クリスマスのメッセージ 牧師 林巌雄

  ルカによる福音書2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。


  デューラーという画家が「祈りの手」という絵を画いています。

  

ちょうど私のこの手のように、ごつごつした節くれだった指を上に伸ばして、両手のひらをあわせています。今日は、この絵にまつわるエピソードを、皆様にお話したいと思います。

 

若き日のデューラーは、同じく絵描きを目指す青年と一緒に生活していました。ところが、お互い貧乏で、絵の勉強どころではありません。

 

そこで、デューラーの友達が提案します。「僕が働いて二人分の生活費を稼ぐから、君は絵の勉強に専念してください。そして、君の絵が売れるようになったら、今度は、君が僕の生活と勉強を支えてください。」

  

そこで、デューラーは一生懸命に絵の勉強をし、友人は一生懸命に働きました。いくつかの年月が流れ、ついに、デューラーの絵が売れる日が訪れました。一刻も早くこの喜びをわかちあおうとデューラーが二人の部屋に戻ります。ふと、すこし開いた扉の向こう側に、お祈りをする友達の姿がありました。

 

友人はふたつの手のひらをあわせています。「神様、デューラー君は立派な絵描きになれそうです。ありがとうございます。しかし、僕の手はもう筆を取ることができません。力仕事や水仕事を重ねるうちに節くれだって、ごつごつになってしまいました。この指はもう繊細な動きをしてくれません。もう絵を画くことができません。けれども、神様、デューラー君の上にあなたの祝福があり、彼の描く絵があなたの愛を伝えることができますように。」

  

この友達の祈りの手は、ごつごつになってしまったけれど、なんて美しい手なんだろう、もう繊細な動きのできない不器用な手になってしまったけれど、なんて愛に満ちた手なんだろう、このように感動して、デューラーは、この「祈りの手」という絵を画いたと伝えられています。

 

今夜は、クリスマスイブです。神様の一人っ子イエス様のお誕生日です。この神様の手も、デューラーの友達の手のように、ごつごつした手ではないかな、と思います。

 

なぜかといいますと、イエス様のお母さんは未婚の若い女性、お城のお姫様ではありません、しかも旅の途中で宿がない、とても心細いでしょう、ベッドも粗末な飼い葉桶、イエス様は寒くなかったでしょうか? 神様の一人っ子がお生まれになるには少し寂しい気がしませんか。御自分の御子の誕生に、神様は、もう少し気の効いた舞台設定ができなかったものでしょうか。神様は不器用な方のように思います。


愛するということは、かっこいいことでも、スマートなことでもなく、実に不器用なことだと思います。けれども、不器用だからこそ、うそがない、不器用だからこそ、心が動かされます。不器用で失敗ばかりしているからこそ、器用に生きていけない悲しみを味わっているからこそ、かえって、人の痛みには、やさしくなれるのだと思います。

 

神様は、言葉や見せ掛けだけで私たちを愛してくださるのではありません。自分の手は汚さないできれいにしておく、そんな愛し方ではありません。神様は私たちの生きるところにまでおこしくださり、それが真冬の野原であるならば、一緒に凍えながら野宿をしてくださる、そういうお方です。

  

汗と泥にまみれて倒れている私たちを、汚いといって遠ざけるのではなく、近寄ってきて、自らが汚れるのも気になさらず、素手で抱きかかえてくださいます。神様は、きれいごとを地上に持ち込むのではなく、破れ傷ついた私たちの生活の真っ只中におこしくださり、そこでともに苦しむことから始めてくださるのです。

 

聖なる夜、今宵、あなたの肩を抱きかかえる手は、白くて細い手ではありません。繊細で器用な手でもありません。太くてごっつくて不器用な手があなたを支えます。この分厚い手のぬくもりがあなたの頭のてっぺんから足の裏まで伝わりますように。

 祈り:神さま、あなたの節くれだった、ごつごつした、しかし、大きくて、温かな手が、わたしたちを支えてくださり、感謝いたします。

あなたのこの手がひとりでも多くの人びとの上に、とくに、今苦しんでいる人びとの上に、御子イエス・キリストの誕生とともに届きますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。