<2014年1月12日新成人祝福式礼拝・使信「あなたはわたしの愛する子」>

石井 智恵美

マルコによる福音書1:9-11
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け
られた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊“が鳩のようにご自分に降ってく
るのを御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」と
いう声が、天から聞こえた。


 今日は新成人祝福式です。日本では成人が20歳になっていますが、成人となった人々への祝福の礼拝です。先週は、通過儀礼という話をしました。今までの自分の限界を超えるような出来事を体験することで、自分への自信を深め新しい人生の段階へ踏み出してゆく大切さについて。成人と言うのは、大人として認められることです。しかし、何度も言われていることですが、そこには責任が伴います。だからこそ成人になるまでに実力を蓄えることが求められるのです。

友人の結婚式でお父様が話された話しを思い出します。成人式を迎えた友人が、目の不自由な人のボランテイアを継続していて、成人式が終わると振袖姿のままでそのボランテイアへ向かって行った姿を見たお父様がその感想を話されました。他者のために働くことを当たり前のように行っている娘を見て、よい娘に育ってくれた、その姿こそ本当に成人式だ、と語ってくれました。

他者と共に生き、他者の重荷を担い、また時には自分の重荷を担ってもらう、それが成人になることです。「自立」ということが言われますが、「自立」とは決して人との関わりを断つことではありません。関わりの中で、互いに責任を負いあうこと、ではないでしょうか。

今日の聖書の言葉「あなたは私の愛する子。私の心に適う者」これは神のイエスに対する承認の言葉です。神との深いかかわりがあって、イエスは宣教の業を始められました。新しい宣教の行為を始めるにあたって、イエスはこの承認を神から頂いています。自分だけで宣教の業を始めたのではありません。

わたしたちもまた、多くの人々の無数の関わりによって育てられ、養われて来ました。「自立」ということは、何よりも自分の人生を生き抜くことです。自分の課題、自分の使命を知り、それを担うことです。それは誰かが代わってやってくれるものではないのです。その重さ、厳しさはあります。しかしその重さ、厳しさを知っている人は、だからこそ、その人がより良い人生を歩み行けるよう、互い助け合い、支え合うのではないでしょうか。またその恩を、人を育てることによって返してゆくのではないでしょうか。そこに限りのない神の祝福があることを、私は信じます。 

2014年1月6日故Kさん告別式メッセージ「愛がなければ」

聖書:コリント信徒への手紙Ⅰ 13章1-13節

【Kさんの作品「自画像」2012年まぶね芸術展出展作品】


● Kさんとまぶね教会                             
 わたしたちの敬愛するKさんが、2014年1月1日天に召されました。享年78歳でした。入院先の病院で、死因は肺炎であった、そうです。元旦の朝、教会員のYさんより、電話でKさんの訃報を知らされました。
Kさんは、このまぶね教会の前身である城南ヨハネ伝道所の時からのメンバーで、いわば教会の草創期を支えた大切なメンバーのお一人でありました。1962年、キリスト教信者のTさんと船水牧師(東京神学大学教授)の司式で結婚されてから、城南ヨハネ伝道所、その後はまぶね伝道所の立ち上げへつながり、1966年には船水牧師より受洗された、と略歴にあります。現在、教会の小礼拝堂には若き日のKさん・Tさん夫妻とYさん夫妻が、「城南ヨハネ伝道所」の看板を前にした写真が掲げてあります。Kさんはすらーっとした好青年で、すてきにコートを着こなしています。
 Kさんは「受洗はうれしい思い出」として、『まぶね便り』2003年4月27日号に以下のような文章を載せています。「教会生活で得たこと――教会生活では数え切れないほど多くのものを得たと思う。まず、キリスト教に出会うことなく人生を送っていたとしたら、私の人生は社会的にも家庭的にも決してよいものではなかっただろうと思う。キリスト教との出会いは、40年前、つれあいのTからYさん夫妻を紹介されたときからである。T、Yさんには多くのことを学び教えていただいた。」そして、うれしかったこと、として、1966年6月5日に船水先生より受けた洗礼をあげています。
 私は2010年の2月にまぶね教会に牧師として赴任し、Kさんにお目にかかったのは確か3月。パーキンソン病が進んで車椅子でおつれあいのTさんと礼拝に来られていた。そして4月にあった座間での展覧会に、Yさん夫妻に連れられてまいりました。その時の感想を教会の週報に「絵の力」としてエッセイに書きました。Kさんの絵には人を動かす力がある、と心から感動しました。病のためあまり話をすることができないKさんに代わって、Tさんが絵の制作過程や題材について等、丁寧な説明をしてくださり、Kさんの作品を一人でも多くの人に理解してほしという情熱が伝わってきてKさんへの愛情に裏打ちされていることが伝わってきました。本当に素敵な御夫妻だな、というのは、お二人に出会ったときの第一印象でした。

●Kさんと油絵
 それから、入退院を繰り返すKさんを、何度かお見舞いし、2012年銀座のギャラリーで開かれた「自画像100点展」も伺うことができ、病の中でも創作意欲の衰えないKさんの生命力に圧倒される思いがしました。教会で開かれる秋の「まぶね芸術展」にも毎回出展をしてくださっていました。Kさんの絵は大作でしたから、いつもこの礼拝堂の正面の壁に掲げられました。
 しかし、意外なことにKさんが油絵を書き始めたのは略歴によると2002年。比較的最近です。もちろん、武蔵野美術大学で学ばれたKさんですから、絵の才能は豊かにおありになったのでしょうけれども、油絵を本格的に始めたのがそんなに遅かったとは本当に意外でした。Kさんが『まぶね40年誌』(2007)に掲載されている文章によると、以下のようです。
「私が本格的に油絵を描き始めたきっかけは、第一回まぶね芸術展(2004年)に出品したのが、始まりである。油絵を描いて見たい、という下地はあった。当時Nさんが週一回我が家に来て、Tと三人で水彩絵の具で描いていた。Nさんの勧めで地元の絵画サークルに入会した。サークルの合評会に作品を出したら、僕の絵には何か訴える力がある、大和市の一般公募展に応募するようにと勧められて応募した。結果的に審査委員長賞を貰った。私の生活が一変した。家にいるのが多かった以前とは違って地元の文化祭にも積極的に参加し、多くの人と声を掛け合うようになった。体調もよくなり歩く足取りも軽くなったように思う。会う人ごとに『元気になって良かったね』といわれる。」
私が読んではっとしたは、Kさんの絵を描く姿勢があらわれている次の箇所です。
「絵を描くにに上手い下手はないと思う。技法は未熟でも見る人の心を打つような表現はあると思う。それは無心になって書いた時で、少しぐらい拙い技法でも願いが叶う。一方知らず知らずのうちに高慢になり、上手くきれいに描こうなどと考え出すと、とたんに絵は描けなくなる。筆は動かず、勢いがなくなる。秘められた潜在能力は力を失う、と言われる。願いを叶える制作は固定観念や既成概念から解放されなければならない。」 今日のお話しを準備する私を、Kさんが励ましてくれているような気がしました。大勢の人の前で、特に悲しみの内にあるご家族の前で、良いお話しをしなければ、という自分の願いに縛られると、やはり、自由に話を組み立てることはできなくなって、つまらないものになってしまうのです。そういう自分の変な気負いを捨てて、自由にやりなさい、とKさんから励まされた気がいたしました。

●「愛の賛歌」
さて、今日選んだ聖書の箇所コリントの信徒への手紙13章は、有名な「愛の賛歌」と言われる箇所で、良く結婚式などでも読まれるところです。Kさんが、私の愛唱讃美歌、愛唱聖句として教会に残しておいてくれた箇所です。
元旦の晩に、Kさんのお宅を訪ねて祈りを捧げた後に、つれあいのTさんが「おとうさんは、“ふれあい”が好きだったね」というお話しをなさいました。カラオケでも中村雅俊の「ふれあい」をよく歌っていたそうです。また、Mさんからは、教会の壮年会の飲み会でエデイット・ピアフの「愛の賛歌」を朗々と歌って、Tさんに捧げたとのお話しもうかがいました。そんなKさんらしい箇所を愛唱聖句として選ばれたのだな、と思います。「愛がなければ」と今日のお話しのタイトルにつけさせていただきました。特に1-3節にその言葉が繰り返されています。
 「たとえ人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも愛がなければ無に等しい。」
ここでいう「異言」というのは、聖なる霊が降りてきて普通には理解できないようないわば聖なる言葉のことです。そのような常人を超えた卓越した能力をもっていても、山を動かすような奇跡を行う力をもっていても、愛がなければ無に等しい、とパウロは言うのです。
また「全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければわたしに何の益もない。」
貧しい人々に、全財産を施すという大きな慈善を行っても、また、次の言葉は、信仰に殉じて命を落とすことをさしていると思われますが、人々が賞賛するような立派な行いをしたとしても、そこに愛がなければ意味がない、とパウロは言うのです。
愛がなければ、そのような立派な行いはできないのでなないか、と私達は考えてしまいますが、使徒パウロはやはり長年自分の良心を吟味し信仰を培ってきた人であるゆえに、人間の心の奥深いあやを良く見ています。たとえ人から見てどれほど立派な行為をしていても、そこに愛がない場合がある、自分の名誉心や功名心が動機となっている場合があるのだ、とその事実をつきつけているのです。

● 愛の力
私はKさんが何故、この個所を選ばれたのか、と思い巡らしました。Kさんもまた芸術家として人の心のあやを深く見つめていた方ではなかったでしょうか。私はKさんの自画像の作品群を見た時に、なにか、こちらが普段隠している奥深い次元にまで触れてくるような不思議な感覚を覚えました。
そこには、「顔」として現されている形以上のものが、人の心の奥底にうごめいているものが表現されていると思いました。そのようなKさんだからこそ「愛がなければ」無に等しい、ということを普通の人以上に感じておられたのかもしれません。
今日のこの聖書箇所を素直に朗読してみてください。ただただ心を打たれます。
「愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを偲び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
わたしたちの内にこのような素晴らしい力があるのです。愛という力がある。もちろん、このようなことを完全に行うことのできる人はほとんどいないでしょう。しかし、私たちの信じるイエス・キリストはまさにこの愛を実践した人です。この世界で、ただ愛に突き動かされ、神と人を愛し生きたイエス・キリストいう方がいた。
そのイエス・キリストに従おうという人々が、クリスチャンですから、たとえどんなに小さくても不完全でも、この愛の力を発揮しようとすること、そこにこそ、大きな意味があることを、又、Kさんも知っていたのではないでしょうか。
「たとえ、どれほどの素晴らしい芸術作品を作り上げたとしても、愛がなければ無に等しい」とKさんは信じていたのではないでしょうか。Kさんは次のような文章も残しています。「絵を描くのは楽しい。制作過程で苦しい時があるが、描き進んでいると夢中になる。私は油絵を描き始めた時から『顔」を描いている。自分を見つめているといろんな自分が出てくる。私は心が偉大なことを信じる。考え方を明確にして祈れば(願えば)神様は必ず力を下さる。求めよ、そうすれば与えられます。探しなさい、見つかります。叩きなさい、門は開かれます。(マタイ7:7)私は神様を信じます。」

●「愛がなければ」
絵を描きながらいろんな自分が出てくる、そして心が偉大なことを信じるとKさんは記しています。Kさんが、絵を描きながら究極的に見出したのは、心が偉大なこと、すなわち私達には無限の愛が宿っていること、そしてそのように人を造られた神への感謝と敬意ではなかったでしょうか。
「わたしは神様を信じます」の一言にその思いがこめられていると思います。今日の聖書の箇所にあります「愛がなければ」の言葉。このことを残された私達は、この地上の旅路を終えるその時まで、旅路の杖として歩んでまいりたいと思います。復活の希望をもって眠りについた兄弟姉妹たちと相まみえるその時まで。神が残されたご遺族の上に、特に豊かな慰めと癒しの御手を差し伸べてくださいますように、切に祈り願います。