使信 2016.12.25




2016年12月25日降誕節第1主日礼拝使信「主の降誕―光は闇に輝いている」
聖書:ヨハネによる福音書1章1-14節  石井智恵美
                                 
■光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
私たちが人生を生きてゆくとき、人生の道は暗闇と同じように先が見えないということをしばしば経験します。今年は特に、なぜこのようなことがという衝撃を与えられる事件が相次いだ。熊本・大分地震や、東北や北海道の水害、鳥取の地震、世界でもエクアドルの大地震、イタリア中部での地震等、自然災害が相次いだベルギーや、フランスのニース、バングラデッシュ、バクダット、ベルリン、トルコ等世界の大都市でテロ事件が次々に起こりました。難民が世界中であふれ、どのように難民への人道的支援をするのかが国際社会の大きな課題になっています。特に難民が殺到しているEUが限界に達していると言われます。闇としかいいようにない状況の中で、私たちは光を求めます。私たちの心の中に在る闇と光は、常に葛藤を繰り返しています。わたしたちは闇が深ければ深いほど、より強烈に光を感じます。だから闇を闇として感じることは、光をより鮮明に感じるためにも必要なことなのでしょう。もうこれ以上見たくない、と目を閉じてしまうことこそが、むしろ前に進むことを阻むことになるのでしょう。そのような時に、今日のこの言葉は大きな支えになります。「光は闇の中で輝いている。」後半は「闇は光をとらえなかった」「闇は光を阻むことはできなかった」と訳すこともできます。ヨハネ福音書の言葉は、決して闇はなくなることはない、闇と共に光がある、しかし、光は闇に飲み込まれはしない、キリストはそのような方として、この世に来られた、と伝えています。闇は厳然としてある。それでよい。光として来られた方は、この闇につかまれはしなかった。闇と共に、しかし、闇に飲み込まれずに、光である主と共に、光に照らされながら生きてゆく、それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。
■しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(12節)
 イエスをキリストーすなわち自分の救い主として受け入れる人々には、神の子となる資格を与えた、とあります。「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」血筋や家柄や社会的な地位や貧富の差など、一切関係がない、と言い切っています。イエスをキリストと受け入れる人々は、「神によって」生まれたのである、と。本当は神よって創造されたすべての人が、そうなのです。しかし、イエスを信じる人々はより明瞭にその事実が現れます。だからこそ、その事実に立って生きているかどうかを、振り返る必要があるでしょう。私たちキリスト者は何度も立ち止まり、振り返り、「血筋や家柄や社会的な地位や貧富の差など」この世的な名誉、不名誉に振り回されていないか、無意識のうちにそのような価値観に染まっていないか、確認する必要があるでしょう。神によって生まれた人々として、私たちは生きているだろうか、と。まったくの無償で、御子イエス・キリストが私たちに与えられました。その神の憐れみと慈しみを深く味わうのが、クリスマスの時です。
■ 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(14節)
永遠なるキリスト、万物に先立って父なる神と共に万物を創造されたロゴスなるキリストが、小さく無力な赤子として、「肉」となって誕生しました。その神秘を祝うのが、クリスマスの時です。サルクス―肉、と言う言葉は人間の弱さ、もろさ、はかなさを含んだ言葉です。その弱さ、もろさ、はかなさ、の中にこそ、永遠のロゴスなるキリストが宿られたのです。ここで「栄光」と言う言葉は、ギリシャ語で「ドクサ」という言葉。このドクサは、ヘブル語のカヴォ―ドと言う言葉を下じきにしています。ドクサは、栄誉、尊敬といった意味ももっているが、カヴォ―ドのもともとの意味は、「重さ」を表します。社会的な名誉とはもともと関係のない言葉。そこから、尊厳、偉大さ、威光等に訳し得る言葉です。押田成人神父の訳は「やさしい光に満ちた存在の重さ」としている。「栄光」というと、やはり社会的な名誉というニュアンスを含みます。対社会的な関わりではなく、存在そのものの尊厳。それを私たちは見た、とヨハネは語ります。永遠なるロゴスが弱く、もろく、はかない肉に宿られたこと、それこそが「優しい光に満ちた存在の重さ」、神の憐れみと慈しみの尊厳なのです。
今日わたしたちは共に聖餐に与るが、もう一度、イエス・キリストの生涯全体が凝縮されている聖餐を思い起こしましょう。「これが私のからだである」と、パンを裂いて皆の前に差し出しました。パンそのものよりも、パンを裂く、という行為に意味があった、と私は考えます。最後の晩餐で、パンを裂くーそれが私の体だ、と言うことは、自分の身が裂かれる、非業の死を遂げることをイエスは予感し、愛する弟子たちと共にそのことを分かち合ったのです。イエスはしかし、非業の死を恐れてはいましたが、そこから逃げようとしませんでした。たとえパンが裂かれるように自分の体が裂かれても、永遠なる神の愛がそこに燦然と輝いていることをイエスは示しました。人間として恐れはあったはずです。しかし、神の愛と人々への愛ゆえに歩んだ彼の生涯に後悔はなかったでしょう。そのすべてを神は良しとされているという確信があったからこそ、十字架の道を歩み抜くことができたのでしょう。そのような生涯を歩んだイエスの誕生―クリスマスには、光と闇が共にあり、闇の中で光が輝いています。私たちは闇に直面しても恐れることなく、その闇の中でこそ輝いている光を探し求めましょう。そして、闇の中で私たちもまたキリストの光を灯し続けましょう。その力は、クリスマスの主であるイエス・キリストから必ず与えられます。クリスマスの出来事は私たちにそのような希望を告げてくれています。クリスマスおめでとうございます。

使信 2016.11.06


<2016年11月6日降誕前第7主日礼拝使信「神の民の選び」>
聖書:創世記13章1節―18節 石井智恵美

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/私が示す地に
行きなさい。/私はあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高
める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪
う者をわたしは呪う。/地上のすべての氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。(創世記12:1-4)


                                             【永眠者記念礼拝の写真】

■かけがえのない人からの励まし

本日は永眠者記念礼拝です。
天に召された兄弟姉妹のことを思い起こす時は、一つ一つの具体的な出来事を思い起こします。私たちがその人々との関わりの中で、豊かにされ、助けられ、教えられたことを思い出し、心が温かくなり、また悲しみに満たされます。
それはその人を心から愛していたしるしです。その人のかけがえのなさは、何によっても埋めることができないのですから。心から愛していたその人々のその生き方から、今いのちを与えられている私たちは、よりよく生きることへと励ましを受けます。そのことを思い起こすために、私たちは今日、ここに集まりました。
それぞれの人生の中で、神がその人に呼び掛けた出来事が必ずあったはずです。信仰の父・アブラハムに神が呼び掛けたように、その人その人に固有の呼びかけがあったはずです。アブラハムの生き方を思う時に、聖なるもの、真実なるもの、混じりけのない純粋なもの、と私たちはどれほど出会っているか、そして、それに従って生きているか、また、神から与えられた命を、十分に輝かせて生きているか、自分と隣人を生かすために本当に用いているかどうか、あらためて問われます。逆に、与えられた神の命をゆがめたり、嘘をついたり、曲がった方へと進んでいないか、問われています。

■亡き人と出会い直す

天に送った兄弟姉妹との様々な思い出を携えて、皆さまはここに集まったことでしょう。後悔の思いをも持たれている方もいるかもしれません。あの時なぜもっと優しい言葉をかけられなかったのか、どうして、傷つけてしまったのだろうか、と。でも幸せな思い出、美しい思い出も多々あることでしょう。後悔の思いは、神様に託して、赦してくださいと祈り、また、幸せな思い出にはそれが与えられたことに感謝をして祈りましょう。
そのような故人との対話の中で、私たちは与えられた人生の時をよりよく生きてゆくように成熟させられてゆきます。折々の故人との対話の中で、ああ、あの時の出来事はこういうことだったのか、と故人と出会い直します。そこにまた、人生のだいご味があります。そして、今、私たちに与えられているいのちが、奇跡のようなものだと知らされます。
神がアブラハムを選び、祝福したように、私たち一人一人に神の選びがあり、祝福がある。一人一人に託された神からの使命があります。生きている限り、それが一体何かと問い続け、自分の思いではなく、神の御旨がなるように、とそこへ向かって一歩一歩、歩んでゆきます、すると、その人だけの美しい軌跡が、記されているのが私たちの人生ではないでしょうか。人生はわたしたちの思いを越えています。そこにこそ神の恵みがある。
そのことを信じることができる人は、苦難の中にあっても強くなれます。

■亡き人のまなざしが導く

いのちは「意味」を越えています。人間の側からの意味付けなどを越えて、私たちに与えられているものです。人生を生きることは決してきれいごとではありませんが、醜さ、
弱さ、みじめさをもすべて含めて、いのちです。
時にきらめくような美しさも輝かせるいのちです。
イエス・キリストはすべての人のために死なれました。それはすべての人を生かすために死んだということです。そして復活なさった。信仰者の歩みは、すべての人を愛されたイエスの生き方に従ってゆくものです。今日、永眠者記念礼拝の時、天に召された兄弟姉妹のまなざしが、生きているわたしたちに注がれています。そのまなざしがまた、わたしたちをより良い生へと導いてくれています。生前の交わりを心より感謝し、その思いを祈りと共に神へ捧げましょう。

使信 2016.10.16

<2016年10月16日使信「目標をめざしてひたすらに」>
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章7-21節 石井智恵美

「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけ
   でもありません。なんとかして捉えようとして努めているのです」(フィリピ3:12)

【寄贈された最後の晩餐の木彫り像】


わたしは、洗礼を受けた高校生の時に、「救われた私たちは」という牧師の言葉が嫌いでした。洗礼を受けていない人も、やはり神様の愛されている一人であり、洗礼を受けた私と何も変わらないではないか、と思っていたからです。そのような時にパウロの言葉「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。なんとかして捉えようとして努めているのです」に出会い、心底ほっとしました。パウロですらそうでした。信仰を持たない人々と同じように、不完全な人間である、ということを良しとしているのです。そのうえで「なんとか捉えようとして努めている」と、常に途上にある人間であることを、パウロは告白しています。そして、その理由は「キリストに捕らえられているから」なのです。当時のフィリピの教会の中にいたパウロの反対者たちのスローガンは、「わたしたちは既に完全な者になっている」というものでした。パウロの反対者たちは、ユダヤ主義的キリスト者たちで、律法を守ることによって自分たちは完全な者になっており、既にキリストの栄光に与っている、と主張していたようです。十字架の苦しみと恥には思いをいたさなかったのです。そこが、パウロの理解とは正反対でした。パウロにとっては十字架の苦しみと恥のただ中にこそ、神の恵みが満ち溢れていたからです。
先日、ノーベル文学賞を受けたアメリカのシンガー・ソング・ライター、ボブ・デイランが、一躍有名になった曲「風に吹かれて」の一節を紹介します。
「どれだけ道を歩けばいいのか?一人前の男と呼ばれるまで。/ いくつの海を白い鳩はわたらなければならないのか?砂浜で安らぐまで。/ 何回砲弾が飛ばねばならないのか?武器が永久に禁じられるまで。
その答えは友よ、風に舞っている、答えは風に舞っている」
三番では「何回見あげれば、空は見えるのか?/いくつ耳を持てば民の嘆きは聞こえるのか?/何人死ねば、あまりに多くの人が死にすぎたとわかるのか?」と歌われる。「その答えは友よ、風に舞っている、答えは風に舞っている」
われわれには、耳に心よい平和ソングに聞こえますが、1960年代から70年の学生変革の時代、特にアメリカの激しい公民権運動の中で盛んに歌われたプロテストソングです。デイランが歌った、時代を超えた人々のやるせない嘆き、変えたいと人々が願いながら変わらない壁のような現実に向き合いながら、デイランは安直な答えを拒否しています。「その答えは友よ、風に舞っている、答えは風に舞っている」と。
パウロが語った「わたしは既にそれを得ているのではない、何とかして捉えようとして努めているのです」という言葉と重なっているように思います。パウロは、人々に問いかけて、それぞれが苦しみながら答えを出すように促しています。既成の誰かが考えた耳に心地よい安直な答えにとびつくな、と呼び掛けているようです。
世界的に右傾化が進んでいる今だからこそノーベル賞委員会はボブ・デイランの詩が与えた影響をあえて評価したのだろうか、と思えてきます。
歴史の中で、パウロの語るように多くの人たちが、「すでに完全な者になっているわけはない、捕らえようと努めている」とまだ見ぬ結果を求め、信仰の道を走ってきました。途上にあるということは、まだ見ぬより完全なものを求めるということであり、生きる限り私たちは途上にある、と言えます。私たちもまたその道に連なり、最善を尽くして、結果は神にゆだねてまいりたい。神の御旨は人の志によって媒介されます。そのような神の御旨の道具となれれば幸いです。

使信 2016.09.04

<2016年9月4日使信「神の僕として生きる」>
聖書:ペテロの手紙1 2章11-25節 石井智恵美
【大分県立殉教者記念公園の記念碑のレリーフ】


■13節 主のために、すべての人間の立てた制度に従いなさい。

それが統治者としての皇帝であろうと、あるいは悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために皇帝が派遣した総督であろうと服従しなさい。 今日の聖書の箇所は、現代のわれわれには難しい箇所です。たとえどのような権威でも、政治的な権威にしたがいなさい、というペテロの手紙です。これを、どう読んでゆくかが信仰者に問われています。
政治的な権威には従いなさい、という勧めを私たちはどう読めばいいのでしょうか。この時代、多くの人々は終末がすぐにもやってくることを信じていました。ペテロは、私たちはこの世においては「仮住まい」の者、「旅人」である、と記しています。
ペテロも、この世のことは仮の出来事、という理解の上で、政治的な権威には従え、と勧めているのです。しかし、悪法に従う必要があるのだろうか、と現代人の私たちはやはり考えます。政治的な支配者の判断が必ずしも正しいとは限りません。だからこそ民意を示すことが重要なのです。もちろん民意が正しいとも限らない。しかし権力は必ず腐敗するから、権威は疑ってかかれ、ということを、2000年の歴史の中で人類は学んだのではないのでしょうか。多く血が流され、その結果、現在、個人の信教の自由が憲法で保障されています。だから私たちは13節のすべての人間の立てた制度に従いなさいという言葉を、聖書の言葉だからと絶対化することはできません。しかし、ここは日常的な迫害の状態にあったキリスト教徒たちに語り掛けている言葉であるという文脈を忘れてはならない、と思います。当時の教会の指導者たちは、決して安楽な場所にいて、つまり迫害をする者たちを肯定してこの言葉を発しているのではない、ということなのです。同じ苦しみを味わいながら、汗を流しながら、涙を流しながら、この言葉を書き送っていると推定できるのです。
私は夏期休暇に熊本大分の旅をし、大分県立の殉教記念公園を訪ねることができました。1619年にキリシタン禁教令が出され、その後1659年に豊後崩れというキリシタンの迫害が起こり、一説では約1000人ものキリシタンが殺され、この殉教記念公園の周辺の葛木では、約200人の老若男女が殉教したといわれています。日本という土地で、実際にキリスト教の迫害が起こった場に立つことで、「私もその中の一人だったかもしれない」と思い、犠牲になった方々の無念の思い、迫害の中で信仰を全うした強さなどなど、さまざまなことを感じることができました。
政治的な権威と信仰が対立する場合が、歴史の中でしばしば起こりました。その時に、私たちはどうするのでしょうか。聖書の中には、旧約に伝えられる預言者の存在があり、彼らは神に命じられて、腐敗した権力を批判する活動をつづけました。イエスの活動もここに連なっています。(しかし、)このペテロの手紙の言葉も、当時迫害を耐え忍んでいたキリスト教徒たちへ書かれた具体的な勧告です。彼(手紙の著者)もまた迫害に直面しながら、苦しみを共にしながら、この言葉を悲痛な思いで書き送っているのです。志を同じくする仲間たちに、悔しい思いを共有しながら、いたずらに権威に歯向かって死に急いではいけないといさめているのかもしれません。いのちを大事にしなさいといっているのかもしれません。殉教するにもときがあるといっているのかもしれません。
私たちにも、具体的な苦しみに直面するとき、この言葉の意味が開かれてくるのではないでしょうか。その時、今日の聖書の箇所が示すように、「旅人」「仮住まいの者」として生きているということ、であるからこそ、私たちは、永遠なるものに目をとめて生きること、神によって自由にされたものとして、神の僕として生きることを、心に刻みたいと思います。

使信 2016.08.14


<2016年8月14日使信「わたしもあなたを罪に定めない」>
聖書:ヨハネ福音書8章3節-11節- 石井智恵美

今日の聖書の中に出てくる「姦淫の女」は、いわばアウト・サイダーの女です。          
古代ユダヤの父権制社会の中、彼女は、家父長によってコントロールされている性的秩序を乱す者として、

社会の外側に位置づけられています。彼女は石打ちの刑に処せられてもおかしくない者として、
イエスの前に引き出されてきます。

【泥の池に咲く睡蓮の花】


■ 姦淫の女が引き出されてくる              
                                                                                  

この場面を想像してみましょう。早朝のすがすがしい空気に満ちた神殿の境内で、イエスを慕って集ってきた民衆に
イエスが神の言葉を語り伝えています。そこに、あられもない姿をした女が連れてこられます。
姦通の現場でとらえられたというのですから、ろくに服も身に着けていなかったはずです。一緒にいたはずの男は罪に
問われることもなくいなくなっています。女は人妻ではなかったでしょう。もしそうならその夫によって殺されていたはずです。守ってくれるべき男のいない寡婦あるいは、身を売らざるえない女であったかもしれません。いずれにしても金持ちの貴婦人などではなく、家父長制の社会の中で、生きてゆくのが過酷な女であったはずです。
女は言葉もなく引き出されてきます。そのような女の状況は一切描写されることなく、ただ訴えるファイリサイ派と律法学者の男たちの声が響くのです。
「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せ、とモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。」(4-5節)
イエスを試して訴える口実を得るためにこう言ったのである。

■ファリサイ派のたくらみ

ファリサイ派の人々が義憤にかられてこのような行為をしたのならまだ許せますが、ここでやりきれないのは、イエスを陥れる口実としてこの女を使ったことです。イエスが石打ちの刑を肯定するならば、民衆は愛を説くイエスの生き方はなんだったのか、と失望するでしょう。しかし、石打ちの刑を否定するなら、律法、しかも十戒の中に入った戒めを否定することになり、イエス自身が石打ちの刑となります。イエスは窮地に陥れられます。そのように仕組まれた問答でした。そこのことに、正当化もできない弁明もできない女が利用されるのです。人間のこの底意地の悪さ、罪の深さをまざまざと、彼らの姿からみせつけられます。

■イエスの奇妙な態度は?

イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。(6節b)
このイエスの行為も不思議です。窮地に落ち込んで、どう答えるかを考える時間を取ったのでしょうか。困ってしまった子どもが、しゃがみこんで、どうしていいかわからないようなときにする行為を思い出しもします。

しかし、ここは、イエスの優しさではないでしょうか。あられもない姿をした女が真ん中に立たされて、ファイリサイ派はイエスに問答をふっかけています。みんなの注目は女に集まっていたことでしょう。イエスはしゃがみこみ、その女から目をそらしました。
また、民衆たちの視線をもイエスにひきつけて、女を見ないように促したのではないでしょうか。イエスは地面にものを書きつけながら、ファイリサイ派の人々が、自分たちの非を悟るのを待っていたのかもしれません。こんな恥ずかしいことを、神の前にこんな恥ずかしいことをどうしてできるのか、この女を憐れに思わないのか、地面を見つめながら怒りと悲しみでイエスはいっぱいだったはずです
しかし、彼らがしつこく問続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた身をかがめて地面に書き続けられた。(7-8節)

■イエスの返答

イエスは、決定的な発言をします。しかし、これは彼らの問答への答えではないのです。さあ、どうだ、お前たちはどうするのだ、と答えを迫っているのではりません。そうだとしたら、仁王立ちになって、ファリサイ派の人々をにらみつけていたかもしれません。しかし、そうではありません。イエスは、また、身をかがめて地面に書き続けられた、とあります。「私はこの女に石を投げ打たない」とその姿で示しました。そして、皆の注目を女からそらし続けました。これはあなたがたの問題だ、私のあずかり知らないことだ、と彼らに問いを投げ返したのです。ファイリサイ派の周到に張られた罠を、イエスは見事に抜け出しました。それは、ただこの女を一人の人間として尊重する、との姿勢から生まれたものでした。ファリサイ派の人々の最後の誠意を信じたといえるかもしれません。
あなたもまた神に愛されている一人だ、ということが、このイエスの行為から伝わってくるではありませんか。そして、イエスの発言から、わたしたちもまた気づきます。神にゆるされていなければ存在しえないのが、私たち人間であることを。そのように神にゆるされていながら、どうして隣人を裁けるのか、ましてや人を陥れるために人を道具として使うことができるのか、神の深い憐みを思うなら、そんなことはできないはずだ、とイエスは無言のうちにその行為によって示したのです。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残った。(9節)
イエスを訴える口実を造ろうとたくらんでいた人々にも良心があったのです。一人、また一人と去っていた。年長者から立ち去って、とあります。家父長制社会では年長の男性が敬われます。彼らが立ち去っては意気盛んな若い者たちも従わずにはおれなかったでしょう。たとえ若気の至りで自分には罪などないと思ったとしても

■姦淫の女とイエス

イエスは身を起こして言われた。婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)

イエスがこのような場面に行き着かねばならなかった女の苦しみの深さを十分に受け止めたからこそ、このような言葉を発することができたのでしょう。
女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)
女が「主よ、だれも」と答えた時、女の世界は一変していました。恥ずかしさと絶望と死の恐怖からいっぺんに解放され、彼女はもう一度生かされました。死をくぐって命を与えられました。それは、イエスという一人の人が女の苦しみを受け止め、極みまで大切にすることによってでした。ファリサイ派という敵は立ち去り、女はただ、イエスの慈しみを通じて、自分もまた神に愛されている神の子であることに立ち返っていました。生きることの意味を取り戻していました。愛し愛される存在として生きることにこそ、人間の生きる意味があることを彼女はイエスを通して体験したのでした。「主よ」と女はイエスに呼びかけます。自分の命の恩人として。肉体の命だけでなく、魂を救ってくれた恩人として。これほどの決定的な至福の瞬間を味わう人はそう多くないでしょう。だからこそこの物語は語り継がれてきたのでしょう。

■神の赦しのもとにある私たち

彼女が姦淫の罪を犯したことを、ないことにする、とイエスは語っていません。有罪とはしない、裁くことができるのは神のみ、とイエスは語りかけます。「これからはもう罪を犯してはならない」ということも同時に女に告げます。イエスはもちろん、姦淫を肯定しているわけではありません。しかし何を一番大切にするか、それをイエスは示したのです。今、ここに生きている命をこそ、一切の差別を越えて大切したのです。もしかしたら、石打ちの刑にあって殺されていたかもしれない場面で、イエスは人として何が一番大切なことを示しました。そして、それは女に確実に伝わったのです。女の世界は一変しました。曇りのない目で人を見、曇りのない目に人を判断する。これはなかなかできることではありません。罪ではなく、その人の苦しみに悲しみに目をとめる。これもまた難しいことです。そして、共に生きてゆく道を探ってゆく。これも同じく難しいことです。しかし、イエスが私たちに示しているのはそのような態度です。神の慈しみの留まるならば、そのことは可能である、と今日の聖書の箇所は、私たちに語りかけています。

使信 2016.07.31


<2016年7月31日使信「愛―神から生まれた者の掟」>
聖書:ヨハネの手紙Ⅰ5章1節-5節石井智恵美

このことから明らかなように、私たちが神を愛し、その掟を守る
ときはいつも、神の子供たちを愛します。(ヨハネの手紙Ⅰ 5章2節)

【夏の花】


先週、衝撃的な事件、相模原での重度障がい者施設で障がいを持った 19人が犠牲となった事件が起こりました。多くの人が受け止めかねています。障がいを持った人への憎悪、あるいは「優性思想」-優れたものは生き残り、劣ったものは淘汰されるべきという思想―による殺人の正当化、これが実際に私たちの生きる場所で起こってしまいました。このような悪に対して、私たちはどのように立ち向かい、何を基準に判断をしてゆけばよいでしょうか。本日の聖書個所には「悪の世に打ち勝つ信仰」との小見出しがあります。「悪の世に打ち勝つ信仰」を、共に聖書の言葉から考えてみたいと思います。

■格差社会の生んだ歪み

相模原の事件の容疑者は「重度障がい者は安楽死させた方がいい」と語ったといいます。誰が生きる価値があり、誰にないか、そんなことを決めることができるのは誰なのですか。すべての命に尊厳があります、だからこそ、社会福祉の働きが障がいを負った人、病を負った人々を援助する、そのことを現代に生きる私たちは選んできています。だいいち、誰がいつそのような立場になるかわからないのですから、これらの制度は私たち自身を守るものです。しかし、競争社会の中で、すべての命が尊いという価値観は、持ちにくくなっているのかもしれません。業績をあげ実力を示せる優秀な者だけが尊重され、そうでない人は、価値の低い人に位置づけられるという、格差社会は古代からあります。現在では。人の価値はみな等しいという価値観は共有されています。しかし、真の意味でこの価値観を共有することは骨が折れます。難しいのです。むしろ、これを否定する方が、正義のように思える、そんな歪みをもった時代の中で起こったのが、今回の事件であると思えるのです。その代表は、ヒトラーですが、自分とは異なる世界にいると信じる他者の抹殺、ユダヤ人、障がい者、社会主義者、同性愛者などのホロコースト(大量虐殺)を彼は実行しました。「抹殺してよい命だから抹殺する」それは、2重の意味での人間の否定です。その人のかけがえのない価値を否定するだけではなく、自分中心の価値観によって他者の生物としての命をも奪ってしまうのです。

■ホロコーストにつながる闇

しかし、その犯罪の原因を、犯人の特殊な心のゆがみにだけ求めてよいのでしょうか。ナチスのホロコーストにつながる人間の中に巣くう恐ろしい闇であると思います。人間はそういうことができてしまうのです。私の尊敬する恩師がアウシュビッツを訪れた時に、そのあまりの惨状にショックを受けながら、心の最も深い所で「あ、私ならやるな」と思ったそうです。自分が他者をガス室送りにする、というのではなく、他者のガス室送りを命じられたら、いやいやながらでもその状況の中では、命令にしたがってしまうだろう、という意味です。私たちはそのことを普段どこまで自覚しているでしょうか。心の奥底にそのような深い悪を抱えているのが人間という存在であることにどこまで自覚的であるでしょうか。そのことを今回の事件であらためて突きつけられた気がしています。他者の抹殺という根源悪が私たちの中に巣くっている。そのことを自覚している人は、たやすく悪の暴走には巻き込まれないでしょう。そのことがまた、問われていると感じました。

■最首悟さんのインタビュー

最首悟さん(和光大学名誉教授)のインタビューを東京新聞の特集記事で読みました。かつて東大全共闘時代に助手として真摯に全共闘運動を担った人です。現在は重度の障がいを持つ娘の星子さんの親として、障がいを持った人たちの居場所つくりをしています。星子さんは「あー」と発声しますが、言葉を話せず、8歳で視力も失ったそうです。食事も自分では噛むことができずに丸のみで、もちろん排せつの始末も一人ではできません。「植木鉢の花と同じで2日も世話をしないと死んでしまう。夫婦で旅行もできない」「この子が死んだら、どんなに楽になるかと思うことがある。だが、命のついて考えを深めてこられたのは、この子のおかげだと感謝している自分もいる。その両方は離せない。」「ただ、この子がいなければと思っても、殺すという一線は越えられない。それは『命は地球より重い』からではない。命には、他の命を食べる残酷さもある。結局、命はわからないし、手に負えないもの。『いのちはいのち』でしかない。そんな事実がうめき続ける自分をとどめている」と語っておられました。

■「いのちはわからないし、手に負えないもの」

「結局、命はわからないし、手に負えないもの」このいのちへの示唆、表現には、障がいを持った星子さんに向き合う中で生まれてきたかけがえいのない重さがあります。この自覚が、私たちにどれだけ実感としてあるでしょうか。遺伝子操作や、代理母出産などの出現で、現代人はどこかで、命はわかりえる、操作しえるもの、という傲慢を育てていないでしょうか。あるいは、ゲームの仮想現実と現実の区別がつかなくなっている恐ろしさと私たちは隣合わせです。いのちはわからないし、手に負えない、だからこそ、かけがえがない、という畏怖の感覚を、私たちは知らずに生きているのではないでしょうか。いのちをわからないままに受け止めて、共に生きてゆく、神から与えられたものとして。イエスの中にあったのは、そのような命への連帯ではなかったでしょうか。同時代の、特に病んだ人、貧しい人、疎外された人々のところにおもむいて共に生きようとしたイエス。インマヌエルー神はわれらと共にいますーこのことを、伝え続けたそのイエスを、キリストと信じる人は、「神から生まれた者」である、と今日の聖書は告げているのです。そしてその神から生まれた者の掟は、愛なのです。

■「悪の世に勝つ信仰」

悪の世に打ち勝つ信仰―信仰は、イエスをキリストとして信じる、ということだけを言っているのではありません。私たちが今、神から与えられているいのちを、わからないままにも受け止めて、それを精一杯生きているか、という信仰の内実のことです。そのシン
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プルな生きる姿勢こそが、私たちの中に巣くう根源悪を食い止めるものではないでしょうか。ご飯を食べ、からだを動かし、自然の恵みを感じ、家族や友人と親しく交わり、疲れたら眠るーそのシンプルな繰り返しの中に、宿っている神の働き。そのことに感謝するときに、わたしたちは無限の力に包まれます。神の愛が私たちに注がれて、わたしたちを生かし続けていることが分かるからです。神が共にいますことを、具体的な生き方で示し続けたイエスをキリスト(救い主)として生きてゆくなら、私たちは愛の業を行うようにうながされます。神の掟は難しいものではない、と今日の聖書が語っているように、イエス・キリストの生き方を見習ってゆけばよいのです。キリストはすでにこの世に打ち勝たれた。だから、わたしたちも安心して、キリストにおいて愛の業を行ってゆけばよいのです。

■愛という力に立ち帰る

あまりにも痛ましい事件に、犠牲者を思う悲しみは消えませんが、このような出来事を二度と許さない、そのためには、憎しみではなく、キリストが示した愛に立ち帰ること、私たちの中に神様から与えられた愛という力があること、そこに立ち帰ること、そこから始めたいと願います。悪の世に打ち勝つ信仰を与えたまえ、と祈りながら。犠牲となった方々のため、悲しみの内にあるご家族、関係者の方々のために祈りを捧げます。また、容疑者の回心のためにも心から祈ります。

使信 2016.05.15


2016年5月15日聖霊降臨節第1主日まぶね教会創立50周年記念礼拝Ⅰ
使信「聖霊の息吹を受けて」聖書:使徒言行録2章1-11節
石井智恵美

ペンテコステおめでとうございます。
そしてまぶね教会創立50周年おめでとうございます。

■一枚の写真

先週、Uさんの転入受け入れのために、現住陪餐会員名簿を整理していたら、表紙の次のページに掲げられた写真が目に留まりました。この写真は、撮影者が誰なのか、いつ撮影されたかもわかりません。これは初代牧師の善野先生が並々ならぬ決意をもって、ここに掲げたのだろう、と想像しました。今日、創立50周年の記念礼拝で皆様に紹介するのがふさわしいと考えました。林を背にした会堂の十字架の正面に、若竹が高い空に向かってすっくと伸びており、まるで、これからのまぶね教会の前途を象徴するかのような若々しい希望に満ちた写真です。この若竹のように地域に根差して、のびのびと枝を張る教会。その最初の貴重な若い枝が、今、この地で育っているのだ、とも読み取れる写真です。そしてこの若竹は、教会の会堂ではなく、天を指しています。天こそが、主人公。教会とは、イエス・キリストがそうであったように、神の国を指し示すもの、そのような者たちの集まりという心意気が伝わってくるような写真です。写真の下に善野先生の文字で、「日本基督教団まぶね教会 創立1961・1・17 城南ヨハネ伝道所と称す、献堂 1966・6・12 まぶね伝道所と改名」とあります。これが、まぶね教会の原点なのだ、と心が熱くなりました。善野先生の開拓伝道にかける希望と夢と覚悟が伝わってくる写真です。

■まぶね教会の歩みの中で

私がまぶね教会に赴任して6年がすぎましたが、教会創立50周年の節目に、こうして牧師としてメッセージを語る栄誉と責任を与えられたことを、光栄に思うと同時に、大きな責任もまた感じている。もうすぐ出来上がる記念誌の原稿を読んでも、まぶね教会の50年の歩みが、どれだけ恵みに満ちたものだったか、皆が真剣に神の前に自分の生き方を探り、イエスに従ってゆく歩みを歩んでこられたかを実感することができました。また、教会の中で困難が多々あっても、ひとつひとつ乗り越えることのできる助けと力をいかに与えられてきたか、を知ることができ、まぶね教会に与えられた神の導きと祝福にまず、感謝したいと思います。教会の見える歩みも、また、隠された見えない歩みも含めて、すべてが祝福されてきたことを感謝したいと思います。その歩みの中で過ちも、誤解もあったかもしれません。それらを神の前に許しを乞い、傷ついた人々の心が癒されるように祈りつつ、イエス・キリストに従って神の国を指し召す群れとして、これからも歩み続ける覚悟の内に、今日の記念礼拝を共に祝いたいと思います。

■聖霊降臨の出来事

今日、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事は、教会の誕生の時、と言われます。
教会の原点はこのペンテコステの出来事にありました。キリストの昇天の後も、キリストの約束を信じ、ひとつとなって共同体を形成していた群れ。一つとなって祈っていた群れが聖霊の息吹を受けて、聖霊に満たされて、驚くべき奇跡が行われました。それが初代教会の始まりだったのです。まぶね教会の決して平坦でなかった50年の歩みは、常に、この聖霊の息吹に導かれたからこそ、今日まで歩んでこれたのではないでしょうか。聖霊は常に新たに物事を造り替えます。そこには、神の創造の業が常に働いているからです。この聖霊を受けて、私たちもまた50周年という節目の年にさらに新たにされて、新たな50年をさらに歩んでゆく力と勇気が与えられることを願う。それは「まぶね」の名に示されるように、この世の中で「居場所」のなかったマリアとヨセフと赤子のイエスを受け入れたように、私たちの教会が常にイエス・キリストの生き方にならい、居場所のない人々の居場所となる教会であることを通して、そして、聖霊の息吹を受けるために、自分の独りよがりな思いを手放して、神の前に空っぽになることを通して、神の御業が働く教会となってゆくでしょう。そして異なっているからこそ、対話を深めて互いに受け入れあう群れとなること。その原点に立ち返ることを、今日、ペンテコステの記念の日に、心に刻みたいと思います。さらなる50年を目指して、今日この日から、歩みだしましょう。

二つの世界祈祷日礼拝

 3月4日は世界全体で、女性たちが中心となって世界祈祷日が行われる日。川崎鶴見地区婦人委員会主催の世界祈祷日に、今年も参加してきました。まぶね教会からは地区婦人会担当役員のKさんが実行委員会に出て準備を進めてくれていました。今年のテーマは「こどもたちを受け入れなさい、そしてわたしも」、テーマの国はキューバでした。あらかじめ、キューバの国花であるマリポーサの花の形に切り抜いた白い紙に、各教会ができることを書いてくることになっていました。その紙をボードに張って各教会の決意が、紹介されました。各教会の女性たちが、プログラムの朗読を受け持ち、キューバという国の豊かさと、直面している問題の大きさとに思いをはせました。今年のテーマにそって、T牧師が大変わかりやすく考えさせられるメッセージを語ってくださいました。日本社会の中の見えにくい世代間差別や、母親を取り巻く状況の変化の中でイエスの使信をどう聞くのかについて。12教会74名の参加で地区の女性たちが共に集うことで大いに励まされました。

 夕方は、五反田にあるドイツ語福音教会で行われた世界祈祷日の集まりに初めて参加してきました。平日でないとなかなか他の教会は訪ねられないので、良い機会と思い参加しました。ドイツ語福音教会は静かな住宅地にあり、会堂は和のテイストを生かした障子のような和紙と木を組み合わせた正面の壁に十字架が掲げられていました。入口をはいるとまず係の方が胡蝶蘭の花を胸元にかざってくれました。家族的な雰囲気で、全体で14名の参加でした。半円形に置かれた椅子の中央の床に木の十字架を置き、たくさんの丸いろうそくが平置きにされて、受難の象徴である赤い布が置かれていました。そこに、聖書、ろうそく、マリンバなどが、朗読と共に順番に置かれてゆきました。式文の内容は日本語のものとほぼ同じですが、プラスして中南米の讃美歌が多くはいっていました。また伴奏のCDが準備されていて讃美歌を歌う度にかけられました。ドイツ教会の世界祈祷日の準備の周到さに改めて驚きました。主任牧師は女性で親しみやすい雰囲気の方でした。牧師がキューバの現状を詳しく伝えてくれ、その後一人ひとりが決意のメッセージを書きました。

終わって別室で皆が持ち寄ってきたキューバの料理をいただきました。様々な種類のお豆の入ったスパイスのきいたリゾット、鶏肉と野菜のスパイシーな煮物、野菜スープ、サラダにフルーツにケーキ。全部食べきれませんでした。このドイツ語教会は30家族がメンバーだとのこと。規模としては100-120名位になるのでしょうか。カトリックのシスターも参加しておられ、普段からエキュメニカル(超教派)活動を大切にしていることが伝わってきました。親密でオープンな雰囲気での女性たちの祈りの集いもまた良いものでした。 

追悼:Y・Sさん「生きるにも死ぬにも」

 2月3日に私たちの愛する姉妹であるY・Sさんが入院先の病院で肝硬変のため天に召されました。享年87歳でした。「さて、わたしの人生も大詰めに近づいてきました。最後はあまりみっともないことにならないように(孫の手前もあり)と願うことですが、こればかりは自分の思い通りになるものでもなく、ただただ恵みによることなので、祈るよりほかありません。「これまでのように今も生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピ1:20)と心から祈れるものでありたいと思います」(Y・S「クリスチャンらしく?」『まぶね便り』第4号 2010年10月発行 )

 ここから、今日の聖書の言葉を選ばせていただきました。Sさんが、心からの祈りとして願った言葉。これは、使徒パウロが迫害によって捉えられ獄中にあった時に、書き送った手紙にある言葉です。「生きるにも死ぬにも」という言葉、裁判の判決によっては死ぬこともありえる、そのような状況の中で、私の身によってキリストがあがめられるように、と願っているのです。キリストはその十字架と復活によって、すべての人を神の恵みのもとに呼び集めてくれるお方。その方こそがあがめられるように、と。

 2010年のまぶね便りで、今から6年前のSさんの言葉です。Sさんの最後の胸の中には、この祈りはあったでしょうか。この祈りが祈られていたでしょうか。人は生きたように死んでゆく、と言われます。Sさんが、自分を欠点も認めつつ、それらすべてを含めてクリスチャンらしくない自分を反省しつつ、でもこのように私は生きていますよ、とちゃめっけたっぷりに記しておられるまぶね便りでの文章を読むと、大らかに喜びを持って信仰生活を送っておられたSさんが浮かび上がってきます。そう、そのままでいいよ、神様はすべての人を恵みの内へと、キリストを通じて呼んでおられるのだから、しゃちほこばってクリスチャンらしくあろうとしてなくてもいいですよと、呼びかけておられるような気がします。あなたの中にキリストの愛があれば、それでいい、と呼びかけてくださっている気がします。素晴らしい信仰の先達をまた一人天に送りました。地上での別れは悲しいことですが、天国への凱旋を果たしたSさんを、今日心からほめたたえたいと思います。また、そのようにSさんの生涯を導いてくださった神に心から感謝を捧げます。