4月2日受難節第5主日拝案内

4月2日主日礼拝予告

使信:「仕えられるよりも仕えるために」 石井智恵美牧師

聖書:マタイによる福音書20章20-28節


礼拝後、まぶねランチ、伝道社会委員会、礼拝会員委員会、その後、宗教法人責任役員会、定例役員会です。

2017年3月26日礼拝案内

受難節第4主日礼拝予告

午前10時半ー11時半

使信:「光輝く主の変容」 石井智恵美牧師

聖書:マタイによる福音書17章1節ー13節

★礼拝後、まぶねランチ、その後、教会協議会開催。新年度の予算、宣教標語等を
話し合います。

まぶね食堂 2回目開催!

3月18日(土)まぶね食堂第二回目が開催されました。
メニュー:トン汁、だだちゃ豆ごはん、浅漬け、
      デザートにシフォン・ケーキ、ホット・ケーキ、リンゴのケーキの差し入れ。
当日、参加したこどもたちとホット・プレートでホット・ケーキを作りました。
一回目に参加くださった社会福祉法人「アルデンテ」さんが、人参のピューレを献品してくれ
人参入りホットケーキ、あずきとジャム添えとなりました。
 また、小学生と中学生の子供たちが、習っているミュージカルの歌を2曲披露してくれ
雰囲気を盛り上げてくれました。
全体で40名の参加。大人 31名、こども8名 +赤ちゃん 
お米、長ねぎ、ダダ茶豆、お味噌、ホットケーキ、シフォンケーキ、リンゴのケーキの献品がありました。ご協力いただいた皆様ありがとうございました。


オープン・カフェ 開催

2017年3月21日(火) 10時―15時(毎月第三火曜日)

街に春色が加わり心弾む季節となりました。

皆でいこいのひとときを過ごしましょう。

11:30-12:00 生き生き体操(コロバネーゼ) 地域包括センター職員の指導

その後 昼食

12:30~ 桜餅作り(関西風) 皆さんで楽しく作りましょう

軽食 200円 お茶(お菓子付) 100円

いつでも、どなたも出入り自由です。

お気軽にお立ち寄りください。


まぶね食堂 2回目開催します!

2017年3月18日(土) 12時ー14時

まぶね食堂第二回目が開催されます。


メニュー:トン汁、お豆ごはん、+α  

大人 300円、高校生まで無料

ボランテイア、献品、献金 大歓迎です。





次週礼拝予告

受難節第3主日懇談礼拝

使信「世にあって教会は何を伝えるか」


            石井智恵美牧師


聖書:ローマの信徒への手紙14章8b節、15章7節

*礼拝後、交わりランチ、その後「天皇制を考える会」です。

テキスト:樋口陽一・小林節『憲法改正の真実』 12:45頃ー14時終了

使信 2017.02.26

2017年2月26日降誕節第10主日礼拝使信「安心しなさい」
聖書:マタイによる福音書14章22-36節
                                 石井智恵美
活動と一人静まること
本日の聖書個所、有名な水の上を歩くイエスの奇跡に入る前に、注目した言葉があります。それは、22-23節 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。大勢の群衆に囲まれた精力的な活動から退かれて、ひとり祈るイエスの姿です。神とだけになるために一人になるイエスの姿は、見逃してしまいがちですが、よく聖書を読むとたった一人で神と一つとなる時間を取っているイエスがいるのです。しかし、そのような静かな時間も、むしり取られるように群衆が押し寄せてくるのです。それほど、民は疲弊していたし、その人々を憐れむイエスがそこにいました。活動と一人静まること。それはどんな人間にとっても必要なことです。どちらか一方だけでは、その人がその人らしくありえません。活動と休息です。そしてイエスにとって真の休息は神とひとつになることでした。忙しく宣教活動に没頭するイエスにとっても、それは同じでした。忙しい中にも、必ず、神とだけひとつになる時間を求めておられたイエスの姿。私たちは週に一回礼拝の時間を持っています。そしてできれば、一日の内、心を沈めて祈りの時間をもってほしいのです。それが、その日一日を支えてくれます。あるいは一日の終わりに祈りの時を持てば、その日一日を振り返り、自分自身の姿を振り返り、それを神に託して眠りにつき、一日を完成する時を持つことができます。
心を宿す“かたち”
精神が宿るにふさわしい形はあります。活動と休息というリズムを守ることによって、その人がその人らしく生きる力が養われてゆくように、人間を生かす形があります。信仰を養う形はあります。人間を生かす形として、祈りの様々な形式がありますが、私はそれを自分のテーマとして研究と実践を続けてきました。ドイツ留学中も、キリスト教共同体の中でその体験を深めてきました。だから、その実りを皆さんにも伝えていきたいと願っています。
先日、施設に入っているTさんを訪問して、聖餐式を行った時、認知症が進んでいるTさんが、葡萄ジュースをひたしたパンで唇をぬぐって差し上げたら、赤ちゃんがお母さんの乳房を探すように、口を何度も吸うようにして味わっておられました。聖餐のパンと葡萄ジュースの香り、優しく唇に触れる感触、ひんやりとした味わい、それらを通じて、神様の恵みを味わっておられました。そこに込められた愛を味わっておられました。身体的、知的な力が衰えても、心は神の恵みを受け取ることができるのです。そのことをあらためて感じたのです。言葉ではなく儀式を通じて、その方の魂に触れ、魂を感じることの大切さ豊かさを思ったのです。五感を研ぎ澄まして、神の恵みを感じることもまた、大切な信仰の養いではないか、と逆に私たちは理性によってそれを感じる力を弱められているのかもしれません。しかし、人間の成長・成熟とは何かということを考えると、どうでしょうか。理性をせわしなく働かせることを少し休んで、心を働かせ、神の恵みを味わうことで、自分の想いを超えた成長や成熟へと導かれるのではないでしょうか。
「一つになる親しい交わり」
今日のテーマ「安心しなさい」ということも、そうです。「安心しなさい」といくら言葉で言っても、その安心がその人の心の内に芽生えなければなんにもなりません。安心がその人の中で芽生える、それは、祈りの中で神様とつながって一つとされている、という親密さを感じられて初めて芽生えるものではないでしょうか。
理性を中心として、様々なものを区別し分析し整理してゆく力は、日常生活を送る上で大切な力ですが、それによってかえって不安になることが多いのです。安心は「一つになる親しい交わり」、そしてその源である神につながることによって得られます。これは、ジャン・バニエさんという知的ハンデイを持った人たちの共同体「ラルシュ共同体」の創設者の言葉です。知的ハンデイを持った人々にとってだけではなく、「安心」することは、とても大切です。体と心がリラックスして安心すること。それは知的な吟味から生まれるものとは別なのです。
祈りもまた、バニエのいう「一つになる親しい交わり」の源である神へとつながってゆく大切な時間です。
しかし、そこに危うさも生まれます。「一つとなる親しい交わり」の「源なる神」は、カルト宗教、マインド・コントロールとどこが違うのか、そこで、一人一人の信仰を吟味のするが問われます。その時の大切な一つの指標は、誰もが排除されていない、ということ、一人一人が大切にされている、ということであろうと思います。
「安心しなさい、私だ」
さて、今日の湖を歩く奇跡物語を見てみましょう。もちろん、このように湖の上をイエスが歩いたという奇跡が本当に起こったのか、現代人の私たちにはにわかに信じることができません。この物語の中心的な主題は「安心なさい、私だ」という言葉にあります。「私だ」という言葉はギリシャ語で「エゴ―・エイミー」です。何度も語ってきましたが、ヨハネ福音書で何度も語られる言葉「私は道であり、真理であり、命である」とか「わたしは善き羊飼い」とか、「私は~である」という表現と同じです。そして、これは旧約聖書に出て来る「エヒエ・アシェール・エヒエ」という神顕現の表現と同じです。モーセが燃える芝の中に表れた神に、神の名を尋ねた時、神が答えたご自身の名です。「エヒエ・アシエール・エヒエ」直訳すれば「私はかつてあり今あり、これからもあるであろう存在である」ということ。それが神の名である、という。名前は旧約聖書の中でも「本質」を表します。
イエスが「安心しなさい。わたしだ。」と語った言葉は、単に「幽霊だ」と言って、おびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたという弟子たちに、自分の存在を気づかせるためだけではありませんでした。旧約の伝統の中で、神顕現の言葉、神が現れる時の宣言の言葉です。そして、イエスは「恐れることはない」と語りかけます。弟子たちが作り出した恐れと不安、そこから手を放しなさい、と呼びかけています。創世記26:24で神がイサクに語り掛ける言葉。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。」と同じく、イエスを通じて神がそこに顕現している、そのことが表現されているのです。
この「安心」は、出来事として起こるものです。28節以下のペトロが水の上を歩くという行為にそれが現れています。ペトロはイエスが水の上を歩いてくるのに安心して、自分も湖を歩かせてください、と無邪気に頼みます。ここでペトロの中で「安心」が出来事として起こっているのです。イエスを通じて神と一つになる親しい交わりが実現されているのです。
しかし、ペトロは強い風に気がついて怖くなり、おぼれかけてしまいます。「強い風に気がつく」すなわち、自分が捕らえた外側の情報、一つとなった親しい交わりから分かれて、エゴが捕らえた情報に捕まった時に、不安と恐怖が襲ってくるのです。神との親しい交わりから、人間は簡単に離れてしまいます。しかし、助けを叫べばイエスは答えてくださり「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」と叱り、正しい道への引き戻してくださいます。ここで示されている物語の意味は、神と一つなる親しい交わりにつながっていなさい、ということです。そこにおいて私たちの内に安心は、出来事として起こるのです。イエスが舟に乗り込むと、風はしずまった、とあるように、「安心しなさい。わたしだ」という方を心の内にお迎えすることで、安心は出来事として起こるのです。詩編の中で大水の中でおぼれそうになった者を神が救ってくださるように。
33節 舟の中にいた人たちは、「本当にあなたは神の子です」といってイエスを拝んだ。
この信仰告白が起こったのは、不安と恐れの中にあった弟子たちの内に、出来事として安心が芽生えそれに満たされたからでしょう。湖での恐怖の体験から救ってくださったイエスに信仰告白をしたのです。体験が言葉を生み出したのです。
 そして、病人を癒すイエスの短い記事が続きます。イエスたちはゲネサレトというガリラヤ湖の北西岸に、舟でたどり着きます。そこで癒しの業を行いました。水の上を歩くイエスの姿で、神がそこに表れたという記事の後に、力強くまた人々の求めに応えて癒しの業を行うイエスがいます。「土地の人々は、イエスだと知ってくまなく触れ回った。」とあるように、イエスを歓迎している民衆の姿が記されています。そのように苦しんでいる民衆に応えていたイエスの姿が記されています。イエスご自身が神とひとつとなって親しい交わりを生きていました。そこから力を得て、イエスは民衆の苦しみに応える癒しの業を行うことができたのです。
活動と休息。そのバランスをイエスご自身も取ろうとされていました。特に祈りの場に退くことの大切さをイエスご自身が知っていたと思います。そこでご自身が神の内に憩うこと、安心していたからこそ、人々に「安心しなさい」と語ることができたのでしょう。今日、ここに集った皆さんも「安心」してほしいのです。神と一つになる親しい交わりの内に安心してほしいのです。それが出来事として自分の心の内に起こることを、待ち望んでほしいのです。

イエスはいつも私たちの最も深い所で「安心しなさい。わたしだ」と語りかけておられるのですから。私たちもまた地上の最後の日までどんな葛藤の中でもイエスとのつながりの内に安心して生きられますように。

2017年3月12日礼拝予告

受難節第二主日3・11祈念礼拝予告

使信:「命を命として生かす力」 石井智恵美牧師

聖書:マタイによる福音書12章22節ー32節


*次週礼拝後、「聖書を学ぶ会」、節食ランチ、その後 CSスタッフ会です。

まぶね食堂

2月18日(土) まぶね食堂 オープン!


「こどももおとなも一緒にご飯を食べよう!」とまぶね食堂が開催されました。当日まぶね教会の看板の下に、Kさん絵入りの「まぶね食堂」の案内が出されました。当日のメニューは英国仕込みのキーマカレーと野菜サラダにバナナ。好評でした。また、地域のNPO法人「アルデンテ」の方々が、仙台・荒浜地区で育った復興米でお餅を作ってくださいました。あんころ餅、きなこ餅、夏みかんマーマレード餅の3種のデザート。こちらも好評でした。コーヒー、紅茶は50円。お菓子の差し入れもたくさんありました。全体の参加者は41名。おとな33名、こども8名。40食完売。楽しいおしゃべりが花咲いて、地域の方々との良い出会いの場所となりました。ご協力くださった皆様、ありがとうございました!こどももおとなも安心してご飯が食べられる居場所つくりを目指しています。次回は3月18日(土)です。どうぞ、どなたもご参加ください。







礼拝案内

降誕節第10主日礼拝 2月26日(日)10:30-11:30

使信:「安心しなさい」   石井智恵美牧師

聖書:マタイによる福音書14章22-36節

*車椅子対応、難聴者のための磁気ループ、同時文字投影あります

*こどもの礼拝 9:20-10:20 (礼拝9:20-9:50、グループ活動 9:50-10:20)

★礼拝後、まぶねランチ、その後読書会です。読書会のテキストは 荒井献・本田哲郎・高橋哲哉著『3・11以後とキリスト教』 発表部分:1-1 質問6-9 アンソロジー 12:30頃ー14:00終了

















オープンカフェ


オープン・カフェ

第3火曜日10:00~15:00
まぶね教会ホールにて

次回開催日:2月21日(火)

コーヒー・紅茶・緑茶(お菓子付き)100円
軽食(うどん等)       200-300円

11:30  「いきいき体操」(30分ほど)
12:00 昼食
12:30 映画「母と暮らせば」(山田洋二監督・吉永小百合主演)

鑑賞コーヒーの香りの中、教会でくつろぎの時をどうぞ。


まぶね教会
TEL&FAX. 044-988-1104
〒215-0022 神奈川県川崎市麻生区下麻生2-27-30

お知らせ



まぶね食堂  オープンします!


毎月第3土曜日12:00~14:00 
まぶね教会ホールにて
大人300円(高校生まで無料)

初回開催日:2月18日(土)   
メニュー:キーマカレー

こどもも大人もどなたでもご参加ください。宗教の勧誘ではありません。
一緒に食べると楽しいし、そこに見知らぬ友がいるかもしれません。

アレルギー対応はしていません。
できれば、事前にお申し込みください。

まぶね教会
TEL&FAX. 044-988-1104
〒215-0022 神奈川県川崎市麻生区下麻生2-27-30



礼拝案内


2017年1月22日礼拝使信


2017122日礼拝使信「神の国は近づいた」

聖書:マタイによる福音書4章12-17節 

                                                 石井智恵美



今日の聖書個所は、イエスがガリラヤで伝道を始める記事です。

洗礼者ヨハネの捕縛 

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。(12節)

ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・アンテイパス王は弟の妻と結婚し、そのことを洗礼者ヨハネは律法に反するといって批判し、逮捕されます。権力の腐敗が放置され、正しい者が罰せられました。イエスは、ヨハネの宗教運動に加わったことがあるゆえに、ガリラヤというエルサレムから遠い地方へ退きました。イエスはただ身の安全を図って逃げたのではなく、深まる闇の中で宣教活動を始めたのです。ヨハネの捕縛によって希望はついえたのではない、ヨハネからバトンを引き継いで、イエス独自の宣教が始まったのです。

「悔い改めよ、天の国は近づいた」

そして、イエスの宣教の言葉「悔い改めよ、天の国は近づいた」は、「悔い改めよ、なぜなら天の国はちかづいたのだから」と訳しうる言葉です。つまり、悔い改めることによって天の国が近づくのでなく、まず、天の国が近づいている、だから、悔い改めなさい、とイエスは伝えているのです。人間の側の努力が先立つのではなく、神の側がこちらに近づいてくれているのです。“そこに安心して留まりなさい、信頼しなさい。この安らぎと信頼の内に留まれば、自分たちの過ち、間違いがわかるだろう、それを悔い改めなさい”と告げている言葉として読めるのです。

暗闇が深まったその時に、イエスはこの良き知らせを語り伝えました。イエスの思いは、たとえたもとをわかったとはいえ、洗礼者ヨハネの活動が「神の国」につながっていて、彼の逮捕でこの活動を止めてはならないという思いからであったと思います。

「悔い改めなさい、神の国は近づいたから」そこには、神の側からの溢れるばかりの愛が告げられているのです。人間の正義をまず立てているのではない、神の義と平和がそこではまず先立っているのです。イエスの覚悟と勇気、そして、先立ちたもう「神の国」に信頼し、つながって、苦しんでいる人々に述べ伝えたのです。

私たちは、人生の只中で予想を超えた出来事に出会います。先週は、牧師としてかなり深刻な相談を複数受けました。この世の中で、多くの人々が悩みと涙の谷の中で生きているという現実に直面させられました。そのとき、信仰の友からの一言が支えになりました。具体的なことを何か話したわけでもないのですが、「大丈夫、あなたは大丈夫だから」と、確信をもって言葉をかけてくれました。その友人の私への信頼が、本当に温かいものとなって私の心に注ぎ込まれました。「そうか、大丈夫だ、きっと、私の中に力がある」と思わせてくれたのです、私の中に力がある、と。悩みの中に囚われて、くよくよして、自分自身を見失いそうになったとき、友人は大きな目で私をみて、信頼という温かい力を注いでくれたのです。悲しみや苦しみといった感情の波のさらに深い所にある名づけることのできない命の力、一人一人の中にある命の力を気付かせてくれたのです。

イエスは、やはり同時代の人々に心に、神への信頼を呼び起こし、また、傷つき苦しんでいた人々の自分自身への信頼を取り戻させた人だったのでしょう。どんなに闇が深まっても、いや、闇が深まれば深まるほど、イエスが伝えた「神の国」は光輝き、道を照らすのです。だからこそ、多くの人々がイエスにひかれ、生きる力をイエスからくみ出すことができたのでしょう。

■神の祝福の回復

 イエスが開始した宣教は、律法体制の中でがんじがらめになっていた人々の良心を解放してくれました。そして、“罪ではなく神の恵みに、今、ここに来ている神の国の現実に目をとめなさい”ということに尽きると思います。イエスは“自分の小ささや愚かさ、罪深さに目をとめるのではなく、神の恵みの大きさに信頼し、安心して生きてゆきなさい、すべての人が神に愛されている神の子なのだから”と語りかけています。そして、イエスが宣べ伝えた生き方は、世代を超え、時代を超えて、多くの人々に賜物を与え続け、絶望や嘆きの中から立ち上がる力を与え、人生を生き生きと歩んでゆく力を与えて続けています。この信仰の歩みは生涯つづいてゆきます。「神の国は近づいた」というイエスの宣教の始め。それが、どれだけ大きなことを引き起こしてきたでしょうか。どれだけ多くの人々の人生を励まし、力づけてきたでしょうか。
 この「神の国は近づいた」というイエスの良き知らせを受け入れることは、天地創造のはじめに、神は一つ一つの被造物を良しとされた、という祝福の中に生きる、ということでもあります。イエスが宣べ伝えた「神の国」の現実は、まさにこの原初の神の祝福を回復することだから。なんと素晴らしい、なんと美しい、なんと善きもの、この世界に、この命を肯定する神の祝福です。イエスの伝えた「神の国は近づいた」この喜ばしい訪れを信頼して、今週も歩んでまいりたいと思います。

使信 2016.12.25




2016年12月25日降誕節第1主日礼拝使信「主の降誕―光は闇に輝いている」
聖書:ヨハネによる福音書1章1-14節  石井智恵美
                                 
■光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
私たちが人生を生きてゆくとき、人生の道は暗闇と同じように先が見えないということをしばしば経験します。今年は特に、なぜこのようなことがという衝撃を与えられる事件が相次いだ。熊本・大分地震や、東北や北海道の水害、鳥取の地震、世界でもエクアドルの大地震、イタリア中部での地震等、自然災害が相次いだベルギーや、フランスのニース、バングラデッシュ、バクダット、ベルリン、トルコ等世界の大都市でテロ事件が次々に起こりました。難民が世界中であふれ、どのように難民への人道的支援をするのかが国際社会の大きな課題になっています。特に難民が殺到しているEUが限界に達していると言われます。闇としかいいようにない状況の中で、私たちは光を求めます。私たちの心の中に在る闇と光は、常に葛藤を繰り返しています。わたしたちは闇が深ければ深いほど、より強烈に光を感じます。だから闇を闇として感じることは、光をより鮮明に感じるためにも必要なことなのでしょう。もうこれ以上見たくない、と目を閉じてしまうことこそが、むしろ前に進むことを阻むことになるのでしょう。そのような時に、今日のこの言葉は大きな支えになります。「光は闇の中で輝いている。」後半は「闇は光をとらえなかった」「闇は光を阻むことはできなかった」と訳すこともできます。ヨハネ福音書の言葉は、決して闇はなくなることはない、闇と共に光がある、しかし、光は闇に飲み込まれはしない、キリストはそのような方として、この世に来られた、と伝えています。闇は厳然としてある。それでよい。光として来られた方は、この闇につかまれはしなかった。闇と共に、しかし、闇に飲み込まれずに、光である主と共に、光に照らされながら生きてゆく、それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。
■しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(12節)
 イエスをキリストーすなわち自分の救い主として受け入れる人々には、神の子となる資格を与えた、とあります。「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」血筋や家柄や社会的な地位や貧富の差など、一切関係がない、と言い切っています。イエスをキリストと受け入れる人々は、「神によって」生まれたのである、と。本当は神よって創造されたすべての人が、そうなのです。しかし、イエスを信じる人々はより明瞭にその事実が現れます。だからこそ、その事実に立って生きているかどうかを、振り返る必要があるでしょう。私たちキリスト者は何度も立ち止まり、振り返り、「血筋や家柄や社会的な地位や貧富の差など」この世的な名誉、不名誉に振り回されていないか、無意識のうちにそのような価値観に染まっていないか、確認する必要があるでしょう。神によって生まれた人々として、私たちは生きているだろうか、と。まったくの無償で、御子イエス・キリストが私たちに与えられました。その神の憐れみと慈しみを深く味わうのが、クリスマスの時です。
■ 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。(14節)
永遠なるキリスト、万物に先立って父なる神と共に万物を創造されたロゴスなるキリストが、小さく無力な赤子として、「肉」となって誕生しました。その神秘を祝うのが、クリスマスの時です。サルクス―肉、と言う言葉は人間の弱さ、もろさ、はかなさを含んだ言葉です。その弱さ、もろさ、はかなさ、の中にこそ、永遠のロゴスなるキリストが宿られたのです。ここで「栄光」と言う言葉は、ギリシャ語で「ドクサ」という言葉。このドクサは、ヘブル語のカヴォ―ドと言う言葉を下じきにしています。ドクサは、栄誉、尊敬といった意味ももっているが、カヴォ―ドのもともとの意味は、「重さ」を表します。社会的な名誉とはもともと関係のない言葉。そこから、尊厳、偉大さ、威光等に訳し得る言葉です。押田成人神父の訳は「やさしい光に満ちた存在の重さ」としている。「栄光」というと、やはり社会的な名誉というニュアンスを含みます。対社会的な関わりではなく、存在そのものの尊厳。それを私たちは見た、とヨハネは語ります。永遠なるロゴスが弱く、もろく、はかない肉に宿られたこと、それこそが「優しい光に満ちた存在の重さ」、神の憐れみと慈しみの尊厳なのです。
今日わたしたちは共に聖餐に与るが、もう一度、イエス・キリストの生涯全体が凝縮されている聖餐を思い起こしましょう。「これが私のからだである」と、パンを裂いて皆の前に差し出しました。パンそのものよりも、パンを裂く、という行為に意味があった、と私は考えます。最後の晩餐で、パンを裂くーそれが私の体だ、と言うことは、自分の身が裂かれる、非業の死を遂げることをイエスは予感し、愛する弟子たちと共にそのことを分かち合ったのです。イエスはしかし、非業の死を恐れてはいましたが、そこから逃げようとしませんでした。たとえパンが裂かれるように自分の体が裂かれても、永遠なる神の愛がそこに燦然と輝いていることをイエスは示しました。人間として恐れはあったはずです。しかし、神の愛と人々への愛ゆえに歩んだ彼の生涯に後悔はなかったでしょう。そのすべてを神は良しとされているという確信があったからこそ、十字架の道を歩み抜くことができたのでしょう。そのような生涯を歩んだイエスの誕生―クリスマスには、光と闇が共にあり、闇の中で光が輝いています。私たちは闇に直面しても恐れることなく、その闇の中でこそ輝いている光を探し求めましょう。そして、闇の中で私たちもまたキリストの光を灯し続けましょう。その力は、クリスマスの主であるイエス・キリストから必ず与えられます。クリスマスの出来事は私たちにそのような希望を告げてくれています。クリスマスおめでとうございます。

使信 2016.11.06


<2016年11月6日降誕前第7主日礼拝使信「神の民の選び」>
聖書:創世記13章1節―18節 石井智恵美

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/私が示す地に
行きなさい。/私はあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高
める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪
う者をわたしは呪う。/地上のすべての氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。(創世記12:1-4)


                                             【永眠者記念礼拝の写真】

■かけがえのない人からの励まし

本日は永眠者記念礼拝です。
天に召された兄弟姉妹のことを思い起こす時は、一つ一つの具体的な出来事を思い起こします。私たちがその人々との関わりの中で、豊かにされ、助けられ、教えられたことを思い出し、心が温かくなり、また悲しみに満たされます。
それはその人を心から愛していたしるしです。その人のかけがえのなさは、何によっても埋めることができないのですから。心から愛していたその人々のその生き方から、今いのちを与えられている私たちは、よりよく生きることへと励ましを受けます。そのことを思い起こすために、私たちは今日、ここに集まりました。
それぞれの人生の中で、神がその人に呼び掛けた出来事が必ずあったはずです。信仰の父・アブラハムに神が呼び掛けたように、その人その人に固有の呼びかけがあったはずです。アブラハムの生き方を思う時に、聖なるもの、真実なるもの、混じりけのない純粋なもの、と私たちはどれほど出会っているか、そして、それに従って生きているか、また、神から与えられた命を、十分に輝かせて生きているか、自分と隣人を生かすために本当に用いているかどうか、あらためて問われます。逆に、与えられた神の命をゆがめたり、嘘をついたり、曲がった方へと進んでいないか、問われています。

■亡き人と出会い直す

天に送った兄弟姉妹との様々な思い出を携えて、皆さまはここに集まったことでしょう。後悔の思いをも持たれている方もいるかもしれません。あの時なぜもっと優しい言葉をかけられなかったのか、どうして、傷つけてしまったのだろうか、と。でも幸せな思い出、美しい思い出も多々あることでしょう。後悔の思いは、神様に託して、赦してくださいと祈り、また、幸せな思い出にはそれが与えられたことに感謝をして祈りましょう。
そのような故人との対話の中で、私たちは与えられた人生の時をよりよく生きてゆくように成熟させられてゆきます。折々の故人との対話の中で、ああ、あの時の出来事はこういうことだったのか、と故人と出会い直します。そこにまた、人生のだいご味があります。そして、今、私たちに与えられているいのちが、奇跡のようなものだと知らされます。
神がアブラハムを選び、祝福したように、私たち一人一人に神の選びがあり、祝福がある。一人一人に託された神からの使命があります。生きている限り、それが一体何かと問い続け、自分の思いではなく、神の御旨がなるように、とそこへ向かって一歩一歩、歩んでゆきます、すると、その人だけの美しい軌跡が、記されているのが私たちの人生ではないでしょうか。人生はわたしたちの思いを越えています。そこにこそ神の恵みがある。
そのことを信じることができる人は、苦難の中にあっても強くなれます。

■亡き人のまなざしが導く

いのちは「意味」を越えています。人間の側からの意味付けなどを越えて、私たちに与えられているものです。人生を生きることは決してきれいごとではありませんが、醜さ、
弱さ、みじめさをもすべて含めて、いのちです。
時にきらめくような美しさも輝かせるいのちです。
イエス・キリストはすべての人のために死なれました。それはすべての人を生かすために死んだということです。そして復活なさった。信仰者の歩みは、すべての人を愛されたイエスの生き方に従ってゆくものです。今日、永眠者記念礼拝の時、天に召された兄弟姉妹のまなざしが、生きているわたしたちに注がれています。そのまなざしがまた、わたしたちをより良い生へと導いてくれています。生前の交わりを心より感謝し、その思いを祈りと共に神へ捧げましょう。