3月26日使信「光輝く主の変容」


2017326日使信「光輝く主の変容」
                         石井智恵美


聖書:「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
(マタイ17章2節)     

今年度最後の礼拝に与えられたテキストは、主の変容と言われる個所です。
この「主の変容」の記事は、イエスの受難と復活に密接に結びついています。
イエスは、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られました。

そこで「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(2節)
とあります。


「神話」をどう読むか

これは日常の人間イエスの姿ではありません。神格化されたイエスの姿です。
このような人間の日常の想像を超えたイメージとは、どこから生まれるのでしょうか。
また、荒唐無稽なこれらのイメージは、神話として退けられるべきものなのでしょうか。

宗教には必ずこのような日常をはるかに超えた荒唐無稽なイメージと結びついた逸話が存在しています。
かつて、聖書学者のブルトマンは「非神話化」として、当時の時代状況から生まれた「神話」的な表現を、
聖書の中から取り除いて読む方法論を説きました。

天使や悪魔、七層の天界など、現代人にとっては「神話」に属する世界観の上に聖書が書かれているのだから、
神話の背後にある聖書の意図を取り出す解釈の必要がある、とブルトマンは説きました。
しかし、「非神話化」によって、今日描いているような「主の変容」のイメージも、
すべて無意味なものとして切り捨ててしまっていいのでしょうか。

あまりにも「神話」に依拠して、現実の判断を失ってしまうのは間違っています。
しかし、神話のイメージの中にある私たちを養い生かす何ものかを見出すことは、
決して無意味なことではないと思います。そして、私はこの箇所をこう読む、と解釈したとたんに、
聖書から本当にそうなのか、と問いかけられることが起こります。聖書はそのように、不思議な書物である。


光輝く主の変容
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
こういう不思議なことが実際に起きたか否かというよりも、このことによって聖書が伝えたいメッセージは何か、
ということなのです。これはイエスが十字架と復活をくぐった後に到達する天的な喜びの世界です。

現象としての苦しみに決して犯されることのない真理そのものの世界。それが先取りされてここで表現されている
と言えます。実際のイエスは、病の人々の病を癒し、飢えた人々とパンを分かち合い、明日のねぐらもわからない
宣教の旅の中で、困窮と苦労の連続であったことでしょう。

しかし、そのイエスが天的な光で変容してゆくという姿が描かれるのです。今日の箇所では光輝く聖なるイメージと、
後半の洗礼者ヨハネの苦しみと同様にメシアも苦しみを受けるというイメージと
対比的に語られています。そしてイエスという人物において聖なる天的な喜びと地上的などこまでも報われない
苦しみとがひとつになっているのです。

この世における苦しみをくぐり抜けないうちは、この聖なるものは本物にならない。
あるいは、本質においてイエスは聖なるもの、光輝くものでありながら、人々と共にあるために、
その輝きを隠して、ただの人間として隣にいてくださり「恐れることはない」と語りかけてくれる
…そのようなイエスの姿が描かれています。受難をまじかにしてもなおイエスの人々への愛が溢れているのです。