6月4日礼拝案内

聖霊降臨節第一主日ペンテコステ・教会創立51周年記念礼拝

使信:「互いに相手を受け入れなさい」 石井智恵美牧師
聖書:使徒言行録2章1節ー11節
    ローマの信徒への手紙15章7節

*礼拝後、玉川学園ミドルクラス・オーケストラによるミニ・コンサート
  が開催されます。(11:50頃ー12:30)
  その後、玉川学園ミドルクラス・オーケストラ歓迎昼食会
  伝道社会委員会、礼拝会員委員会、定例役員会です。

<こどもの礼拝>
礼 拝     9:20-9:50 
グループ活動 9:50-10:20




「セボノさん来日費用」募金のお願い


まぶね教会は2010年から5年間、「神学生(セボノさん)の奨学金支援」を行ってきました。
セボノさんが、今年8月29日から9月26日まで、個人的に来日される予定です。
アジア学院から依頼された業務のためではありません。

奨学金を支援していた5年間、彼女から神学校時代の活動報告(写真、手紙等)を受け取り、
我々もその活動報告と会計報告を教会員に行ってきました。
彼女は、まぶね教会に来て感謝のお礼を述べたいと願っており、
私達も彼女の成長した姿を直に会って見たいと思っています。

今来日で、彼女が若い感性で学びとったものを今後の活動に生かされることを願っています。
牧師と相談の上、「今回の来日費用の一部」を募ることにしました。
皆さまのご支援、ご協力をお願いいたします。

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名義人:宗教法人 日本基督教団まぶね教会
口座番号:00130-5-97787
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<セボノさんのこと>


まぶね教会は、アジア学院から留学生を招いて、
「礼拝説教と交わりのひと時」を持っています。

2010年10月、インド北部山岳地方のナガランド出身の女性
「アチボさん」に来て頂き、その交流会で現地のお話を聞く機会がありました。

彼女の村は、約150年前、イギリス統治下、村の多くの方々がキリスト教に入信しました。

アチボさんはタイの神学校を卒業後、地元で活動し、
2010年度のアジア学院留学生の一人になり来日しました。


交流会で、「貧しい中、少ないものでも分かち合い、あとは神様に信頼してゆく」という
アチボさんたちナガランドのキリスト者の信仰の姿に私たちは深い感銘を受けました。

交流会後、牧師との面談で、アチボさんが5人の姪御さん、甥御さんの学費を出していること、
そのうちの二人は学業を終えて、あと3人が残っているというお話を聞きました。

アチボさんお一人で、大変な経済的な負担を負っていることを知り、
そのうちに一人でも教会として支援できないだろうか、というアイデアが浮かびました。
それは、アジアのキリスト者から私たちがより近しく学ぶ機会にもなるはずと思いました。

そこで、アチボさんと連絡をとり承諾をいただき、支援する方を姪のセボノさんと決め、
奨学金(年15万円、5年間)をまぶね教会有志で支援できないかと役員会で話し合いました。

そして2010年11月「セボノさんを支援する会」を立ち上げ、任意の献金を教会員の皆様に呼びかけました。
その結果、39名の方々から賛同があり、5年間の支援を続けることが出来ました。
支援金だけでなく、その間、セボノ通信を7回発行し、交流を続けました。

彼女は、途中病気で入院された時期もありましたが、2015年、多くの友人に恵まれ、
タイのバブテスト神学校を卒業しました。

セボノさんは卒業直後、2015年4月に起きたネパール大震災の復興支援活動に参加されました。
現在、地元ナガランドにある教会で青年担当責任者として3年間働くことになっています。

音楽を生かした教会活動にも取り組んでいます。
まぶね教会は、節食ランチの収益をアジア学院に献金していますし、その活動を支援しています。

加えて、今回、セボノさんと直に交わり親しくなり、彼女のさらなる信仰活動が神に支えられるように、
祈り続けてゆきたいと願っています。


2017年5月28日募金責任者:立原敬一、石井智恵美



5月20日まぶね食堂報告




5/20のメニュー

【ホワイト・シチュー、ターメリック・ライス、コールスロー・サラダ、苺とオレンジの寒天寄せ】


 参加者大人14名 ゲスト6名

 今回は、様々な地域の催し物が重なったのが、参加者が少なかったのです。
 ご飯はとても内容が充実していたのですが。。。


【すてきな募金箱 こどもたちのイラスト入り】

【教会の看板の下にまぶね食堂の案内】

【募金箱に書かれたこどもたちのイラストです】



次回のメニュー:和風ハンバーグ、野菜の付け合わせ、ご飯、お味噌汁です。

次回6/17は、まぶね教会のミニ・バザーも並行して行われます。

こどももおとなも是非、第三土曜日、食べに来てください。
お待ちしています。

5月28日礼拝案内

復活節第7主日懇談礼拝予告

使信:「あなたはどこにいるのか」 小宮愛(まぶね教会信徒)

聖書:創世記3章9節

*懇談礼拝は、使信者と会衆の双方向の礼拝です。
使信の後、懇談の時間があり自由に質疑応答をいたします。

*礼拝後、節食ランチ、読書会が開催されます。
 読書会のテキストは、荒井献・本田哲郎・高橋哲哉『3・11以後とキリスト教』 

*また、川崎鶴見地区のポトラック・パーテイー(元住吉教会)が14時より開催され、
 まぶね教会からは、綿あめ、ロールパンを持ち寄ります。
 参加者は礼拝後12時半ごろ出発します。

こどもの礼拝
 礼拝 9:20-9:50  グループ活動 9:50-10:20 
 幼少科(小学生まで) 中学科 があります。
 高校生の方には、大人の礼拝に参加していただいています。

5月21日礼拝案内

復活節第6主日礼拝

使信:「隠れたところにおられる神への祈り」 石井智恵美牧師
聖書:マタイによる福音書6章1節ー15節

礼拝後、墓前礼拝(御殿場:富士霊園 14時ー14時半)に出発します。
それに伴って、ランチ、午後の集会は休会です。

5月14日礼拝案内

<復活節第5主日礼拝>

使信:「神へ至る道」  石井智恵美牧師
聖書:ヨハネによる福音書14章1節-11節 

*礼拝の中で役員就任式があります。 
  礼拝後、「聖書を学ぶ会」(11:45-12:15)
  まぶねランチ(一階食堂)、その後CSスタッフ会です。

<こどもの礼拝>
 礼  拝:9:20-9:50
 グループ活動:9:50-10:20
 

3月19日使信


2017319日使信「世にあって教会は何を伝えるか」      石井智恵美

聖書:「だから神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなた方も互いに受け入れなさい。」(ローマの信徒への手紙157節)

                            

本日の懇談礼拝は、新年度の宣教標語がテーマです。2016年度宣教標語は「対話と共生―主の群れとして生きる」でした。

「対話と共生」

この宣教標語を選んだのは、世界の大都市でテロが次々と起こり、日本でもヘイト・スピーチが起こり、排外主義的な動きが強まっている風潮に、教会は少しでも抵抗をしてゆきたいという思いからでした。そのための方策が「対話と共生」です。異なる意見を持つ人を排除しないで、異なる文化、異なる言語、異なる習慣等の背景を持つ人々と粘り強く対話をしてゆくこと、そして、価値観が違っていても、今、この世界で同時代を生きている、という事実、お互いに生きている、生かされている事実を認めて、共に生きてゆくこと、それを教会が選ぶ方策として掲げたかったのです。


「主の群れとして生きる」

そして、副題の「主の群れとして生きる」は、対話と共生を方策として生きる私たちは、主にある群れとして、主イエス・キリストによって、異なるものでありながらひとつの群れとされているその恵みにおいて、生かされていることに常にとどまっていたいという願いをこめました。また、今日、掲げた聖書の言葉「だから神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」の言葉をかみしめたいのです。自分自身を振り返れば、欠点だらけで、神の前には恥じるしかない者です。しかし、その私をキリストは受け入れてくださっています。


「神の栄光」-カヴォード 

この神の栄光と言うギリシャ語の「ドクサ」は、ヘブル語の「カヴォード」を下敷きにしています。ヘブル語の文脈では、「カヴォード」は社会的な名誉、というよりも、神が臨在しているという「重さ」「荘厳さ」を表します。取るに足らない私がキリストにおいて受け入れられる、ということが、神がまさに臨在すること、神の荘厳さが現れることなのです。また、そのように欠点だらけの私たちが受け入れあうことが、神がまさに臨在することの証なのです。神は完全な方である、と言われます。しかしその完全は、美しいもの、善なるもの、立派なものだけではなく、醜いものも、悪とみなされるものも、みすぼらしいものもすべてを含んだ完全なのだと思います。私たちの目には、たとえ、小さく、弱く、みすぼらしく映っても、それをも神はよしとされます。むしろ、人間の目から見て完全だとするところに、誤りがあります。神は人間の想いを超えて、私たちを用いてくださいます。だから、目の前にいる人が自分の目から見て、受け入れがたい人であっても、キリストにあって受け入れてゆくことが私たちにすすめられています。主にあって互いに受け入れあい、異なる他者と対話と共生を実践してゆくことは、今の世にあって教会が伝える大切なメッセージであると強く思うのです。

3月26日使信「光輝く主の変容」


2017326日使信「光輝く主の変容」
                         石井智恵美


聖書:「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
(マタイ17章2節)     

今年度最後の礼拝に与えられたテキストは、主の変容と言われる個所です。
この「主の変容」の記事は、イエスの受難と復活に密接に結びついています。
イエスは、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られました。

そこで「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(2節)
とあります。


「神話」をどう読むか

これは日常の人間イエスの姿ではありません。神格化されたイエスの姿です。
このような人間の日常の想像を超えたイメージとは、どこから生まれるのでしょうか。
また、荒唐無稽なこれらのイメージは、神話として退けられるべきものなのでしょうか。

宗教には必ずこのような日常をはるかに超えた荒唐無稽なイメージと結びついた逸話が存在しています。
かつて、聖書学者のブルトマンは「非神話化」として、当時の時代状況から生まれた「神話」的な表現を、
聖書の中から取り除いて読む方法論を説きました。

天使や悪魔、七層の天界など、現代人にとっては「神話」に属する世界観の上に聖書が書かれているのだから、
神話の背後にある聖書の意図を取り出す解釈の必要がある、とブルトマンは説きました。
しかし、「非神話化」によって、今日描いているような「主の変容」のイメージも、
すべて無意味なものとして切り捨ててしまっていいのでしょうか。

あまりにも「神話」に依拠して、現実の判断を失ってしまうのは間違っています。
しかし、神話のイメージの中にある私たちを養い生かす何ものかを見出すことは、
決して無意味なことではないと思います。そして、私はこの箇所をこう読む、と解釈したとたんに、
聖書から本当にそうなのか、と問いかけられることが起こります。聖書はそのように、不思議な書物である。


光輝く主の変容
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
こういう不思議なことが実際に起きたか否かというよりも、このことによって聖書が伝えたいメッセージは何か、
ということなのです。これはイエスが十字架と復活をくぐった後に到達する天的な喜びの世界です。

現象としての苦しみに決して犯されることのない真理そのものの世界。それが先取りされてここで表現されている
と言えます。実際のイエスは、病の人々の病を癒し、飢えた人々とパンを分かち合い、明日のねぐらもわからない
宣教の旅の中で、困窮と苦労の連続であったことでしょう。

しかし、そのイエスが天的な光で変容してゆくという姿が描かれるのです。今日の箇所では光輝く聖なるイメージと、
後半の洗礼者ヨハネの苦しみと同様にメシアも苦しみを受けるというイメージと
対比的に語られています。そしてイエスという人物において聖なる天的な喜びと地上的などこまでも報われない
苦しみとがひとつになっているのです。

この世における苦しみをくぐり抜けないうちは、この聖なるものは本物にならない。
あるいは、本質においてイエスは聖なるもの、光輝くものでありながら、人々と共にあるために、
その輝きを隠して、ただの人間として隣にいてくださり「恐れることはない」と語りかけてくれる
…そのようなイエスの姿が描かれています。受難をまじかにしてもなおイエスの人々への愛が溢れているのです。