映画『楽園からの旅人』を見て②

 先々週に書いたまぶね日誌No.147のエッセイの最後の一文について「これは不用意な表現だから削除してほしい」とのコメントが教会員の方から寄せられました。「これは『まぶね』の映画です」という一文です。確かに字数が限られている中で展開不足の言葉でしたので、最後の一文を削除することに同意しホームページの牧師のブログからも削除しました。
そこで「これは『まぶね』の映画です」以下、字数があったら展開したかったことをここで書かせてください。「まぶね」教会が、泊まる場所のなかったヨセフとマリアの子・赤子のイエスを受け入れた飼葉桶(まぶね)にちなんで、この世の最も小さくされた人々を受け入れる教会で在りたい、と願って命名されたとのこと、まぶね教会の教会誌で初めて読んだ時に心から感動しました。教会はそういう場所でありたい、と。そして映画『楽園からの旅人』で老司祭は教会が閉鎖されたその晩にやってきたアフリカからの難民たちを受け入れ、まさにこの世で最も小さくされている人々を受け入れ、「まぶね」となった新しい教会が生まれるのです。そのような心ある人々の群れになるよう、私達の原点を指し示してくれる映画でした。
 この映画は司祭の物語でもあります。難民たちを通報せずに、こっそり町の医者を呼び診療してもらう老司祭。「あなたには初めて会うが…」というと、「ええ、私は無神論者ですから教会に来たことはありません」この医者はユダヤ人で強制収容所で信仰は捨てた、と告白します。2度目にこの医者が体調を崩した老司祭を訪れた時に、老司祭は若い頃の話を始めます。自分の内に熱い恋の思いがあったこと、それを何とかくぐり抜けたその苦しさをまるで告白のように語るのです、無神論者の医者の前に。そのような体験をくぐり抜けて司祭たることを、神の前に守り抜いてきたのに、晩年は教会を閉鎖され、病と孤独の中にいる老司祭。医者は黙って聞いている。その傾聴によって誰からも見捨てられているような老司祭の孤独につかのま安らぎが与えられます。難民の子供たちの天使のような瞳。赤子の誕生。まったく思いがけないところから神の恵みが与えられる。オルミ監督のこれも信仰理解でしょう。孤独に見捨てられた十字架上のイエスと老司祭の孤独が重なります。まさにその見捨てられたような孤独の中にこそ、神の恵みが働くのだ、と。今週、イタリアを目指していたアフリカからの難民の船が難破して300人以上の犠牲者が出たことが大きく報道されていました。世界の苦しみは終わらない。だからこそ神の深い慈しみも終わらない。そのことを信じ、祈り、行動したいと思います。