No.120 <瞑想ー神と自己との対話 >

 「瞑想と祈りの会」をはじめて2年がすぎましたが、あまり定着を見ないのは、そもそも瞑想とは何かを知らない方が多く、近づきにくいのではないか、と思い、今回は瞑想をする時間は短くして、丁寧にオリエンテーションをやってみることにしました。瞑想は姿勢を正してリラックスし、腹式呼吸をしますので、まず、健康増進に役立ちます。この点だけでもすべての人にお勧めです。
 教会で一般的に行われている祈りは、口祷・自由祈祷です。言葉と声に出して祈る祈り。しかし、黙想は書いて字のごとく沈黙の内に祈る祈り。これは、カトリック教会の黙想会などで、キリストの生涯や聖書の言葉を、黙想する形で行われますが、プロテスタントの教会ではあまりなじみがありません。さらにそれを深めた観想、瞑想と言われる祈りは、このようなイメージや想像も一切使いません。ただただ、沈黙の内に神と一致する祈りです。これも、プロテスタントの教会ではあまりなじみがありません。プロテスタントのキリスト者である私が何故、瞑想という祈りを始めたのか。それは信仰上の必要に迫られて、というしかありません。私の中の魂の渇きとでもいうのでしょうか、それに導かれるままに、探索を続ける内に出会ったのが、O神父というドミニコ会の神父で、坐禅をするキリスト者でした。私はO師を通じて自由な人間の有り様とはどういうものかを見せていただいた気がしています。O師が開いた労働と祈りの共同体・T草庵では、朝夕の祈りは坐禅の形で3,40分瞑想をしてから聖書、詩篇を読み、またミサにあずかります。共同体の生活の中心に、瞑想があるのです。そして何の不自然さもなくキリスト者の祈りとして祈られていました。瞑想の中で、私がまず感じたのは深い安らぎです。自分が本来の自分に帰ってゆく確かさと、安堵感。そして神からの深い慰めでした。「ああ、ここが私の場所だ」とはっきりと自覚しました。それがもう、25年以上前になります。私達が本来の自己を発見する場所が、すなわち生ける神と出会う場所なのです。瞑想は、そのことを体験させてくれます。瞑想は、聖書を読み味わうことと共に、自立したキリスト者として生きるための有効な道具でもあります。今、この瞬間に在ることを、ただ味わうこと。そのことの中に無限の力があります。それは、神が私達に与えてくださっている無限の恵みです。