使信 2016.12.25




2016年12月25日降誕節第1主日礼拝使信「主の降誕―光は闇に輝いている」
聖書:ヨハネによる福音書1章1-14節  石井智恵美
                                 
■光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
私たちが人生を生きてゆくとき、人生の道は暗闇と同じように先が見えないということをしばしば経験します。今年は特に、なぜこのようなことがという衝撃を与えられる事件が相次いだ。熊本・大分地震や、東北や北海道の水害、鳥取の地震、世界でもエクアドルの大地震、イタリア中部での地震等、自然災害が相次いだベルギーや、フランスのニース、バングラデッシュ、バクダット、ベルリン、トルコ等世界の大都市でテロ事件が次々に起こりました。難民が世界中であふれ、どのように難民への人道的支援をするのかが国際社会の大きな課題になっています。特に難民が殺到しているEUが限界に達していると言われます。闇としかいいようにない状況の中で、私たちは光を求めます。私たちの心の中に在る闇と光は、常に葛藤を繰り返しています。わたしたちは闇が深ければ深いほど、より強烈に光を感じます。だから闇を闇として感じることは、光をより鮮明に感じるためにも必要なことなのでしょう。もうこれ以上見たくない、と目を閉じてしまうことこそが、むしろ前に進むことを阻むことになるのでしょう。そのような時に、今日のこの言葉は大きな支えになります。「光は闇の中で輝いている。」後半は「闇は光をとらえなかった」「闇は光を阻むことはできなかった」と訳すこともできます。ヨハネ福音書の言葉は、決して闇はなくなることはない、闇と共に光がある、しかし、光は闇に飲み込まれはしない、キリストはそのような方として、この世に来られた、と伝えています。闇は厳然としてある。それでよい。光として来られた方は、この闇につかまれはしなかった。闇と共に、しかし、闇に飲み込まれずに、光である主と共に、光に照らされながら生きてゆく、それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。
■しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(12節)
 イエスをキリストーすなわち自分の救い主として受け入れる人々には、神の子となる資格を与えた、とあります。「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」血筋や家柄や社会的な地位や貧富の差など、一切関係がない、と言い切っています。イエスをキリストと受け入れる人々は、「神によって」生まれたのである、と。本当は神よって創造されたすべての人が、そうなのです。しかし、イエスを信じる人々はより明瞭にその事実が現れます。だからこそ、その事実に立って生きているかどうかを、振り返る必要があるでしょう。私たちキリスト者は何度も立ち止まり、振り返り、「血筋や家柄や社会的な地位や貧富の差など」この世的な名誉、不名誉に振り回されていないか、無意識のうちにそのような価値観に染まっていないか、確認する必要があるでしょう。神によって生まれた人々として、私たちは生きているだろうか、と。まったくの無償で、御子イエス・キリストが私たちに与えられました。その神の憐れみと慈しみを深く味わうのが、クリスマスの時です。
■ 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(14節)
永遠なるキリスト、万物に先立って父なる神と共に万物を創造されたロゴスなるキリストが、小さく無力な赤子として、「肉」となって誕生しました。その神秘を祝うのが、クリスマスの時です。サルクス―肉、と言う言葉は人間の弱さ、もろさ、はかなさを含んだ言葉です。その弱さ、もろさ、はかなさ、の中にこそ、永遠のロゴスなるキリストが宿られたのです。ここで「栄光」と言う言葉は、ギリシャ語で「ドクサ」という言葉。このドクサは、ヘブル語のカヴォ―ドと言う言葉を下じきにしています。ドクサは、栄誉、尊敬といった意味ももっているが、カヴォ―ドのもともとの意味は、「重さ」を表します。社会的な名誉とはもともと関係のない言葉。そこから、尊厳、偉大さ、威光等に訳し得る言葉です。押田成人神父の訳は「やさしい光に満ちた存在の重さ」としている。「栄光」というと、やはり社会的な名誉というニュアンスを含みます。対社会的な関わりではなく、存在そのものの尊厳。それを私たちは見た、とヨハネは語ります。永遠なるロゴスが弱く、もろく、はかない肉に宿られたこと、それこそが「優しい光に満ちた存在の重さ」、神の憐れみと慈しみの尊厳なのです。
今日わたしたちは共に聖餐に与るが、もう一度、イエス・キリストの生涯全体が凝縮されている聖餐を思い起こしましょう。「これが私のからだである」と、パンを裂いて皆の前に差し出しました。パンそのものよりも、パンを裂く、という行為に意味があった、と私は考えます。最後の晩餐で、パンを裂くーそれが私の体だ、と言うことは、自分の身が裂かれる、非業の死を遂げることをイエスは予感し、愛する弟子たちと共にそのことを分かち合ったのです。イエスはしかし、非業の死を恐れてはいましたが、そこから逃げようとしませんでした。たとえパンが裂かれるように自分の体が裂かれても、永遠なる神の愛がそこに燦然と輝いていることをイエスは示しました。人間として恐れはあったはずです。しかし、神の愛と人々への愛ゆえに歩んだ彼の生涯に後悔はなかったでしょう。そのすべてを神は良しとされているという確信があったからこそ、十字架の道を歩み抜くことができたのでしょう。そのような生涯を歩んだイエスの誕生―クリスマスには、光と闇が共にあり、闇の中で光が輝いています。私たちは闇に直面しても恐れることなく、その闇の中でこそ輝いている光を探し求めましょう。そして、闇の中で私たちもまたキリストの光を灯し続けましょう。その力は、クリスマスの主であるイエス・キリストから必ず与えられます。クリスマスの出来事は私たちにそのような希望を告げてくれています。クリスマスおめでとうございます。