「宗教の名のもとに―映画『汚れなき祈り』を見て」




「この世界には宗教の名のもとに行われた大きな過ちがあまりにも多い。しかも、それは正当な根拠に基づいて行われていると絶対的な確信をもって信じられている」(クリステイアン・ムンジウ監督)今週は、このテーマについて大いに考えさせられました。火曜日に神奈川教区の「セクシャルハラスメント・パワーハラスメント・モラルハラスメント」の学習会がありました。教会の中であってはならないことが起こり、それが正当な根拠に基づいて行われていると信じられている。その事例の数々を考えると、気持ちが重たくなります。しかし、それがあたかもないかのごとくに目を閉ざしてしまうことが一番いけないこと。まず、そのような事実がある現実を受け止め、そこからどのように変えてゆけるのか心を開いて話し合える場を作ってゆくこと、そのような地道な努力を続けてゆくしかないのでしょう。
 ムンジウ監督の映画は、ルーマニアの修道院で実際に起こった事件に基づいています。孤児院で育った二人の若い女性が主人公で、ヴォイキツァは修道院に入り信仰生活に満足しているが、アリーナは俗世で孤独な自分の方へ彼女を取り戻したい。その愛と信仰の葛藤の中、アリーナは精神を病み、常軌を逸した行動を度々起こします。病院に行き緊急の手当てを受け、かなりの重症であることを告げられますが、病院には空きのベットがなく、修道院の静かな環境で静養するのがいい、とていよく病院を追い出されてしまいます。修道院に帰ったアリーナに、責任者の神父は、ここは世俗のすべてを捨てて神との交わりに生きるところだから、急がなくてもいいが決断をしなさい、と告げる。ここにいる限り私有財産は放棄するか、それとも里親のところへ帰るかだと。アリーナは一端、里親のところに帰りますが、里親はすでに新しい養女を取ってアリーナの部屋を使わせていて、アリーナは衝動的に修道院へ入る、と決断してしまいます。しかし、修道院に帰ると、彼女の症状はますます悪化。女子修道院長は神父に悪魔払いの儀式を願い、引くに引けなくなった神父はそれを彼女の兄の同意のもとに行い、結局は死なせてしまうのです。ヴォイキツアは1週間に渡る悪魔祓いの儀式の間、神父に「おまえの信仰には動揺がみられるから、はずれていなさい」と言われます。事実、その後ヴォイキツアは、アリーナが縛られていた縄と鍵をほどいて「逃げて。ここにいたら死んじゃうわ」とアリーナに告げます。しかし、アリーナにはもう逃げる力さえ残されていませんでした。翌朝、アリーナが正気に戻ったという知らせを受け、飛んでいったヴォイキツアに、アリーナは晴れやかな笑顔を見せます。しかし、そこでこと切れてしまうのです。救急車が呼ばれ、病院で死亡が確認されます。そして警察が修道院にやってきます。神父や修道女たちと同行したヴォイキツアは、修道女の黒いベールをはずし、アリーナの残したセーターを着て、決意を秘めたまなざしで警察の車に乗り込みます。その強いまなざしは、神父のマインド・コントロールの外へ出たことを物語っていました。ルーマニアのギリシャ正教会という家父長制の強い性格のキリスト教、また呪いや奇跡が信じられている宗教風土もその背景にはあります。しかし、どの宗教の中にも、宗教者が集団の中の暴君になってしまう危険が秘められています。一度、悪い方向へ暴走を始めた時に、どこで歯止めがかけられるのか、その兆候をどこで見分けて、適切な判断を下すか、本当にどきどきしながら、この映画を見ました。最後の場面で、警察の車のフロント・ガラスに雪まじりの泥が、バシャっとかかり前がまったく見えなくなります。ワイパーでそれを拭きとりながら「春はまだ遠いな」と警察官がつぶやき、唐突に映画は終わってしまいます。それがとても、象徴的でした。雪のように純粋と思われる信仰の中に、泥のような悪が混じりフロント・ガラスにはねかけられて、前方が見えなくなる、しかも唐突に。ー人間はそのような混沌を抱えながら、現実を生きています。善も悪も抱えながら。その現実に立つ時に「私達にこそ絶対の救いがある」という言説がどれだけ危うさを含んでいるか、キリスト者として考えて行かねばならない問題です。それは神には言えても、人間には言えないことなのです。これこそが最善だと信じ、全力を尽くしても、最後の結果を神に委ねる謙虚さをなくしてしまった時、人間の暴走が始まるのではないでしょうか。特に小さな集団において、第三者の目が入らないところには、権力の暴走がはじまります。信仰とそのハラスメントのことは今後も取り組まねばならない現代の難問だと思います。