<懇談礼拝-尊厳死をめぐって>

 5月の懇談礼拝は、K・Sさんのお話で尊厳死をめぐってでした。終末期と
言われる数日から約3週間の間をどのようにすごすのか。

【教会の花壇の春の花々】

 現在は「胃ろう」をつけ「点滴」をして延命するケースがほとんどですが、それによってさまざまな問題が生じます。「そのとき」が来る前に、余裕をもって考える時間が必要だ、というお話でした。
懇談の時間では、家族を看取った遺族の方々からの重い発言が次々とありました。その方々の発言を聞きながら、私自身も10年前に家で看取った父の最後を思い出していました。「断末魔の苦しみ」という言葉がありますが、父を最後の瞬間まで「見守る」ことは家族3人でいくらエネルギーを注いでも足りない、と思われるほどの大仕事でした。終わりがいつなのかわかっているのなら、気持の張りを持たせることができます。しかし、その時がいつ訪れるのかわかりません。日常のさまざまな悩みとは別に、家族は死と向き合うことに耐え抜かねばならないのです。
 懇談での皆さんの発言を聞きながら、その記憶が蘇ってきました。また一人一人の発言から、あの時の決断は、本当にあれでよかったのだろうか、という人にはなかなか語れない後悔の思いも抱えながら、遺族は生きてゆくのだ、ということを実感しました。天国へ召された方の人生の重さ、それをまた抱えながら生きてゆく遺族の方々の人生の重さ。

「まっすぐに生きたいと思っていた。
 間違っていた。
 人は曲がった木のように生きる。
 きみはそのことに気づいていたか」 (長田弘「イツカ向コウデ」『死者の贈り物Ⅱ』)

という詩を思い出しました。
また、その人生の重さをこうやって分かちあえる教会という場はいいな、とここに集えることに感謝しました。