3月19日使信


2017319日使信「世にあって教会は何を伝えるか」      石井智恵美

聖書:「だから神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなた方も互いに受け入れなさい。」(ローマの信徒への手紙157節)

                            

本日の懇談礼拝は、新年度の宣教標語がテーマです。2016年度宣教標語は「対話と共生―主の群れとして生きる」でした。

「対話と共生」

この宣教標語を選んだのは、世界の大都市でテロが次々と起こり、日本でもヘイト・スピーチが起こり、排外主義的な動きが強まっている風潮に、教会は少しでも抵抗をしてゆきたいという思いからでした。そのための方策が「対話と共生」です。異なる意見を持つ人を排除しないで、異なる文化、異なる言語、異なる習慣等の背景を持つ人々と粘り強く対話をしてゆくこと、そして、価値観が違っていても、今、この世界で同時代を生きている、という事実、お互いに生きている、生かされている事実を認めて、共に生きてゆくこと、それを教会が選ぶ方策として掲げたかったのです。


「主の群れとして生きる」

そして、副題の「主の群れとして生きる」は、対話と共生を方策として生きる私たちは、主にある群れとして、主イエス・キリストによって、異なるものでありながらひとつの群れとされているその恵みにおいて、生かされていることに常にとどまっていたいという願いをこめました。また、今日、掲げた聖書の言葉「だから神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」の言葉をかみしめたいのです。自分自身を振り返れば、欠点だらけで、神の前には恥じるしかない者です。しかし、その私をキリストは受け入れてくださっています。


「神の栄光」-カヴォード 

この神の栄光と言うギリシャ語の「ドクサ」は、ヘブル語の「カヴォード」を下敷きにしています。ヘブル語の文脈では、「カヴォード」は社会的な名誉、というよりも、神が臨在しているという「重さ」「荘厳さ」を表します。取るに足らない私がキリストにおいて受け入れられる、ということが、神がまさに臨在すること、神の荘厳さが現れることなのです。また、そのように欠点だらけの私たちが受け入れあうことが、神がまさに臨在することの証なのです。神は完全な方である、と言われます。しかしその完全は、美しいもの、善なるもの、立派なものだけではなく、醜いものも、悪とみなされるものも、みすぼらしいものもすべてを含んだ完全なのだと思います。私たちの目には、たとえ、小さく、弱く、みすぼらしく映っても、それをも神はよしとされます。むしろ、人間の目から見て完全だとするところに、誤りがあります。神は人間の想いを超えて、私たちを用いてくださいます。だから、目の前にいる人が自分の目から見て、受け入れがたい人であっても、キリストにあって受け入れてゆくことが私たちにすすめられています。主にあって互いに受け入れあい、異なる他者と対話と共生を実践してゆくことは、今の世にあって教会が伝える大切なメッセージであると強く思うのです。