No.121 <たまにはちゃんと話そう>

 先週の日曜日、ぎっくり腰も治りきっていなかったのですが、「たまチャン倶楽部」という、いつかこの欄でもご紹介したコミュ二テイ・カフェ「たまりばーる」の集まりにいってきました。これは「たまには、ちゃんと話そう」の略で、ふたを開けてみるまでどんな人がやってくるかわからないのですが、コミュ二テイや地域の夢を話し合う場として設けられたプログラムです。昨年の3・11以来、地域でのつながりや新しいビジョンということが、ずっと気になっています。原発事故を起こした大量消費社会の在り方が、転換点に来ているという思いがずっとあって、そのヒントとなるものをアンテナを張って捜してきました。そのアンテナに引っかかったのが、たまチャン倶楽部でした。ちょっと無理をしても行ってよかったです。集まったのは、30代から50代の男女11人。公務員、アーテイスト、自然農園に関わっているお母さん、安全なお産をする会のお母さん様々でした。みんなのコミュ二テイの課題と夢を、まず紙に書き出して発表しました。ちなみに、私が書いたことは…現在の課題:「遊ぶこと!ゆったりと時間を気にしないでおしゃべりしたり、遊ぶこと」。これからの夢:「コミュ二テイのメンバー一人一人の、やりたいこととやらねばならないことのバランスが取れていること。しんどいだけでもなく、らくちんだけでもない、皆が生きがいとやる気を感じつつ、やるべきことを担っていけるようなコミュ二テイ」これは、もちろん、まぶね教会を想定して書いていますよ。皆さんも、時々、こんなことを考えてみてくれませんか。まぶね教会の中でも、「たまにはちゃんと話す」=たまチャン倶楽部を開いてもいいかもしれませんね。この後、カフェの女主人Kさんの、おいしいオーガニックのお弁当をいただき、大満足でした。どれもやさしい味で、ああこれがKさんなんだ、と思いました。殺伐とした事件が報道される中、素敵な人たちと知り合えて、人間への信頼を回復できた時でもありました。人間っていいな、と思えた夜。こんななにげない時が、人間を支えていると改めて思いました。

No.120 <瞑想ー神と自己との対話 >

 「瞑想と祈りの会」をはじめて2年がすぎましたが、あまり定着を見ないのは、そもそも瞑想とは何かを知らない方が多く、近づきにくいのではないか、と思い、今回は瞑想をする時間は短くして、丁寧にオリエンテーションをやってみることにしました。瞑想は姿勢を正してリラックスし、腹式呼吸をしますので、まず、健康増進に役立ちます。この点だけでもすべての人にお勧めです。
 教会で一般的に行われている祈りは、口祷・自由祈祷です。言葉と声に出して祈る祈り。しかし、黙想は書いて字のごとく沈黙の内に祈る祈り。これは、カトリック教会の黙想会などで、キリストの生涯や聖書の言葉を、黙想する形で行われますが、プロテスタントの教会ではあまりなじみがありません。さらにそれを深めた観想、瞑想と言われる祈りは、このようなイメージや想像も一切使いません。ただただ、沈黙の内に神と一致する祈りです。これも、プロテスタントの教会ではあまりなじみがありません。プロテスタントのキリスト者である私が何故、瞑想という祈りを始めたのか。それは信仰上の必要に迫られて、というしかありません。私の中の魂の渇きとでもいうのでしょうか、それに導かれるままに、探索を続ける内に出会ったのが、O神父というドミニコ会の神父で、坐禅をするキリスト者でした。私はO師を通じて自由な人間の有り様とはどういうものかを見せていただいた気がしています。O師が開いた労働と祈りの共同体・T草庵では、朝夕の祈りは坐禅の形で3,40分瞑想をしてから聖書、詩篇を読み、またミサにあずかります。共同体の生活の中心に、瞑想があるのです。そして何の不自然さもなくキリスト者の祈りとして祈られていました。瞑想の中で、私がまず感じたのは深い安らぎです。自分が本来の自分に帰ってゆく確かさと、安堵感。そして神からの深い慰めでした。「ああ、ここが私の場所だ」とはっきりと自覚しました。それがもう、25年以上前になります。私達が本来の自己を発見する場所が、すなわち生ける神と出会う場所なのです。瞑想は、そのことを体験させてくれます。瞑想は、聖書を読み味わうことと共に、自立したキリスト者として生きるための有効な道具でもあります。今、この瞬間に在ることを、ただ味わうこと。そのことの中に無限の力があります。それは、神が私達に与えてくださっている無限の恵みです。 

アジア学院収穫感謝祭に参加して

 秋晴れの土曜日、アジア学院(ARI)の収穫感謝祭に行ってきました。カンボジア・ツアーから帰って、一度は訪ねたいと思っていて、ついにこの日になってしまいました。お昼頃にARIに到着。受付にツアーで御一緒だったシニア・ボランテイアのIさん。草取りで日焼けして健康そうでした。先日、まぶねに来てくれたチュンリさんは、食べ物コーナーでインドのプ―リ(揚げパン)を販売していて、再会を喜びました。通訳のフジさん、スタッフのYさんと再会を喜ぶのもつかのま、みんなそれぞれの役割で忙しそうでした。200人の 位の人々が、震災から建て直した新しいコイノ二ア・ホールを中心とした場所に集まっています。ご近所の方から、ARIの関係者、高校生、大学生の助っ人も多く来ています。様々な国の民族衣装を着た日本人、外国人を見ていると、国境を超えることは夢じゃないと思えてきます。この日の主食のカレーはほぼ売り切れ。私はフィリピンの豚肉アドボ(じゃがいもの煮物)、プ―リ、バナナトロン(バナナの春巻き)、さつまフライをいただきました。1時半から始まったパフォーマンスは、歌あり踊りあり、詩の朗読あり、紙芝居ありと盛りだくさんでした。チュンリさんは、ナガランドのサンタム族のお祭りを説明してくれて、そのうちの踊りと歌を皆で披露してくれて、本当に生き生きしていました。ゴスペル聖歌隊も、会場を盛り上げてくれました。音楽と踊りは、宗教の本質を一番体現しているかも、と思いました。大きな美しい生命力の内に包まれてしまう高揚感、連帯感を、音楽と踊りは体感させてくれます。また、アフリカのドラム・パーカッションも素晴らしかった。ビートの聞かせ方が全然違う。大地に深くつながった音なのです。一番、印象的だったのは、若い日本人のボランテイア・スタッフが、生き生きと自分を表現して、手話ダンスをしたり、自作の歌を歌ったり、紙芝居をしていたことでした。外国の研修生に交じって生活することで鍛えられるのでしょう。その姿を見ていて、国境を超えて平和を実現することは夢ではない、と思わされ希望を与えられた思いでした。

【コイノ二ア・ホールの玄関正面に掲げられた「収穫をする女達」の絵。自然との調和と収穫の喜びに溢れています】 

No.118 <世界聖餐日にナガランドを覚える>

 先週、私達の教会へ来てくれたC・Sさん。Cさんに実際に出会った人は、みな何かしら引き付けられるものを感じたようで、私もその一人でした。厳しい状況の中で、絶望するのではなく、大きな夢をもって着実にそれを叶えようと努力している姿には大きな感動を覚えました。3年前ここに来てくれたAさんもそうでした。このお二人、そして、現在奨学金を支援しているSさんの故郷であるナガランドの歴史を短く紹介したいと思います。
 
 ナガランドは、16世紀から20世紀初頭の全世界的な植民地主義の時代に、大英帝国に果敢に抵抗し、1832年から1947年の115年間の間、イギリスに支配を許したのは、全体のわずか30%だった、といいます。インドを支配下に置いていたイギリスは、アッサム州に隣接するナガ丘陵地帯を支配下におさめようとしたのです。2000M級の山々が続く丘陵地帯のナガランドは、ビルマとインドの山岳地帯に広がっています。1947年にイギリスが南インドの独立を認めた時から、皮肉なことに、ナガ民族は、インドとビルマの二つの国に分割されてしまうのです。インド独立の前日に、ナガ民族評議会は独立を宣言しましたが、国連、イギリス、インド政府にまったく黙殺されてしまいました。1951年住民投票を行い、その結果は99%が独立を支持しましたが、当時のインド首相ネルーは、「独立はナガの崩壊につながる」「ナガが独立を与えられることはない」と取り合おうとしなかったそうです。そして1954年にアッサム警察や治安維持部隊や軍隊によるナガの独立運動家や民間人への拷問や暗殺がはじまります。これ以降、ナガ地域の860の村の内645の村が穀物倉まで焼き尽くされる焼き討ちに会い多くの人々がジャングルへ逃げ込みました。そして、老人、女、こどもが犠牲となったそうです。インド・ナガ戦争で20万人が犠牲になったと言いますが、それは1954年―64年の10年間に70%の人々が亡くなったといいます。その後、和平のプロセスはなかなか進まず現在に至っています。

 Cさん、Aさん、Sさんの故郷は、なんという悲劇と苦難の歴史を持っているのでしょうか。その中で、キリストの平和を心に据えて、人々の希望を耕そうとしているこの兄弟姉妹のことを深く覚えたいと思います。

参考文献:カカ・D・ライル著、木村真希子・南風島渡る訳『血と涙のナガランド』、コモンズ、2011