No.139 <認知症・しょうがい、と共にどう生きるか>  

 先週は、長谷川和夫先生を迎えての懇談礼拝で、テーマは「認知症」。チラシを700枚ほど作って地域に配布しましたが、7名の方が来て下さいました。このテーマの関心の高さが伺えました。長谷川先生は、長年の知見と経験から、ユーモアと優しさに溢れたお話しをしてくださいました。深刻なテーマにも関わらず、先生の温かいお人柄に、聴く私達も温められ、励まされたような気がしています。先生が、もう待ったなしで、地域で認知症の方々を支えなければならない時代がやって来ている、と警鐘をならされました。今回、認知症の予防についての詳しいお話しがありましたが、次回は、この認知症のケアを地域でどう担いうるのか、その人材をどう養成するのか、について是非、お話しを伺いたいと思いました。
 その日の午後は、読書会で荒井英子著『弱さを絆に』の中の「ハイジ、クララは歩かなくてはいけないの?」を発表しました。ちょうど、長谷川先生のお話と重なるところがたくさんあったのでご紹介したいと思います。ヨハネ福音書9章の目の見えない男の癒しの物語で、弟子たちが何故この男が見えないようになったのか、その理由をイエスに問う場面があります。「誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と、イエスは「本人や両親が罪を犯したからではない。神の業がこの人に現れるためである」と答えます。英子さんはこのイエスの答えを、因果応報説による「罪」のレッテル貼りからの解放と、捉えます。この答えは障碍をもったままで肯定される、という希望と解放を、障碍者に与えました。しかし、もう一方で「神の業が現れるために」道具化される存在が障碍者なのか?そんなレッテル張りはたくさんだ、という失望もまた与えたのです。「神の業が現れるために」という言葉は、原語において、決してその「障碍」においてではなく、「この人に対して」すべての人に、というニュアンスで表現されています。ことさら「障碍」においてではないのです。「認知症」も「障碍」も、そのことを引き受けざるを得ない当事者にとっては、「何故、私が」と問い、周囲の人々も「何故、この人が」と問わざるえない不条理です。競争社会の中ではマイナスの価値しか与えられません。しかし、それをも信仰をもって受け入れ、障碍と共に生きることを始める時に、「神の業(重たさ・臨在)」が、現れるのではないでしょうか。その答えは当事者がまずもって発見するものです。そして「障碍」ゆえに被る社会的な不利益をなくすために変わるべきは私達である、と英子さんは重い提言を残しておられます