映画『楽園からの旅人』を見て

前から見たかった映画『楽園からの旅人』をなんとか時間を作って見てきました。これは教会に通う方は必見の映画です。イタリアの片田舎の教会が閉鎖される所から映画は始まります。老司祭が「主よあわれみたまえ」と隣室で必死に祈りを捧げる中、礼拝堂からは十字架や祭壇、絵画、マリア像などが次々に撤去されていきます。特に天井から木製の十字架像が撤去される時、クレーンに吊るされてキリスト像がぐるぐると回り、まるで受難のキリストがもう一度愚弄されているようでいたたまれなくなりました。老司祭も耐えられなくなり教会の鐘を鳴らします。教会管理人はあわてて窓を割って電気室に入り電源を止めて「教会にはもう誰もこない、あなたにもわかっているはずです」と老司祭をたしなめます。教会に通う者にとっては過酷な現実ですが、これがヨーロッパのキリスト教が直面している状況です。教会の礼拝に来る人がいなくなり、売りに出される教会がたくさん出ています。しかし、この教会が教会でなくなった晩に「お客」がやってきます。夜中に「助けてください!」と戸をたたく女の声。けが人がいるらしい。外にはパトカーのサイレンが響いている。アフリカからの不法入国者達らしい一群が、空になった礼拝堂に無断で入りこみ、板や布や段ボールで寝床を作り身を横たえます。出エジプトのイスラエルの民のように。あるいは宿屋に泊る場所のなかったマリアとヨセフのように。聖書の物語を彷彿させる場面が次々に登場します。夜中に父親なしで赤子を産み落とす少女。それを親身に世話しその命を捨て身で守る売買春の女性。老司祭は赤子を見て夜中の祭壇の前で「来たりて拝め」の讃美歌を涙ながらに歌います。老司祭の孤独と難民達の孤独そして赤子のイエスの孤独が響き合うのです。翌日やってきた警察に老司祭は「ここには不法侵入者はいない。いるのは客だけだ」と答えて彼らを追い返します。教会が教会でなくなったその時に教会は教会となるのです。助けを求める放浪の人々の仮の安息の場に。老司祭は「教会は信者のためだけではない。すべての人のためにある」と宣言し「善行は信仰にまさる」と語ります。それに呼応するかのような「この世の秘宝は心ある人々だ」との難民の男の言葉に、監督の現代における信仰理解が現れているようでした。打ち寄せる大波が映画の最初と最後に映し出されますが、今ぎりぎりの命の危機に直面している人類というひとつの命の去来を暗示しているような映画でした。