復活節第二主日礼拝使信「信じて命を得るために」


201848日復活節第2主日礼拝使信「信じて命を得るために」>

聖書:ヨハネによる福音書2019節~31節                石井 智恵美             

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスを神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 (ヨハネによる福音書2031節)

使信者=まな板の上の(こい)

最近、はまっている歌手で竹原ピストルという人がいます。プロボクサーから歌手になった人です。彼の歌は人生の応援歌で、日本のゴスペルソングとでも言いたいような魂に響きかけるような歌です。「カウント10 」という歌は、ボクサーであった彼の経験がにじみ出ている曲。「ワン、ツー、スリー、フォー。ファイヴ、シックス、セブン、エイト、ナイン」そこまでは、神様か世間様かとにかく、自分以外の何者かが数えるもの、でも「カウント10」だけは、自分が数えるんだ、諦めたら、終わりだ、あきめずに何度でも立ち上がれ、目の前がかすんで見えなくなっても、とにかく立ち上がるんだ、カウント10を僕は決して数えない、と歌います。どん底から這い上がってきた人だけが、歌える歌だと思いました。彼を紹介する番組で、司会者のリリー・フランキーが「人を励ます歌、感謝を伝える歌って、僕はとてもきわどい、と思っていて…。でも今日、あなたの歌を聞いて、その人が本物かどうかにかかっているとつくづく思いました」と。この言葉は、私の心にも刺さりました。礼拝の中で使信を語るということも、かなりきわどいこと。聖書の言葉を伝えながら、使信者である牧師は本当にその言葉を生きているのか、と毎週、まな板の上にこいになって身をさらしています。どれほど精いっぱいの準備をしても、ああ、今日はだめだったな、とか、うまく伝わらなかったな、とか、様々な思いを抱えながら、使信を終えます。やはり後悔は残るのです。もっと使信をHpにアップしてください、と言われるのですが、自分の中の後ろめたさが、それを躊躇させます。本当に私は神様と人の前で本物の言葉を語っているのか、と。でも、後ろめたさを持たずに、自信満々で自分の使信をホームページに載せるのも、神様と人の前に不遜である思います。また、語ってすぐの言葉は腐りやすいし、時間をおいて練った言葉は、長持ちします。ホームページで消費される言葉と、人間関係の中で語られる言葉と、普遍的な書き言葉との違いからくる躊躇もあります。使信を語る者が毎週感じているプレッシャーのことを一言申し上げたいと思い、長い前置きになりました。

「あなた方に平和があるように」

今日のテキストでは、復活のイエスが弟子たちに現れた時に、たまたまその場に居合わせなかったトマスが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ります。このトマスの前に再度、復活のイエスが現れるところが、今日の記事のクライマックスになっています。イエスは、疑うトマスをそのままに受け入れるのです。私の手の釘跡に指を当てて、わき腹の槍傷に手を入れなさい、とトマスに語りかけます。イエスは疑いの闇の中にいるトマスのところまで、おりてゆき、自分の傷口をみせるのです。疑うトマスをそのままに受け入れ、そして、思い出させるのです。この傷は誰につけられたのか、この苦しみが誰のためなのか、十字架の一連の出来事は、いったい何であったのかを。イエスが無実の内に捕縛され、不当な裁判にかけられ、十字架刑に処せられてしまったのは、逃げ去ってしまった弟子たちに責任一の端はあったのではないか、祭司長や律法学者たちの権力の乱用を止めることができなかった無力な弟子たち、しかも、イエスの生前の行動と教えを弟子たちはどれほど理解していたのか。。。トマスの疑いを十二分に受け止める復活のイエスの寛容さは、逆にトマスの卑小な姿を顧みさせるのに十分でした。イエスのこの限りない憐みに、トマスは信仰の次元に飛躍させられたのです。自分たちの罪が祭司長・律法学者たちの罪がイエスを十字架に追いやったのだ、と。しかもイエスの言葉は決定的です。「信じない者ではなく、信じる者になりまさい。」トマスは自分の罪をイエスに懺悔して赦されたのではありません。復活のイエスは、最初から弟子たちを赦しています。だからこそ、弟子たちの前に現れたのです。人間の善き行いが先行するのではありません。神の側の赦しがあり、イエスの十字架という苦しみにおいて、神と人との和解が成就したのです。その先行している神の赦しを、わたしたちは「然り」と受け入れれはよいです。赦されることによって、わたしたちは初めて自分の罪の姿を明らかに見ることができ、そこから悔い改めが始まるのです。トマスの「わたしの主よ、わたしの神よ」とは、彼の信仰告白です。圧倒的な神の赦しに自分を託す信仰告白です。

 信じて命を得るために

今日のテキストの最後で、ヨハネ福音書が書かれた目的が述べられます。イエスが神の子メシアと信じるため、また、信じて命を受けるため、と二つの目的が記されています。「信じて命を受けるため」に、イエスは十字架にかかり、そのイエスを神は復活させられました。それは、この地上で生きる一人一人が「信じて命を受けるため」なのです。それに先立つトマスの出来事は、疑い惑い、自分が捕えた確かさにしがみついている私たちの姿、不安の中で孤立している現代人の姿を彷彿とさせます。復活のイエスは、疑い惑い、かたくなな私たちをそのままに受け入れ、そして、“信じない者ではなく信じる者になりなさい”と、今も招いておられます。信じてイエスの名において命を受けるためーこれがヨハネ福音書の書かれた目的なのです。

昨今の日本社会の状況を見れば、真実に生きるということがどれほど困難なことかと思わされます。不正や権力の乱用、文書の改ざんや隠微が横行しているのに、それを明らかにできていない現在です。「信じて命を受けるため」などという言葉は、甘すぎる、そんなことはできるわけがない、と思う私たちも一方でいます。しかし、十字架の死に至るまで、誠実の限りを尽くしたイエスの生き方は、何のためであったのか、を思い起こしたいのです。それは人々が与えられた命を、罪にとらわれるのではなく、罪から解放されて、神の赦しと祝福の内に生きることでした。そのようにイエスを通じて神は私たちを招いておられます。ただそのことに「然り」といい、喜びの内に生きること、を復活の主は私たちに望んでいます。復活節のこの時、私たちは、この招きに答え、信じない者ではなく、信じる者でありたいと願うものです。