンリさんの挑戦>

土曜日の夕方、アジア学院からチュンリ・サンタムさんを迎えての交流会が開かれました。チュンリさんは、髪の毛を立ちあげて固めて、今風の若者髪型。しかも衣装は、紺地に赤と白の刺繍の入ったナガ族の伝統的な衣装で現れたので、とても強い第一印象でした。浅黒い肌に笑うと白い歯が光っているさわやかな青年でした。通訳の藤島トーマス逸生さんは、今年1月のアジア学院のカンボジア・スタデイ・ツアーで御一緒させていただいた方(お父さんが日本人、お母さんがドイツ人のダブル)。再会を楽しみにしていました。一品持ち寄りでは、一人2,3品作ってこられた方も数人いて、豪華な食卓になりました。
 チュンリさんが特に話を用意していたわけではなかったのですが、食事がはじまってしばらくすると、次々と質問が飛び出しました。その中から、まとめてみると…。チュンリさんの属するサンタム族は、インド・ナガランド州の16部族の内の一つで、約2万5千人ほど。サンタム語を話します。ナガランド州の共通語のナガ語があり、またインドの公教育で使われている英語がありますので、3つの言語をチュンリさんは操ります。チュンリさんの村は100年ほど前に、村ごとキリスト教に改宗。99%がクリスチャンだということです。パブテスト宣教が一番成功した例と言われていて、世界中で一番バプテストの人口密度が高いところだそうです。チュンリという名は、支配を継承するもの、という意味で、この世でたった一つの名前だそうです。チュンリさんが9歳の時に、父親が高い教育を受けさせたいと、都会のカトリックの一貫校へ入学させ、小・中・高とそこで学び、大学はインドのメインランドへ行き、ガンデイ・アカデミー経営研究所を最終的に卒業したそうです。しかし、都会の生活はもういい、と故郷へ帰り、2009年からベター・ライフ基金の援助を受けて、農業プロジェクトを始めています。チュンリさんの村では90%の人が農業に従事していますが、現金収入をそれで十分得られるほどの収穫量がなかったのだそうです。また、主食であるお米や、紅茶などはどうしても外から買わなくてならないのが、大きなネックでした。そんな時、父親の友人のダージリン出身の人が、この地域は寒冷地でお茶の栽培に向いている、と助言をくれたのをきっかけに、お茶の栽培を始めて成功。それを村へ拡大しているそうです。アジア学院での学びは、すべてが新しく、特に、今まで捨てていたもので堆肥を作れる学んだことは大きかったと、話してくれました。持続可能な農業で、村を豊かにする日を夢見て、挑戦のまっ只中にあるチュンリさんの目はきらきらと輝いていました。

No.129 被災地を訪問して

 12月26日より28日、仙台、二本松、南相馬を訪問して来ました。仙台では、東北教区センターエマオにある教団被災者支援センターの主事であるSさんを訪問し、笹屋敷での半日の「傾聴」のワークに参加。

【仙台・荒浜地区。津波に耐えて生き抜いた防風林】

その晩は、二本松の友人に15年ぶりに会い積もる話をしました。彼女は、3・11以後、有機野菜の販売を通じて、被災者支援を行っています。

 27日の昼は、先輩達と合流しました。その後、無教会の信徒で有機農業家のOさんのお話しを伺いました。原発事故以後、売れなくなってしまった野菜と米。安全性を求めて、放射能を除去する試行錯誤を繰り返して、今は、基準値以下の有機野菜を作ることが出来ているそうです。
 翌日は、二本松から飯館村を通って南相馬市の海岸の津波被災地を訪ねました。飯館村は、山間の盆地にあり、「までいの力」で村おこしの努力を30年以上続けて、とてもよいコミュテイが出来ていたのに、それが原発で壊滅してしまいました。自衛隊の車、文部科学省の車、パトカーが2台、私達の車の前を走っていてものものしい雰囲気でした。飯館村役場に数台の自衛隊の車、10台位のパトカーが駐車していましたが、村の防犯のためにパトロールをするのだそうです。人っ子ひとりいない村の中は、不気味に静まり返っていました。その光景を見てただ涙がこみあげてきました。

 山を下りて、南相馬市。海岸の津波の被災地まで行ってきました。ここは警戒区域がようやくこの4月に解除されたばかりなので、まだがれきの片付けもほとんど済んでいませんでした。私達はその地域を歩きながら被害の大きさに打ちのめされていました。お昼は教団原町教会の牧師に会って話を聞きました。避難した人、とどまっている人との間での難しい軋轢。放射能情報もきちんと提供されていない状況も報告され、幼稚園・教会運営のご苦労が偲ばれました。まだまだ何も終わっていない被災地の現状。これを覚えつつ祈りたいと思います。

No.115<K・デュルクハイムの村>



【ゲスト・ハウスの居間でのお茶の時間】 
さて、ドイツの休暇のお話しを続けます。北のハンブルグからカッセル、ちょうど真ん中のベブラから、さらに南のフライブルグ。そこからさらに1時間のリュッテという村を訪ねるのが、今回の旅行の大きな目的でもありました。昨年から講義で取り上げているカールフリート・デュルクハイムという心理療法家が、伴侶であるマリア・ヒピウスと共に作り上げた共同体がそこにはあります。そこでは様々なセラピー(心理療法)を受けることが出来、又、セラピスト養成のコースも開かれています。黒い森の豊かな自然の中にある村の中に、その建物が点在しています。昨年友人を訪ねた時、偶然この村に案内してもらい、デュルクハイムの仕事を知り、興味をもって調べるうちに、実に面白い仕事をした人であることがわかりました。戦前、外交官として日本に来ている時に、坐禅や弓道、お茶など日本文化を習得し、特に坐禅を早い時期から心理療法に取り入れて、大きな成果をあげた人です。『肚―人間の重心』というのが、彼の主著なのですが、日本の身体文化の中の「ハラ」を鍛え修行することによって、心身が整えられ、本質と結びつく力を獲得することを、ドイツ人らしく実に丁寧に分析しています。ナショナリズムと結びついた日本文化礼讃は考えものですが、かつての日本文化を体験しそれを懇切丁寧に分析しているデュルクハイムの著作は、本当に興味深いものでした。実際、彼はドイツでどのような実践をしているのだろう、とリュッテの村を訪ねてみたくなったのです。

 村の中心のゲスト・ハウスに泊めてもらいましたが、伝統的な黒い森のがっしりとした木の家で窓が小さいために、内部はとても暗いのです。そのためか人間の内奥の洞窟に入ってゆくような不思議な感覚を覚えました。ゲストは40代から70代の方が7,8人比較的年長者が多かったです。オリエンテーションで「ゲスト同士であまり余計なおしゃべりはしないでくださいね。たとえば夢の話などはセラピストにしてください。」と言われ、きめ細かい配慮だなあと思いました。他のゲストは何らかのセラピーに参加していましたが、私は自由にすごさせてもらいました。村の中心には、チャペルといつでも瞑想をできる坐禅堂があり、年に2回、臨済宗の僧侶が来て、接心(集中的に坐禅をする期間)を開いているそうです。美しい夏の花々の庭とおいしいオーガニック料理にも大満足でした。自分自身を真摯に見つめ鍛錬できる出会いの場所が、50年以上の歴史をもって営まれて来たことに、ドイツ文化の豊かさを感じました。

No.113 <ドイツ・ドクメンタ展のこと>

ドイツでの夏期休暇で楽しみにしていたものの一つは、5年に一回開催される国際現代美術の大規模な展覧会「ドクメンタ展」でした。朝日新聞と『婦人の友』の両方にお勧めの美術評が出ていたのを読んだのです。ちなみにドクメンタとは記録のことです。ハンブルグから特急で2時間半南下したカッセル市で、行われていました。行ってみてびっくり。新宿御苑以上の広さの公園や、カッセル駅の構内、駅前の映画館など、展示会場がとにかく広い。1週間かかってもすべてを見ることはできないと聞いていましたが、納得です。私に許された時間は半日ですから、一日チケット(20ユーロ)を買って、一番手近なカッセル駅構内の展示会場を見て回りました。ビデオ作品が多かったので、これも時間がかかりました。私が見たビデオは、暴力と紛争、差別、環境破壊、平和運動といったテーマが多かったです。この会場にはそれが集められているということでしょうか。会場を見渡すと訪れる人たちが比較的年齢の高い人たちが多かったように見えました。現代美術ファンという層が厚いのかな、と思わせられました。それも、同性の二人連れが多かったのが、印象的でした。趣味を同じくする人がお互いの感想や批評を聞きながら見て回っているようでした。また、フランスやイギリス、オランダ等外国からのゲストもたくさん来ていて、インターナショナルな雰囲気でした。アートというのは、私達が普段みている現実をさらに踏み込んで別の視点から見せてくれます。私達の生きている世界の豊かさ、多様さを発見させてくれるのです。

【ビデオ・ラデイオストの一場面ー福島第一原発爆発の場面】
印象的だったのは、「ラデイオスト」(放射するもの)というイギリスのグループが作った、3・11の震災と福島の原発事故をテーマに扱ったビデオ。静かな雰囲気の中、ジャーナリスト、写真家、農民、地震研究家等のインタビューが続きます。また、津波にまさに巻き込まれようとする人々の映像や、原発が爆発する映像。原発作業員が防護服を脱ぎきしてホールボデイ・カウンターにかけられる様子等が、淡々と映されていきます。最後にクレジットが流れる時に、原発宣伝のために使われたビデオが流されます。鉄腕アトムのような子どもの声で「原発は危険って本当でしょうか?」と実に口当たりのよい言葉で、情緒的に原発は安全、平和に貢献するということを訴えてゆく、その無邪気さが、実に不気味に響きました。アートというには、かなりメッセージ性の強い作品ではありましたが、静かに心に染みてくる作品でした。