3月17日懇談礼拝のレジメ

すでにお知らせしましたが、来週の懇談礼拝は荒井献さんによる「洗礼と聖餐―その起源をめぐって」です。
以下、レジメをアップしますので、関心のある方は、どうぞ、お読みください。
さらに関心のある方は、どうぞ、礼拝にご参加ください。

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まぶね教会懇談礼拝
洗礼と聖餐 ― その聖書的根拠をめぐって ―                                                                       2013/3/17
                              荒井 献

はじめに
 とりわけ日本基督教団において聖餐の成立をめぐり深刻な対立をきたしていることもあって、私は新約聖書における聖餐をテーマに過去5回講演しており、そのうち4回の原稿は公刊されている。

①「新約聖書における聖餐 - 受洗者のみに閉ざすか否か -」『イエスと出会う』岩波書店、2005年所収。
②「新約聖書における「聖餐」再考 - 批判に応えて」『初期キリスト教の霊性 -宣教・女性・異端』岩波書店、2009年所収。
③「「多くの人/すべての人のために」 -滝沢克己の思想射程によせて -」三島淑臣監修『滝沢克己を語る』春風社、2010年所収。
④「聖餐の成立をめぐって」『日本聖書学論集』45、2013年所収。


 今回は、まぶね教会役員会の要請に応じ、また、「未受洗者の倍餐問題を論じる場合は、聖餐と共に洗礼も問題としなければなりません」という、赤木善光(『イエスの洗礼・聖餐の起源』教文館、2012年、240頁)という①②に対する批判に応えて、洗礼との関わりにおける聖餐の聖書的根拠について見解を述べたい。

1.洗礼の聖書的根拠
 イエスはバプテスマのヨハネから受洗したが(マコ1:9-11/マタ3:13-17/ルカ3:21-22)、自ら授洗していない(ヨハ3:22はヨハネの編集句。ヨハ4:2参照)。
 顕現のイエスによる弟子派遣の記事(マタ28:16-20)はマタイの編集句。「父と子と聖霊の名による洗礼を授けなさい」(19節)という文言はその中に出てくる(マコ16:16をも参照。ただし、16:9-20はマルコ福音書への後世の補遺)。
 ルカによれば、ペトロは聖霊降臨後に行なった説教の中で、「イエス・キリストの名において洗礼を受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受けるであろう」と聴衆に勧め、それを受け入れた三千人ほどの人々が「洗礼を受けた」(使2:38,41)。ただし、これらの記事は、ルカ自身の構成である(詳しくは荒井献『使徒行伝』上巻、新教出版社、1977年;復刻版:2004年、171頁以下参照)。
 パウロの場合、彼が回心後に受洗したこと(使9:18, 22:16)は疑いえない。パウロ自身、「(受洗して)聖められた者たち」に向けて手紙を送っており(Iコリ1:2。 フィリ1:1、ロマ1:7をも参照)、コリント教会で授洗しており(Iコリ1:14)、イエスとの共死・共生の思想をその「死への洗礼」として展開しているからである(ロマ6:3-4)。ただしパウロは、「キリストは私を、洗礼を授けるためにではなく、むしろ福音を告げ知らせるために、遣わされた」とも言っている(Iコリ1:17)。
 なおパウロは、この言葉との関連で、ケファやアポロも授洗をしていたことを示唆しているので(同1:12)、この時代(50年代)には成立しつつあるキリスト教会において洗礼が一般的に行なわれていたと想定される。30~50年代の間のいつ・いかなる理由で洗礼が行なわれるようになったのか、正確には資料がないので不明である。佐藤研(『はじまりのキリスト教』岩波書店、2010年、61頁以下)によれば、それはイエスの死に対する弟子たちの「喪の作業」の一つとして開始され、原始キリスト教においてそれが教会への「加入式」として継承された。その際、イエスの受洗に対する原始教会の解釈(マコ1:10並行)が大きな影響を与えたと思われる。受洗による(聖)霊の贈与を含めて「キリストに倣う」儀礼的行為として洗礼式が成立したのではないか。赤木(前掲書、242頁)はこれを、クルマンに拠って、イエスの「総代洗礼」と呼んでいるが、これにはイエスの受洗とその解釈が区別されていない。

2.聖餐の聖書的根拠
 これは、「主の晩餐」の記事である。この記事に関する共観福音書の相互関係は、マタイ版(26:26-29)がマルコ版(14:22-25)に、ルカ版(22:14-20)がマルコ版とⅠコリント版(11:23-26)に、それぞれ拠っており、マルコ版とⅠコリント版はお互いに独立しているので、この両版がマタイ版やルカ版より古いことは、ほぼ定説になっている。この両版のうちどちらにより古い形態が保持されているかについては意見が分かれているが、最近ではⅠコリント版の方を優先させる見解に傾いている。
 パウロがIコリントに聖餐設定辞を引用するに際し、それが語られた状況については、23節の「彼(イエス)が引き渡される夜」以外には沈黙しており、イエスのパン裂きの言葉も「これはあながたのための私のからだである」(24節)といわれているので、それは弟子たち、あるいはそれに重ねられたコリント教会の信徒(受洗者)たちに向けられている、と読むことができる(礼拝における聖餐式でもIコリント版が読まれる)。もっとも、パウロが聖餐設定辞を引用する前の文脈で戒めている、コリントにおける「主の晩餐」の実態(20-22節)から判断すれば、ここでは聖餐と愛餐が区別されていなかった。したがって、27節の「ふさわしないままで」は、岩波版の傍注一三に明記されているように、「18節以下の不当な振る舞いを指しており、しばしば解釈されるように、信者でない者は主の晩餐に与れないという考え方を支持する言葉ではない」(531頁)。
 これに対してマルコの場合、設定辞はイエスと十二弟子たちとの最後の食事に状況が設定されており、この弟子たちは受洗しておらず、この後にユダはイエスを裏切り、イエス逮捕後に弟子たちは皆師を捨てて逃亡し、ペトロは師を否んでいる。いずれにしても、この「主の晩餐」の記事が聖餐の聖書的根拠となった。
ただ、マルコの場合注目すべきは、彼が、イエスの受難・復活物語伝承(14-16章)の前にイエス伝承(1-13章)を配し、全体をイエス物語として編集し、「福音書」を創始したことである。その意図は、エルサレムを舞台とするイエスの受難復活物語をガリラヤで始まるイエス物語との関わりにおいて再読するように福音書の読者に促すことにあった。
私はこの視点から①と②において、マルコは「主の晩餐」物語をも、「五千人の供食」物語(6:32-44)、さらには「徴税人や罪人たちとの食事」物語(2:15-17)との関わりにおいて再読するように促しており、この促しには聖餐が元来受洗者のみに閉ざされていなかったことを示唆していると想定した。
これに対して赤木(前掲書、240頁以下)は、マルコは当然受洗した信徒であり、聖餐を「主の晩餐」に基礎付けているのであるから、これを弟子たちとは異なる「五千人」や「徴税人や罪人」との「愛餐」物語に関わらせることはできなかったはずである、と私見を批判している。
赤木が福音書の編集史的研究に無理解であることは別としても、彼は「受洗」者としての自己に批判的に生きることのできない教条主義者であると断定せざるをえない。
それはともかくとして、私は③で、マルコ版の聖餐設定辞における杯の言葉(24節)に用いられている「多くの人のために」とう句によせて、上記の私見を補強している。
 この句が、イザ53:11-12における「多くの人」を示唆しており、これは第二イザヤにおける「苦難の僕」に重ねたイエスの贖罪死を意味する表現であることはほぼ一般的に認められている。しかも、このギリシア語(ホイ ポロイ)にあたるヘブライ語ないしはアラム語(ハ ラッビーム)は、「多くの個を包含している全体」すなわち「すべての人」を意味し、これはセム語的要素である。とすれば、マコ14:24の伝承においては、Ⅰコリ11:24「あなたがた(・・・・・)の(・)ため(・・)の(・)」とは対照的にイエスの普遍的贖いを暗示していた可能性があろう。
 このような「多くの人/すべての人」の用法を受難物語以前のマルコ本文の中に検証してみると、まず、ここでもイザ53:11-12が示唆されている、マコ10:45(「(人の子は)自分の命を多く(・・)の(・)人(・)の(・)ため(・・)の(・)身代金として与えるために来たのだ」)が注目される。次に、明らかに14:22の「パン裂き」の視点から構成されている「五千人の供食」物語(6:32-43。特に41節/14 :22参照)においては、イエスが「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られ」て「供食」の奇蹟を行なった対象は、彼のもとに集まって来た「多くの者」あるいは「多くの群衆」である(6:33、34)。そして最後に、イエスがファリサイ人たちの律法学者らによって非難されたのは、彼が「多くの徴税人や罪人たち」と共に食事をしていたからである(マルコ2:15-16。ここで「多くの」あるいは「大勢」 が15節で二度繰り返されている)。
 要するにマルコは、「最後の晩餐」物語、とりわけイエスの「杯の言葉」の中の「多くの人」を、イエスがその命を与えるために来た「多くの人」、彼が供食をした「牧人のいない羊のような」「多くの人」、とりわけ彼が共に食事をとった「徴税人や罪人」を含む「多くの人」との関わりにおいて読み直すように読者に訴えているのである。
 とすれば、ここからトランスパレントとなる「罪人との食事」を禁じるユダヤ教のタブーを破ったイエスの振舞いが、「聖餐」成立の基になると想定できるであろう。そして、このようなイエスの振舞いは、「アーメン、私はあなたたちに言う、徴税人と売娼婦たちの方があなたたちよりも先に神の王国に入る」というイエスの言葉(マタ21:31b)に盛られている、彼の「神の王国」理解と相関している。
 もし以上の想定が正当であるとすれば、イエスが語りかけている「弟子たち」の背後には、「多くの人」、とりわけ十字架に至るまでイエスに従い、彼に仕えていたマグダラのマリアをはじめとする女たち、「そして、彼と共にガリラヤからエルサレムに上って来た他(・)の(・)多く(・・)の(・)女(・)たち(・・)」も、マルコの構想の中に考えられていたのではなかろうか(15:41参照)。
 それに対してⅠコリント版は、次の言葉で締めくくられている。「実際あなたがたは、〔再臨の〕主が来られるまで、このパンを食べ杯を飲むたびに、彼の死を宣べ伝えるのである」(11:26)。この言葉における「イエスの死」は、もしこの言葉が伝承(11:23b-25)に対するパウロの加筆であるとすれば、伝承におけるパンを杯の贖罪論的解釈に対するパウロの配慮が反映されているであろう。なぜなら、パウロは贖罪行為としてのイエスの「死」という表現を伝承から受け継ぎながらも、彼自身がその「悲惨さ、弱さ」を表現する際には、「死」ではなく一貫して「十字架」という言葉を用いているからである(青野太潮『「十字架の神学」の展開』新教出版社、2006年参照)。
 いずれにしても、「主の晩餐」において「愛餐」と「聖餐」は切り離されていない。これは、マルコ版における「多くの人のために」という表現からトランスパレントになる、「罪人」を含む「多くの人」とのイエスの共食に通底していよう。
 もっとも、谷口真幸「「多くの人/すべての人のために」の射程について」によれば、「イエスのそばに集まってくる多くの/すべての人(群衆)は、「イエスに従う途上」にある多くの/すべての人(群衆)を意味している(『不可解な結末の復活物語 ― マルコによる福音書16章1-8節の文学的アプローチ試論』ヨベル、2012年、129頁)。これは確かに、マルコ福音書の文学的アプローチによる妥当な結論であろう。しかし、少なくとも「五千人の供食」物語の伝承史的基層において、「多くの人」はやはり難民状態に置かれた群衆と思われる。

おわりに
聖餐を受洗者に限ったのは、2世紀初期に成立した『十二使徒の教訓』(ディダケー)において初めてである。しかし、この文書においてさえ、聖餐と愛餐は分離されていなかった。それらが分離され、聖餐がサクラメントの一つとなったのは、4世紀以後の教父時代においてである(以上詳しくは④参照)。
漸く制度的に成立しつつあった当時のキリスト教共同体が、対外的には異教や異端に対して自己を防御する必要に迫られ、対内的には自己のアイデンティティーを強化する手段として、統合儀礼としての聖餐を受洗者に限ったことについては、時代的・歴史的状況を考慮に入れれば、一定の評価をすることはできよう。しかし、それはあくまでキリスト教がアイデンティティーを確立する手段であって、それが共同体形成のために目的化されてしまったなら、キリスト教における入信儀礼としての洗礼は、ユダヤ教における割礼と本質的には異ならないことになろう。