Feb 26, 2017

使信 2017.02.26

2017年2月26日降誕節第10主日礼拝使信「安心しなさい」
聖書:マタイによる福音書14章22-36節
                                 石井智恵美
活動と一人静まること
本日の聖書個所、有名な水の上を歩くイエスの奇跡に入る前に、注目した言葉があります。それは、22-23節 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。大勢の群衆に囲まれた精力的な活動から退かれて、ひとり祈るイエスの姿です。神とだけになるために一人になるイエスの姿は、見逃してしまいがちですが、よく聖書を読むとたった一人で神と一つとなる時間を取っているイエスがいるのです。しかし、そのような静かな時間も、むしり取られるように群衆が押し寄せてくるのです。それほど、民は疲弊していたし、その人々を憐れむイエスがそこにいました。活動と一人静まること。それはどんな人間にとっても必要なことです。どちらか一方だけでは、その人がその人らしくありえません。活動と休息です。そしてイエスにとって真の休息は神とひとつになることでした。忙しく宣教活動に没頭するイエスにとっても、それは同じでした。忙しい中にも、必ず、神とだけひとつになる時間を求めておられたイエスの姿。私たちは週に一回礼拝の時間を持っています。そしてできれば、一日の内、心を沈めて祈りの時間をもってほしいのです。それが、その日一日を支えてくれます。あるいは一日の終わりに祈りの時を持てば、その日一日を振り返り、自分自身の姿を振り返り、それを神に託して眠りにつき、一日を完成する時を持つことができます。
心を宿す“かたち”
精神が宿るにふさわしい形はあります。活動と休息というリズムを守ることによって、その人がその人らしく生きる力が養われてゆくように、人間を生かす形があります。信仰を養う形はあります。人間を生かす形として、祈りの様々な形式がありますが、私はそれを自分のテーマとして研究と実践を続けてきました。ドイツ留学中も、キリスト教共同体の中でその体験を深めてきました。だから、その実りを皆さんにも伝えていきたいと願っています。
先日、施設に入っているTさんを訪問して、聖餐式を行った時、認知症が進んでいるTさんが、葡萄ジュースをひたしたパンで唇をぬぐって差し上げたら、赤ちゃんがお母さんの乳房を探すように、口を何度も吸うようにして味わっておられました。聖餐のパンと葡萄ジュースの香り、優しく唇に触れる感触、ひんやりとした味わい、それらを通じて、神様の恵みを味わっておられました。そこに込められた愛を味わっておられました。身体的、知的な力が衰えても、心は神の恵みを受け取ることができるのです。そのことをあらためて感じたのです。言葉ではなく儀式を通じて、その方の魂に触れ、魂を感じることの大切さ豊かさを思ったのです。五感を研ぎ澄まして、神の恵みを感じることもまた、大切な信仰の養いではないか、と逆に私たちは理性によってそれを感じる力を弱められているのかもしれません。しかし、人間の成長・成熟とは何かということを考えると、どうでしょうか。理性をせわしなく働かせることを少し休んで、心を働かせ、神の恵みを味わうことで、自分の想いを超えた成長や成熟へと導かれるのではないでしょうか。
「一つになる親しい交わり」
今日のテーマ「安心しなさい」ということも、そうです。「安心しなさい」といくら言葉で言っても、その安心がその人の心の内に芽生えなければなんにもなりません。安心がその人の中で芽生える、それは、祈りの中で神様とつながって一つとされている、という親密さを感じられて初めて芽生えるものではないでしょうか。
理性を中心として、様々なものを区別し分析し整理してゆく力は、日常生活を送る上で大切な力ですが、それによってかえって不安になることが多いのです。安心は「一つになる親しい交わり」、そしてその源である神につながることによって得られます。これは、ジャン・バニエさんという知的ハンデイを持った人たちの共同体「ラルシュ共同体」の創設者の言葉です。知的ハンデイを持った人々にとってだけではなく、「安心」することは、とても大切です。体と心がリラックスして安心すること。それは知的な吟味から生まれるものとは別なのです。
祈りもまた、バニエのいう「一つになる親しい交わり」の源である神へとつながってゆく大切な時間です。
しかし、そこに危うさも生まれます。「一つとなる親しい交わり」の「源なる神」は、カルト宗教、マインド・コントロールとどこが違うのか、そこで、一人一人の信仰を吟味のするが問われます。その時の大切な一つの指標は、誰もが排除されていない、ということ、一人一人が大切にされている、ということであろうと思います。
「安心しなさい、私だ」
さて、今日の湖を歩く奇跡物語を見てみましょう。もちろん、このように湖の上をイエスが歩いたという奇跡が本当に起こったのか、現代人の私たちにはにわかに信じることができません。この物語の中心的な主題は「安心なさい、私だ」という言葉にあります。「私だ」という言葉はギリシャ語で「エゴ―・エイミー」です。何度も語ってきましたが、ヨハネ福音書で何度も語られる言葉「私は道であり、真理であり、命である」とか「わたしは善き羊飼い」とか、「私は~である」という表現と同じです。そして、これは旧約聖書に出て来る「エヒエ・アシェール・エヒエ」という神顕現の表現と同じです。モーセが燃える芝の中に表れた神に、神の名を尋ねた時、神が答えたご自身の名です。「エヒエ・アシエール・エヒエ」直訳すれば「私はかつてあり今あり、これからもあるであろう存在である」ということ。それが神の名である、という。名前は旧約聖書の中でも「本質」を表します。
イエスが「安心しなさい。わたしだ。」と語った言葉は、単に「幽霊だ」と言って、おびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたという弟子たちに、自分の存在を気づかせるためだけではありませんでした。旧約の伝統の中で、神顕現の言葉、神が現れる時の宣言の言葉です。そして、イエスは「恐れることはない」と語りかけます。弟子たちが作り出した恐れと不安、そこから手を放しなさい、と呼びかけています。創世記26:24で神がイサクに語り掛ける言葉。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。」と同じく、イエスを通じて神がそこに顕現している、そのことが表現されているのです。
この「安心」は、出来事として起こるものです。28節以下のペトロが水の上を歩くという行為にそれが現れています。ペトロはイエスが水の上を歩いてくるのに安心して、自分も湖を歩かせてください、と無邪気に頼みます。ここでペトロの中で「安心」が出来事として起こっているのです。イエスを通じて神と一つになる親しい交わりが実現されているのです。
しかし、ペトロは強い風に気がついて怖くなり、おぼれかけてしまいます。「強い風に気がつく」すなわち、自分が捕らえた外側の情報、一つとなった親しい交わりから分かれて、エゴが捕らえた情報に捕まった時に、不安と恐怖が襲ってくるのです。神との親しい交わりから、人間は簡単に離れてしまいます。しかし、助けを叫べばイエスは答えてくださり「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」と叱り、正しい道への引き戻してくださいます。ここで示されている物語の意味は、神と一つなる親しい交わりにつながっていなさい、ということです。そこにおいて私たちの内に安心は、出来事として起こるのです。イエスが舟に乗り込むと、風はしずまった、とあるように、「安心しなさい。わたしだ」という方を心の内にお迎えすることで、安心は出来事として起こるのです。詩編の中で大水の中でおぼれそうになった者を神が救ってくださるように。
33節 舟の中にいた人たちは、「本当にあなたは神の子です」といってイエスを拝んだ。
この信仰告白が起こったのは、不安と恐れの中にあった弟子たちの内に、出来事として安心が芽生えそれに満たされたからでしょう。湖での恐怖の体験から救ってくださったイエスに信仰告白をしたのです。体験が言葉を生み出したのです。
 そして、病人を癒すイエスの短い記事が続きます。イエスたちはゲネサレトというガリラヤ湖の北西岸に、舟でたどり着きます。そこで癒しの業を行いました。水の上を歩くイエスの姿で、神がそこに表れたという記事の後に、力強くまた人々の求めに応えて癒しの業を行うイエスがいます。「土地の人々は、イエスだと知ってくまなく触れ回った。」とあるように、イエスを歓迎している民衆の姿が記されています。そのように苦しんでいる民衆に応えていたイエスの姿が記されています。イエスご自身が神とひとつとなって親しい交わりを生きていました。そこから力を得て、イエスは民衆の苦しみに応える癒しの業を行うことができたのです。
活動と休息。そのバランスをイエスご自身も取ろうとされていました。特に祈りの場に退くことの大切さをイエスご自身が知っていたと思います。そこでご自身が神の内に憩うこと、安心していたからこそ、人々に「安心しなさい」と語ることができたのでしょう。今日、ここに集った皆さんも「安心」してほしいのです。神と一つになる親しい交わりの内に安心してほしいのです。それが出来事として自分の心の内に起こることを、待ち望んでほしいのです。

イエスはいつも私たちの最も深い所で「安心しなさい。わたしだ」と語りかけておられるのですから。私たちもまた地上の最後の日までどんな葛藤の中でもイエスとのつながりの内に安心して生きられますように。