使信 2016.08.14


<2016年8月14日使信「わたしもあなたを罪に定めない」>
聖書:ヨハネ福音書8章3節-11節- 石井智恵美

今日の聖書の中に出てくる「姦淫の女」は、いわばアウト・サイダーの女です。          
古代ユダヤの父権制社会の中、彼女は、家父長によってコントロールされている性的秩序を乱す者として、

社会の外側に位置づけられています。彼女は石打ちの刑に処せられてもおかしくない者として、
イエスの前に引き出されてきます。

【泥の池に咲く睡蓮の花】


■ 姦淫の女が引き出されてくる              
                                                                                  

この場面を想像してみましょう。早朝のすがすがしい空気に満ちた神殿の境内で、イエスを慕って集ってきた民衆に
イエスが神の言葉を語り伝えています。そこに、あられもない姿をした女が連れてこられます。
姦通の現場でとらえられたというのですから、ろくに服も身に着けていなかったはずです。一緒にいたはずの男は罪に
問われることもなくいなくなっています。女は人妻ではなかったでしょう。もしそうならその夫によって殺されていたはずです。守ってくれるべき男のいない寡婦あるいは、身を売らざるえない女であったかもしれません。いずれにしても金持ちの貴婦人などではなく、家父長制の社会の中で、生きてゆくのが過酷な女であったはずです。
女は言葉もなく引き出されてきます。そのような女の状況は一切描写されることなく、ただ訴えるファイリサイ派と律法学者の男たちの声が響くのです。
「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せ、とモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」(4-5節)
イエスを試して訴える口実を得るためにこう言ったのである。

■ファリサイ派のたくらみ

ファリサイ派の人々が義憤にかられてこのような行為をしたのならまだ許せますが、ここでやりきれないのは、イエスを陥れる口実としてこの女を使ったことです。イエスが石打ちの刑を肯定するならば、民衆は愛を説くイエスの生き方はなんだったのか、と失望するでしょう。しかし、石打ちの刑を否定するなら、律法、しかも十戒の中に入った戒めを否定することになり、イエス自身が石打ちの刑となります。イエスは窮地に陥れられます。そのように仕組まれた問答でした。そこのことに、正当化もできない弁明もできない女が利用されるのです。人間のこの底意地の悪さ、罪の深さをまざまざと、彼らの姿からみせつけられます。

■イエスの奇妙な態度は?

イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。(6節b)
このイエスの行為も不思議です。窮地に落ち込んで、どう答えるかを考える時間を取ったのでしょうか。困ってしまった子どもが、しゃがみこんで、どうしていいかわからないようなときにする行為を思い出しもします。

しかし、ここは、イエスの優しさではないでしょうか。あられもない姿をした女が真ん中に立たされて、ファイリサイ派はイエスに問答をふっかけています。みんなの注目は女に集まっていたことでしょう。イエスはしゃがみこみ、その女から目をそらしました。
また、民衆たちの視線をもイエスにひきつけて、女を見ないように促したのではないでしょうか。イエスは地面にものを書きつけながら、ファイリサイ派の人々が、自分たちの非を悟るのを待っていたのかもしれません。こんな恥ずかしいことを、神の前にこんな恥ずかしいことをどうしてできるのか、この女を憐れに思わないのか、地面を見つめながら怒りと悲しみでイエスはいっぱいだったはずです
しかし、彼らがしつこく問続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた身をかがめて地面に書き続けられた。(7-8節)

■イエスの返答

イエスは、決定的な発言をします。しかし、これは彼らの問答への答えではないのです。さあ、どうだ、お前たちはどうするのだ、と答えを迫っているのではりません。そうだとしたら、仁王立ちになって、ファリサイ派の人々をにらみつけていたかもしれません。しかし、そうではありません。イエスは、また、身をかがめて地面に書き続けられた、とあります。「私はこの女に石を投げ打たない」とその姿で示しました。そして、皆の注目を女からそらし続けました。これはあなたがたの問題だ、私のあずかり知らないことだ、と彼らに問いを投げ返したのです。ファイリサイ派の周到に張られた罠を、イエスは見事に抜け出しました。それは、ただこの女を一人の人間として尊重する、との姿勢から生まれたものでした。ファリサイ派の人々の最後の誠意を信じたといえるかもしれません。
あなたもまた神に愛されている一人だ、ということが、このイエスの行為から伝わってくるではありませんか。そして、イエスの発言から、わたしたちもまた気づきます。神にゆるされていなければ存在しえないのが、私たち人間であることを。そのように神にゆるされていながら、どうして隣人を裁けるのか、ましてや人を陥れるために人を道具として使うことができるのか、神の深い憐みを思うなら、そんなことはできないはずだ、とイエスは無言のうちにその行為によって示したのです。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残った。(9節)
イエスを訴える口実を造ろうとたくらんでいた人々にも良心があったのです。一人、また一人と去っていた。年長者から立ち去って、とあります。家父長制社会では年長の男性が敬われます。彼らが立ち去っては意気盛んな若い者たちも従わずにはおれなかったでしょう。たとえ若気の至りで自分には罪などないと思ったとしても

■姦淫の女とイエス

イエスは身を起こして言われた。婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)

イエスがこのような場面に行き着かねばならなかった女の苦しみの深さを十分に受け止めたからこそ、このような言葉を発することができたのでしょう。
女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)
女が「主よ、だれも」と答えた時、女の世界は一変していました。恥ずかしさと絶望と死の恐怖からいっぺんに解放され、彼女はもう一度生かされました。死をくぐって命を与えられました。それは、イエスという一人の人が女の苦しみを受け止め、極みまで大切にすることによってでした。ファリサイ派という敵は立ち去り、女はただ、イエスの慈しみを通じて、自分もまた神に愛されている神の子であることに立ち返っていました。生きることの意味を取り戻していました。愛し愛される存在として生きることにこそ、人間の生きる意味があることを彼女はイエスを通して体験したのでした。「主よ」と女はイエスに呼びかけます。自分の命の恩人として。肉体の命だけでなく、魂を救ってくれた恩人として。これほどの決定的な至福の瞬間を味わう人はそう多くないでしょう。だからこそこの物語は語り継がれてきたのでしょう。

■神の赦しのもとにある私たち

彼女が姦淫の罪を犯したことを、ないことにする、とイエスは語っていません。有罪とはしない、裁くことができるのは神のみ、とイエスは語りかけます。「これからはもう罪を犯してはならない」ということも同時に女に告げます。イエスはもちろん、姦淫を肯定しているわけではありません。しかし何を一番大切にするか、それをイエスは示したのです。今、ここに生きている命をこそ、一切の差別を越えて大切したのです。もしかしたら、石打ちの刑にあって殺されていたかもしれない場面で、イエスは人として何が一番大切なことを示しました。そして、それは女に確実に伝わったのです。女の世界は一変しました。曇りのない目で人を見、曇りのない目に人を判断する。これはなかなかできることではありません。罪ではなく、その人の苦しみに悲しみに目をとめる。これもまた難しいことです。そして、共に生きてゆく道を探ってゆく。これも同じく難しいことです。しかし、イエスが私たちに示しているのはそのような態度です。神の慈しみの留まるならば、そのことは可能である、と今日の聖書の箇所は、私たちに語りかけています。